(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)
この解説は、第二次世界大戦において、南半球南東太平洋にあるガダルカナル島で起こった攻防の初期を解説したものである。現代のインターネットのメディアでは、短い動画が主流で、このような文による長編の解説文は時代にそぐわないだろう。しかし、当時ガダルカナル島で何が起こっていたのかを詳細に記そうと思えば、書き物にするしかない。既に数多くのガダルカナル島戦に関する書籍がある中で、この解説を行う狙いは1-2節で述べる。一気に通読する必要はなく、興味のある場所から少しずつ読んでもらえれば良いと思う。
この解説は、そこで何が起こっていたのかを、多くの文献に基づいてできるだけ詳しく客観的に記述したつもりである。これまでもガダルカナル島戦を記した数多くの書物があるが、それとは違った視点でのガダルカナル島戦を、少しでも知ってもらえたらと思う。この解説を、当時そこで戦った日米の勇敢な英霊と共に、(戦史を含む)歴史が好きで好奇心旺盛な方々に捧げたい。
各章の見出しを示す。各章はさらに細節に分かれている(詳しくは目次を見ていただきたい)。
1 はじめに(このブログ)
2. ガダルカナル島での戦いが始まるまでの経緯
3. 米軍海兵隊の上陸
4. 海軍基地航空部隊の活動
5. 米軍による飛行場の整備
6. 一木支隊先遣隊による戦闘
7. 一木支隊第二悌団の輸送
8. 川口支隊の輸送
9. 日本軍の戦略の転換
10. 川口支隊による飛行場攻撃
11. 川口支隊攻撃のまとめ
12. 米軍のガダルカナル島上陸のまとめ
13. その後からガダルカナル島撤退までの概要
14. なぜガダルカナル島で?~戦前の防衛方針~
15. 日本海軍の航空戦への理解
16. さいごに
(参照文献は、各章の最後か右の参照文献のページを見てください)
この解説は9月の川口支隊の攻撃失敗までで終わる。その理由については、ガダルカナル島の攻防は、そこまでで本質的に決着が付いたと思っているからである。詳しくは1-4節に記している。
1-1 この解説の信頼性
私は戦史研究の専門家ではなく、当然、私には戦史に関する権威(肩書き)はない。そのため、ここに書かれたものは、権威によって信じるのではなく、読者が読んでみて自ら判断してもらうしかない。脳科学の本によると、判断というのは最も脳が労力を使う(つまり疲れる)作業で、嫌がる人が多いそうである(権威に無条件で従う方が楽である)。ただ、私は博士号を持つ自然科学の研究者であり、客観性を重視する科学論文の書き方には精通している。そのスタイルには従ったつもりである。判断の根拠となるように、重要な事実の部分には文献を示し、主観的な推測の部分にはそうであることがわかるようにして、できるだけ客観性を重視したつもりである(後で出てくるように、ガダルカナル島戦での日本軍の判断には主観的なものがいかに多かったことか!)。太平洋戦争のことを記したこの解説は、当時を生きていない私にとっては基本的に公開情報に基づくしかないので、科学論文で行うように重要な事実には参照した文献を記している。こういったやり方は、昔の記録を用いてはいるが、オシントの一種と言えるのかもしれない。OSINT(オシント)とは「Open-Source Intelligence」の略語で、一般的に入手可能である公開情報を収集、評価、分析を行うことで意思決定のための洞察を作り出す手法を指す。現代を生きる何かの参考になればと思う。
なお、米軍側の主な資料は、陸軍省が出版したJohn Milter, jr.著、GUADALCANAL: THE FIRST OFFENSIVE(1995、初版1949)と海兵隊情報部が出版したJohn L. Zimmerman著、THE GUADALCANAL CAMPAIGN(1949)に依った。
ただし、GUADALCANAL: THE FIRST OFFENSIVEには、およそ次のように書かれている。「ガダルカナルで作戦を行った際には、陸軍省の歴史プログラムはまだ確立されておらず、この作戦の記録を作成する歴史記録者は同行しなかった。個々の将校や兵員へのインタビューは、戦闘が終わってからかなり経ってから行われた。また、ガダルカナル作戦の公式記録は、連隊または大隊毎に断片的に派遣されたため、まばらで不十分なことが多い。また当時の軍の指示はきわめて単純で非公式なもので、口頭で行われた。」そのため、この記録が完全ではない可能性がある。また海兵隊による資料の方にも同様なことが書かれている。それ以外のいくつかの資料も参照文献に含めたが、その多くはサミュエル・モリソン著の有名な「太平洋戦争アメリカ海軍作戦史」に依っている部分があると思われる。
