(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)
10-1 第17軍上層部の考え
海軍としては、地上部隊で飛行場を攻略するためには制空権、制海権の確保が必要と考えていた。そのためには敵海空戦力の撃破が前提であり、そのためにはまず地上部隊による飛行場の攻略が必要になる、となって論理が循環した。しかも、サンタクルーズ諸島方面には敵機動部隊がいることもわかっており、それにも対処しなければならなかった。ここにきて、ようやくガダルカナル島の敵飛行場を早期に利用可能にさせてしまった失敗を感じたのではないだろうか?
前述したように、陸軍は第1回鼠輸送の失敗により、一時はガダルカナル島放棄論まで出たが、その後の駆逐艦輸送が順調にいったことにより、撤退論は立ち消えとなった。しかし、駆逐艦では必要な人員や物資の一部しか輸送できず、しかも重火器や戦車は送れなかった。また一部の部隊は舟艇機動によって分離するなど、さまざまな課題を抱えていた。また、米軍の戦力も十分に把握できていなかった。
前述したように、ガダルカナル島に上陸したアメリカ兵は、5個大隊11000名(戦闘支援員を含む)だったが、その後、ツラギ方面の残敵掃討が終わったため、ツラギにいた海兵隊の空挺部隊とエドソン中佐指揮下の襲撃大隊をガダルカナル島へ移動させていた。その結果、ガダルカナル島を守っている海兵隊は7個大隊弱となっていた。
第17軍では、上陸時やその後の輸送の分析から、ツラギとガダルカナル島の米軍の総兵力は2万名近いが、ガダルカナル島の戦闘員の数は5000名と判断していた [7, p463]。そのため、大本営の田中新一作戦部長は、さすがに川口支隊だけでガダルカナル島の制圧は無理で、せいぜい飛行場全体かその一部制圧とみていた。そして引き続いて兵力を投入して、10月に第2次攻撃、第3次攻撃を計画していた(それらは引き続き飛行場奪還攻撃となっていく)。
攻撃側は通常防御側の3倍の兵力がセオリーである。第17軍は飛行場奪還のための兵力に不安を持つようになり、ラビ作戦用の青葉支隊の増援の必要性を川口支隊に問うたが、9月6日に川口支隊長は「現兵カニテ任務完遂ノ確信アリ・・・攻撃日時ノ遷延ハ最モ不利ナリ」と返答した [7, p437]。しかし、第17軍では、念のため青葉支隊を個別にガダルカナル島へ輸送する措置を取った。青葉支隊の第2大隊はタイボ岬に、第3大隊はタサファロングへと輸送された。さらに、青葉支隊の司令部と第1大隊もタサファロングへ輸送されたが、これは川口支隊の攻撃に間に合わなかった。
ガダルカナル島北西部図(再)
一方で、川口支隊長は第17軍に対して、海軍との協定に基づいた攻撃前の航空攻撃、攻撃開始時における飛行場北岸に対する陽動、海上を逃亡する敵の殲滅を要望したが、艦砲射撃については味方討ちを懸念して行なわないように要望した。これは艦船と陸上部隊との間の通信が不全であることを意味している。つまり海軍の支援による攻撃は、予め日時を指定した上で、基地「付近」を砲撃・爆撃するという限定したものだった。陸海軍の連携のための組織などのソフトウェアや通信などのハードウェアが十分でない状態では、ピンポイントでの攻撃は無理で、およそ基地付近のアバウトな砲撃が限界だったと思われる。
10-2 ガダルカナル島での川口支隊の行動
8月31日に部隊とともにタイボ岬に着いた川口支隊長は、一木支隊先遣隊の残りと第2梯団を合わせて混成大隊を編成し、それを熊大隊と呼んだ。そして、その熊大隊と麾下の第124連隊第1大隊、第3大隊の3個大隊を主力とし、支隊司令部には無線分隊、工兵隊、支隊直轄の兵站病院などを加えた。
川口支隊の上陸から攻撃準備までの行軍図
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川口支隊の第1大隊、第3大隊は9月1日に西のテテレ方面に向けて出発させ、支隊本部と熊大隊は編成のためにタイボ岬近くのタシンボコに残った。特に第3大隊は、大部隊の移動を空から悟られないためか、ほとんど密林内を行軍した。密林内の行軍は、手強いつる植物、生い茂る下草、鬱蒼とした樹木、急峻な渓谷や尾根などのため、困難なものとなった。沼沢や丘陵のため、砲兵隊による火砲の運搬も困難を極めた。また弾薬輸送に使っていたリヤカーもパンクしたり車軸が曲がったりしたため、弾薬は全て人力で運搬した [7, p455]。
