16. さいごに

(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 
以下は雑記である。

16-1    成功体験

「成功体験は怖い」という話を身近な所で何度も聞いたことがある。成功体験は過去の成功に囚われて、状況は異なるのに過去の成功事例を自信を持って再び当てはめようとして失敗する。日本にとって日露戦争は、強烈な成功体験だったのだろう。しかも日本海海戦でほぼパーフェクトな勝利を得たため、それが世代を超えて受け継がれることとなった。その戦争の当事者たちよりむしろ後世に産まれた人々の方が、語り継がれた物語によって成功体験が強化されていたかもしれない。

太平洋戦争において日本軍の主要な戦略を占めた艦隊決戦は、日本海海戦の中部太平洋での再来を期待していたように見える。しかし、戦争技術を巡る環境は、第一次世界大戦を契機に3次元での戦いとなり、大きく変わっていた。それに対する理解と対策が全く足りなかったと思う。また技術だけでなく、日露戦争の時は日英同盟があり、その他の国々は日本に好意的か中立に近かった。むしろ国際情勢はロシアの方が不利だった。それが見えない形で日本に有利に影響していた。

ところが太平洋戦争は、まず日本は国際連盟を脱退した上に、中国へ侵略して欧米を敵に回したため、国際情勢としては孤立して四面楚歌の状況だった。それでも艦隊決戦で米国艦隊を打ち破れば、なんとかなるという考えは、客観的に見て果たして適切だったのだろうか?そして艦隊決戦だけに焦点を合わせて、艦隊や航空機などの軍備をそれだけにチューニングした。日露戦争の都合が良い部分だけを取り出して成功体験化したようにも見える。

16-2    備えよ常に

私はボーイスカウトの活動に関わったことがある。ボーイスカウトという制度は20世紀初めにイギリスで生まれた。子供の育成が目的だが、その参考となったものは「スカウト活動」、つまり軍などによる偵察活動である。もちろんボーイスカウトでは、子供たちに軍事活動を教えるわけではない。しかしスカウト活動には、自然の中でのテント張りや自炊を含む野営の仕方、地図を使った行動などの屋外活動や団体行動を通して、人間が生きる上で基本となる活動の部分がある。ボーイスカウトは、子供たちをそれらに触れさせるのが目的である。

なぜボーイスカウトの話をするのかというと、その活動理念の一つに「be prepared」というものがある。これは日本では「備えよ常に」と訳されて、ボーイスカウト活動の標語の一つとして広く共有されている。私はこの標語は「備えよ」の方に重点があると捉えている。つまり、「何か活動を行う際には、事前に十分な準備を行ってから」ということである。実際にボーイスカウトの活動には、指導者たちには実施計画など、事前に十分な準備が毎回求められる。例えば、どこかに出かけて活動する際には必ず下見を行う。毎年行ってよく知っている場所でも必ず下見に行く。何かが変わっている可能性があり、子供たちの安全を確認するためである。

ところが、このガダルカナル島での戦いを見ると、引いては太平洋戦争全般を見ても、準備をほとんどしていない戦いをこちらから始めたように見える。これまで述べてきたように、英米などの複数国を相手に戦いながら南方の資源地帯と本土の両方を守るような方針は、戦前の国防方針や国策要領にはどこにも書かれていない。当然、軍備もそれに対応していない。なぜそのような想定していない戦いをこちらから仕掛けることになったのか?それにはいろんな議論・経緯があろう。

当初の真珠湾奇襲と南方の資源地帯の占領までは、それまでの準備でなんとかなったが、それから先の戦略や軍備、つまり南方資源地帯の防衛や海上護衛戦の準備がなかったために、その甘さを突かれて最後は破綻したともいえる(もちろん戦争を終結させるための自発的な戦略もなかった)。ガダルカナル島での悲惨な戦い(とそれ以降の南方での戦い)も、想定や準備がなかった南方資源地帯の防衛を急遽行うことになったための延長と考えると、この戦いの理由が見えてくるのではないかと思う。