日本軍側の資料は、主に戦史叢書シリーズに依った。ご存じの通り、これは戦後かなり経ってから作成されたものである。軍の命令書や記録など終戦時に焼却された物もかなりあり、聞き取りも戦後かなり経ってから行われた。聞き取りの内容によっては、それぞれの証言が矛盾している場合がある。しかし、日本側で作られた公式の戦争記録としては、これが最善の物だと思っているので、資料には不十分な部分があることを念頭に置いて読んでもらいたい。また、戦史叢書シリーズ以外の公式の記録やそれ以外の資料も使用している。それらも使った部分で参照文献として示している。
1-2 この解説の狙い
戦争において、根拠地から遠く離れた場所で戦うためには、現地の状況を把握した上で、戦うために必要な兵士、兵器、物資、物資を、国内や資源地帯から根拠地に集めてから、輸送手段を準備して送らなければならない。しかもそこが海上の島であれば、移送手段は多くの場合は船となる。
ガダルカナル島の場合、状況に応じて日本本土で物資を調達し、船に積載してトラック島やラバウルを経由して現地に到達するまで1か月以上は必要となる [1]。これは米国にとっても同じである。この輸送に時間がかかることが、ガダルカナル島での戦いのポイントの一つとなる。戦闘には多くの物資が必要であり、そのため、ガダルカナル島のような遠隔地での戦闘は、事前の入念な計画(準備)と物資の集積、および時間がかかるそれらの輸送の成否によって勝敗が決まるといって過言ではなかろう。このもどかしさは、日本近辺や大陸での戦闘では考えられないほどである。
ガダルカナル島は、日本から遙かに5千キロメートル以上離れた南半球にある、密林に覆われた小さな島である。この遠さは米国の根拠地(サンフランシスコやハワイ)からも同様である。この当時、日本はミッドウェー海戦で大型空母4隻を失ったとはいえ、それ以外の戦力ではまだ米国を凌駕していた。ガダルカナル島での戦いにおいて、日米はどういう補給を行って、それが戦闘にどう影響して勝負が決まったのだろうか?
ガダルカナル島をめぐる戦いには既に多くの著作がある。それらの多くは数次にわたるソロモン海戦や南太平洋海戦などの海戦に関するものや、ガダルカナル島でのいくつかの大きな陸戦に焦点を当てたものが多い。しかし、防衛研究所の齋藤達志氏は、「同島を『餓』島といいかえるほど補給の不備を強調するものはあっても、実際になぜ補給が不十分となったのか、実相はどのようなものだったのか、について体系的かつ具体的に述べているものは見当たらない。」と述べている [1]。確かにガダルカナル島の戦いにおいて、補給の実態に焦点を当てた物は少ない。
米軍はガダルカナル島上陸から約10日間で飛行場の利用を開始した。極論すると、この時点で勝負はついたともいえる。ただし米軍も物資に困窮しており、その後も双方の補給戦は続いた。その結果によっては、まだ勝負がひっくり返る可能性があった。そのため、ガダルカナル島戦の初期において、それぞれの海戦や陸戦の相互関係を、輸送や補給を含めて、3次元に重点を置いて見てみたいと思った。なおここで補給とは、物資だけでなく戦力の輸送も含めている。しかもガダルカナル島には港湾施設がない。そのため島に補給物資を送るには、次の1-3節で述べるように特殊な輸送方法が必要となる。
上陸戦(水陸両用作戦)とそれに連なる戦いという特殊な戦闘に焦点を当てるため(上陸戦については次で説明する)、タイトルは「米軍のガダルカナル島への上陸」としたが、ガダルカナル島を巡る初期の戦いは、日米双方の戦争に対する考え方の違いも示している。それが補給に現れているので、補給を通してその考え方にも触れてみたい。
さらに、ガダルカナル島で起こった戦いは、今ではそこでの戦闘が当たり前だったように頻繁に語られている。しかし、同島は日本から見て5000 km以上も離れた南半球の、現地住民しかほとんどいない密林に覆われた資源もない辺鄙な島である。なぜこのような島が、日米双方とも当時の戦力の大半を投入して多数の戦死者を出す激しい戦場になったのだろうか?ガダルカナル島で激しい戦いが起こることは、開戦時から想定されていたのだろうか?太平洋戦争に詳しくない方々は、これを不思議に思う方もおられるかもしれない。そのため、なぜガダルカナル島で激しい戦いが起こったのかという理由についても、第14章で考えてみたい。
1-3 孤島での上陸戦とは?