また9月4日に第2師団第4連隊である青葉支隊の第2大隊がタイボ岬に上陸して川口支隊の指揮下に入ったので、それを青葉大隊と呼んだ。さらに青葉支隊の第3大隊と連隊砲1小隊が後に続く予定だったが、後述する米軍のタイボ岬襲撃のため、それらは場所を変えて11日にガダルカナル島西側のカミンボに上陸した。なお、川口支隊の攻撃に引き続くため、青葉支隊の連隊本部(連隊長 那須弓雄少将)と第1大隊(計1116名と連隊砲6、速射砲4など)が15日に同じくカミンボに上陸した [29, p106]。軍の編成が複雑で錯綜していることがわかる。
川口支隊の構成図。所属部隊毎に色を変えている。
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10-5-1節で述べるように、川口支隊司令部はラバウルと直接交信が出来る無線機を持っていなかった(無線隊は舟艇機動によりタサファロングの連隊司令部にいたが、装備が完全だったか不明)。ラバウルの第17軍との通信は、カミンボのガダルカナル島守備隊を中継して行われた [33, p37]。しかもその川口支隊とガダルカナル島守備隊との間の通信さえ順調ではなかったようである。前述したように、舟艇機動の岡部隊(第35旅団基幹の第124連隊司令部と第2大隊)は、5日にガダルカナル島西側に着いたことは川口支隊司令部での無線傍受によって判明した。川口支隊司令部は伝令を飛行場南部のジャングルを迂回させて、タサファロング付近の岡部隊に攻撃計画を伝えた [7, p456]。これらを総合すると、川口支隊の攻撃参加兵力は6217名となった [29, p116]。
10-2-1 攻撃日の延期問題
タイボ岬にいた川口支隊では、先行部隊が海岸沿いにテテレ付近まで進んだが敵を見なかった。そのため、川口支隊長は6日に折畳舟を使って海路テテレに進出し、青葉大隊をその先のトゴマ岬へ、熊大隊をコリ岬へと進出させた。精密な地図がないジャングル内を、現地住民の案内もなしに進軍したようである。一木支隊の現地住民に対する蛮行 [10]や米軍の指示によって、現地住民は日本軍に協力しなかった(つまり姿を消した)ようである。手探りで道を探ったため、湿地や雨で増水した川などにぶつかり、部隊や弾薬・食糧の輸送は予定通り進捗しなかった。そのため、7日に川口支隊長は攻撃開始を13日に延期する旨を第17軍に連絡した [7, p444]。
ところが、敵の有力部隊が9月5日にフィジーに到着したとの情報により、第17軍は大本営から攻撃繰り上げ検討の要望を受けた。それを受けて第17軍司令部は翌8日に、川口支隊に攻撃開始の繰り上げの可否を打診した。ジャングル内での行軍悪化によって13日への攻撃延期を決断した翌日にもかかわらず、8日に川口支隊長は攻撃を12日に戻すと返答し、状況によってはさらに(11日に)繰り上げることもあり得ると返答した [7, p446](米軍の増援部隊は、12日にエスピリッツ・サントに到着し、14日にガダルカナル島へ向けて出航した [9])。
この攻撃日を12日に戻したことが、川口支隊の攻撃に大きく影響したと考えられる。フィジーに米軍の増援部隊が到着しても、それがガダルカナル島へ直ちにやってくるとは考えにくい。輸送には少なくとも1週間以上はかかるであろう(実際に増援部隊がガダルカナル島に着いたのは9月18日)。輸送船が着いて、仮に兵士は速やかに上陸できても、弾薬や食糧などを揚陸するには一定の日数が必要となる。上陸しても直ちに戦力を発揮できるわけではない。第17軍は、川口支隊が行軍状況の困難によって攻撃日を繰り下げるという返答をした翌日に、攻撃日の繰り上げを打診しなければならないほどの差し迫った重大な状況の変化があったようには見えない。
また川口支隊も、状況に鑑みて延期した攻撃日を、第17軍からの打診が来るや直ちに元に戻すなど、現地の状況よりも上層部への迎合を優先したようにも見える。川口支隊は、上層部の意図を正確に把握するとともに、現地の状況を詳しく伝えるなどの上層部との密なコミュニケ-ションが不足していたのではなかろうか。