16-3    生還なき転進

「生還なき転進」(著者:蓬生孝、光人社NF文庫)という戦記がある。舞台はニューギニア西部である。この戦記には、敵からの攻撃を受ける場面はない。それどころか敵機も敵艦も出てこないし、銃砲弾を撃ったり受けたりする場面もない。つまり戦闘シーンは一切ない。記されているのはマクノワリからイドレへの移動のために、ひたすらジャングルの中を必死で自活しながら行軍する状況だけである。

これは「イドレ死の行軍」とも呼ばれている。イドレに蓄積してある食糧(澱粉)で自活するために約1万の兵士がジャングルの中を約200 km先のイドレに向かって行軍した。しかし、約3か月かかってわずかな兵士が到着したイドレには、そのような食糧はなく、結局行軍した兵士の内約8800名が、途中であるいは到着後に亡くなった。これは結果として、近代人がいきなりほとんど準備もなく未開のジャングルに放り込まれて、どうやって生き抜くかというサバイバル談になっている。しかし、これは軍命令で動いているので、れっきとした戦記である。有名なインパール作戦では数割の帰還者がいたために、作戦の悲惨さが広まった。しかし、ニューギニアではほとんどが亡くなり、帰還者がわずかだったため、逆に悲惨さが知られていないという話もある。

太平洋戦争中では、ガダルカナル島だけでなく、インパール、ラモウ、フィリピン、そしてニューギニアなどの数多くの地域でこのような飢餓が各地で起こった。しかし、なぜこのようなことが起こったかというと、何度も書くが、それは艦隊決戦のみの軍備と航空戦への無理解のまま、南方資源の確保を目的に英米蘭に対して想定のなかった戦いを突如挑み、資源地帯と本土の防衛のために、適切な戦略・戦備がないままに各地に兵を派遣したからである。結局、航空機と潜水艦による交通遮断によってこれら多くの地域で補給が困難となり、派遣された多くの兵士たちは、ジャングルなどの土地で飢えるか現地自活を強いられた。大半の兵士は戦争どころではなかったのではなかろうか?派手な戦闘に目を奪われがちだが、太平洋戦争は飢えとの戦いが多かったことと、なぜそうなったかを知っておくべきだと思う。

16-4    戦略シミュレーションゲーム

私は一時期、戦略シミュレーションゲームにハマっていた。私の輸送や補給に関する考え方は、その影響を受けている。私がやっていた戦略シミュレーションゲームは、まさに太平洋戦争を模したものだった。このゲームのかなりの部分には、よく知られた戦闘・補給理論が組み込まれていると思っている。

このようなゲームは一部のシューティング系のゲーマーには不評のようだが、経済を含めた戦争の理解には一定の効果があると思っている。例えば、ラバウルで航空戦を展開しようと思えば、まず南方資源地帯から石油を日本本土に運んで精製し、それをラバウルまで輸送しなければ飛行機を飛ばせない。また現地にいくら飛行機や石油があっても、整備や設営の部隊がいなければ、活動は制限されてしまう。

このゲームでは、資源を本土に運んで大量の航空機と搭乗員を養成して現地まで輸送し(それがそう簡単ではない)、多量の航空戦力で敵の航空基地を叩いて無力化し続け、また敵の空襲を多くの迎撃機で防がなければ、基地の航空機や滑走路、部隊は破壊されていく。そうなると、基地は拠点として機能しなくなる。その結果、最後は敵の上陸を許すことになる。

そうならないようにするには、資源、人材養成、生産、移動手段の確保と実際の輸送、そして、それらをどこに集めるのかという戦略が必要になる。しかも、輸送や生産、人材育成には時間がかかる。敵が攻めてきてから行動を起こしても手遅れとなる。私は上記の多くの要素について1か月後にどこに何が到着しておく必要があるか、そしてそのために日本本土で今何をしておく必要があるかを、抜けがないように紙に書き出してゲームをしていた。これは戦略シミュレーションゲームの複雑な面の一部だけを説明している。

もちろん現実の戦争はもっと複雑だろうが、このような戦略シミュレーションゲームでは、少なくとも石油や鉄などの戦争資源を各地から集めて、飛行機や船や陸上部隊(整備隊や設営隊を含む)などの攻撃力を日本本土で養成して、先を見越して必要な場所にそれらを予め輸送して集中させていないと、ゲームではあるが戦争に勝てない。