ガダルカナル島は絶海の孤島ではないが、付近の島々もほとんど密林で人口も少なく、行政府があった少し離れたツラギ島を含めて、ごく少数の白人の牧師や椰子園経営者、行政関係者を除くと、住んでいるのは現地住民だけだった。ツラギには小さな港があったが、付近を含めて物資輸送の拠点となる大規模な港湾施設などはない。ツラギ島から南に約30km離れたガダルカナル島には日本軍が小艦艇用の簡単な船着き場を仮設していたようだが(船着き場は米軍上陸時に破壊された)、それ以外に海岸には何もない。そのため、ガダルカナル島に対して孤島という表現を使う。拠点となる補給基地が近くにない孤島では、補給基地から少しずつ物資を船で反復して輸送することが出来ない。船団を組んで遠くから補給するしかない。そのため、その補給のための輸送の成否が戦闘を左右することになり得る。そこが孤島ならではの戦いの独特の特徴となる。
もう一つの島での戦いの特徴は、海岸での物資や人の船からの揚陸である。もちろん、港や埠頭などの設備があれば問題ないが、ガダルカナル島にはなかった。そうすると、揚陸には沖で大型船から物資をクレーンなどで小型の上陸用舟艇に移し替えて、その舟艇が砂浜に乗りつけから、積載した人や物資を海岸に揚陸(荷役が必要になる)する、という複雑な作業が必要となる。そして、必要な物資が海岸から所定の安全な場所へ移送されて、ようやく輸送は成功となる。
海岸では、大気(気体)と海水(液体)と陸地(固体)という全く性質の異なる3つの相が接するため、天候によってはさまざまな衝撃が発生する。2024年4月14日に茨城県大洗で海上保安庁の小型ボートが転覆して、4名が負傷した。NHKのニュースによると、当時の風速は3m/s、波の高さは2mだったという。風速3m/s(瞬間ではもっと強かっただろうが)は陸上ではたいした風ではなく、海上においても荒天とは言いがたい。しかし、海上保安庁という海難救助のプロでも、状況によっては海岸でこういう事故が発生する。
遠洋航海に適した喫水の深い船は、港のない浅い海岸には近づけない。風が凪いで海が静かであれば、沖で大型船から貨物(人員)を喫水の浅い小型船に移し替えて砂浜に揚陸はできる。しかし、少しでも風が強まれば状況は一変する。高まった波と風によって小型船は翻弄される。そうなると海岸で揚陸が出来る状況ではなくなる。場合によっては小型船は遠く流され、岩礁などに叩きつけられれば粉々となる。大きな船でも流されれば座礁する場合がある。人間の力ではどうやってもそれを回避する術はない。
大陸に向けての上陸作戦であれば、敵の防御が薄い場所を選んで上陸してから、敵の防衛拠点へ向かうことができる。しかし、狭い島嶼では上陸可能な場所は限られている上に、守備側もそこを重点に守っている可能性が高い。そのため島を奪取するには、敵が守っている正面に強襲上陸するしかない。海兵隊ではこのような状況での上陸を想定して、長年かけて敵前強襲上陸のための装備の研究・準備を行っていた。
米軍ではそれを水陸両用作戦(amphibious operation)と命名した。そして後述するように、1920年代から、主に海兵隊が日本との戦争を見越して、太平洋の島々を想定した水陸両用作戦用のドクトリンや装備を開発してきた。そして太平洋戦争に入り、ガダルカナル島とツラギ島への上陸で、それを初めて実践した。なお、「上陸作戦」は敵地に上陸する前後を焦点とし、「水陸両用作戦」は上陸前の広範な海空作戦から作戦終了後の撤退までも含む広範な概念 [2]、として使い分けられている場合があるが、ここでは水陸両用作戦と上陸作戦を使い分けていない。