戦前にも戦術レベルではこのようなものを使った図上演習が軍で行われていたが、戦争全体を模するようなものはなかった。戦前にこういうものがあれば、戦争指導者たちの戦争観は違っていたかもしれない。

16-5    感想

この長い解説をここまで辛抱強く読んでいただいた方々に感謝する。最初に述べたように、私は戦史の専門家ではない。これまで述べてきたことの多くは、既に指摘されてきたことを、新たな文脈で分析を行ったり肉付けしたりしたものである。それはいろんな角度から歴史を見直すという意味で、意義はあると思っている(歴史とはそういうものと思っている)。またFS作戦をラバウル占領に引き続いていやっていれば?のようないくつかの戦略・戦術についての仮定のシミュレーションのようなものにも触れてみた。もちろん、「もしも」のような仮定の話に大きな意義があるとは思えないが、思考の訓練程度にはなるだろう。

ただ、こういった解説には私の思い込みや事実誤認が入っている可能性がある。もしそういったことに気づいたら、遠慮なくコメントをいただきたい。私のマインドは科学者なので、真理の追究にある。自分が書いたものが常に100%正しいとは思っていないので、もし指摘を受ければ、感謝すると共に積極的に修正していきたいと考えている。

これまで述べてきたように、ガダルカナル島という南半球の密林に覆われた孤島、という戦争に不向きな場所で、なぜ補給も満足に行えないままに作戦や戦闘が行われたのか?それは、戦争を起こしてしまったからそうなったのは仕方がない、では済まない問題だと思う。開戦論者たちはこのままだと「じり貧」になるのを避けると言いながら、結果は山本五十六が言う「ドカ貧」になってしまった。戦争指導者たちが、誤った戦争観を持って想定外の戦争を始めたため、その結果、ガダルカナル島だけ見ても、大勢の兵士たちが過酷な環境に置かれて、次々と餓死、病死していった。これは戦略以前の問題である。ある意味で戦争になる前に戦争に負けている。

戦争を肯定しているわけではないが、少なくともこのような戦争になることを見通せなかった戦争指導者たちの責任は大きいと思う。また14-5節の「総力戦とは」で述べた思想統制のようなもの、あるいは繰り返し吹き込まれた過去の成功体験が国民の思考を歪めて、国民が戦争を推進した面があったかもしれない。

ところで、真珠湾攻撃の隊長だった淵田美津雄は、米国人について面白いことを言っている。戦後彼が訪米した際に、キリスト教の影響が強い米国では、少なくとも当時は神に対して謙虚になる気質がどこかにあると彼は感じたようである。それがどこかで人間が傲慢になるストッパーになっていたのかもしれない。ちなみに渕田はその後キリスト教に改宗している。現代では、例えば車の煽り運転を見ても、人間の傲慢さは昔よりはるかに強まっているように感じる。技術が進歩して人間にとっての不便さが少なくなり、多くの事が人間の思い通りになってきている現代を指して、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ハラリは、「ホモデウス(ゼウス神になった人間)」という本のタイトルで示しているし、20世紀のスペインの有名な思想家ホセ・オルテガは人間の「全能感」あるいは「万能感」という言葉で表現している。それが不寛容な時代になっている一因かもしれない。

戦前から日中戦争以降の状況をおかしいと感じていた高級軍人たち、あるいは政治家たちはいた。しかし、彼らは主要な意思決定に加われず(つまり出世できず)、意見を上げても意思決定者たちはそれを取り上げなかった。私はいつの時代も生まれてくる人々の多様性は同じだと思っている。ただし時代によって意思決定者まで上り詰めることができる人々は異なるのだろう。当時、なぜあのような戦争を始めるような判断を下す人々が、意思決定者に上り詰めたのだろうか?そしてなぜそれが可能な国家体制になってしまったのだろうか。そして、それは今では改善されたのだろうか?そこまで掘り下げないと、国家レベルの戦争を含めて、いろんなレベルでいろんな問題が今後起きないとは断言できないと思う。

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