1-4 この解説の範囲
日本軍は、日中戦争において杭州湾上陸などを行った。第二次世界大戦初期において、本格的な上陸戦の要領や装備を持っていたのは、米軍と日本軍だけだった。その両者は、南太平洋のガダルカナル島とツラギ島でどのように戦ったのだろうか?さらに、孤島での戦いは、戦闘のための兵員や火砲・食糧などの装備や物資の海上輸送と、その揚陸が勝敗を決める大きな要因の一つとなる。その場合、陸上と異なってその隠匿は不可能に近い。ガダルカナル島の攻防において、日本軍の輸送・補給の問題を指摘していない著作はない。しかし、ガダルカナル島戦の初期において、その問題は米軍にも同様に存在した。
この上陸戦とその直後の戦いにおいて、日米両軍の物資の海上輸送とその海岸への揚陸はどのようなものだったのかだろうか?それが、ガダルカナル島における上陸戦と補給をめぐる戦いとそれが戦闘にどういう影響を及ぼしたのか、がこの著作の動機の一つとなっている。
そのため、他に数多くの著作がある大きな海戦については詳細を記さない(これらは結果として補給には直接影響しなかった)。またガダルカナル島の攻防は、9月中旬の川口支隊による攻撃失敗直後から、米軍は物資や増援部隊の本格的な輸送に成功し、9月後半からガダルカナル島の防衛は格段に強化された。9月末までに米軍は複数の飛行場をガダルカナル島に整備し、兵士も配置し直されて、ガダルカナル島の空・陸での地歩を大きく固めてしまった。
そのため、日本軍が10月以降に行った大規模な輸送にもし成功していたとしても、島のどこかで日米両軍の戦線が膠着すれば、再び輸送が問題になっただろう。日本軍による輸送・補給は、引き続き米軍のガダルカナル島飛行場からの攻撃によって悲惨な戦いとなって続いただろう。つまり人によって異論はあるかもしれないが、私は9月中旬の川口支隊の攻撃失敗によって飛行場奪回の見込みはなくなったと思っている。逆に言えば、米軍のガダルカナル島での態勢を見れば、9月中旬までは日本軍が飛行場を奪還できた可能性があったとも考えている(もちろん、それが戦争全体の大勢に影響したとは思えないが)。以上のことから、ここでは9月中旬にガダルカナル島で生起した川口支隊の攻撃までに焦点を置く(10月以降の戦いは、参考として13章に概説する)。
1-5 アリューシャンでの戦いとの対比
ガダルカナル島での戦いが起こる前の1942年6月に、日本軍はアメリカ領のキスカ島とアッツ島に上陸した。この姉妹ブログ「アリューシャンでの戦い」では、これらの島々への上陸から撤退までの日本軍の戦いの推移を述べた。この戦いでは、米国から見れば、根拠地であるアラスカのダッチハーバーから日本軍が上陸したキスカ島までの距離は1200 kmである。そして日本から見れば、根拠地であった千島列島の幌筵からアッツ島までの距離はやはり1200kmである。一方、ガダルカナル島までの距離は日本軍のラバウルからは1100 km、米軍のエスピリッツ・サント(現バヌアツ)からは約1000 kmである。地理的条件だけから見れば、米軍のガダルカナル島上陸は、日本軍のキスカ島・アッツ島上陸と攻守を入れ換えたような状況だった。もちろん体制や軍備、あるいは戦況などの条件は両者で大きく異なるが、それらの侵攻の際の装備や作戦を見れば、侵攻に関する両軍の考え方の違いが如実にわかる。そのため、ところどころで、アリューシャンでの戦いとの比較を入れている部分がある。