川口支隊長は、3日にタシンボコの海岸近くを、米軍輸送艦「フォマルハウト(AK-22)」と護衛の駆逐艦3隻が通過したのを目撃していた [7, p442]。この輸送艦はフィジーの増援部隊とは直接は関連がなく、主に物資の補給のためだったが、支隊長はこれを見て、米軍部隊が増勢されつつあるというあせりがあったのかもしれない。いずれにしても、この進軍途中の時点で、しかも攻撃延期を連絡した直後に行った川口支隊長の攻撃日の安易な前倒し判断が、12日の準備不足で徹底さを欠いた混乱した攻撃につながった。
10-3 米軍のタイボ岬奇襲上陸
米軍では、東方のタイボ岬付近に日本軍が上陸した模様であることを現地住民から聞いてはいたが、その規模は全くわからなかった。現地住民の斥候は日本軍を約300名と報告したため、米軍はこれを掃討することにした。
9月8日に、米軍は襲撃大隊(5個中隊、850名)を輸送駆逐艦「マンリー」と「マッキ-ン」と港内哨戒艇(YPボート)などに分乗させて、タイボ岬西方のタシンボコの海岸に機動上陸することにした。空からはP-400などの航空機が陸上支援することになっていた。
出撃する直前に、日本軍がその規模を急激に拡大しているという現地住民からの報告が入ったがあまり信用されず、計画はそのまま実施された。9月8日0520時から襲撃大隊のタシンボコでの奇襲上陸は成功した。また0845時頃には応援の空挺部隊(3個中隊)がさらに上陸した。
日本軍では、この前日の7日の夜に、第24駆逐隊(「海風」、「江風」、「涼風」)によって野砲中隊(野砲4門、速射砲2門、兵士161名)がタイボ岬に上陸していた [29, p59]。しかし、川口支隊の本隊は7日に出発した直後で、タイボ岬付近にはわずかな守備兵がいただけだった。現地の残置部隊とこの野砲中隊だけでは、上陸した米軍に対抗することができずに退却した。
米軍が上陸した際には日本兵が軽微な抵抗を行ったが、上陸部隊がタシンボコに入ったときには、守備兵は既に撤退した後だった。そこで調べると、現地住民からの報告が正しかったことがわかった。大量の食糧、装備、弾薬などが備蓄してあり、その量から日本軍の規模は4000人以上と推定された [10]。米軍は、残置してあった75mm砲4門や37mm対戦車砲1門(これは米軍の脅威となっていた)、舟艇などを破却し、大量の食糧を処分した [7, p456]。数千個の缶詰に穴を開け、数百の米袋を海に投げ捨てたとある [15]。そして、弾薬や無線機などを焼却した後、午後遅くに計画通り再び海へと退却した。この大量の備蓄物資の喪失は、後の日本軍の飢餓の一因ともなった。
1942年9月8日の海兵隊によるタイボ岬襲撃時の侵攻図
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ラバウルの南東方面部隊がこの米軍の上陸を聞いたのは、第5空襲部隊(第25航戦)がラビ攻撃に出撃した後だった。司令部では第6空襲部隊(第26航戦)を敵輸送船の薄暮攻撃に振り向けようとしたが、機材整備中で攻撃できなかった [29, p91]。R方面航空部隊(ショートランド)の零式観測機(水上機)11機が、レカタを経由して、タイボ岬沖へ艦船攻撃に向かった。ところが到着は夕方だったため、米軍の艦船は既に引き揚げた後だった。一部はタイボ岬上空で敵艦爆と交戦し、1機が未帰還となった。また一部はツラギを爆撃した。
後方での米軍上陸を聞いた川口支隊長は、これを米軍の新たな増援部隊が上陸したと思った可能性がある。前述したように、支隊長は米軍の輸送艦がルンガ岬に向けて航行しているのを目撃していた。支隊長は、挟撃を避けるために、貴重な戦力を割いて歩兵1個中隊と機関銃1個小隊を東方のタイボ岬に派遣した。これらの派遣部隊が12日以降のムカデ高地の戦闘に参加できたかどうかはわかっていない [7, p447]。米軍は海路撤退したが、現地の無線機を破壊したため、川口支隊や第17軍は、タイボ岬の状況がその後どうなっているのかがわからなかった。
川口支隊は、第17軍の了承の元で、後方を警戒しながらも西方への進撃を続けた。米軍がタイボ岬に居座っていると考えていたと思われる。そうなると、根拠地が占領された以上、タイボ岬の敵の前進を阻止している間に、飛行場を奪取する以外の選択肢はなかった。また進軍の最後尾にいた第3大隊は、背後から重大な脅威に備えて整然とした進軍ができなかった。それもその後の混乱した戦闘行動に影響を与えたかもしれない。
米軍は、戦死2名、負傷6名を出したが、日本軍の戦死者は27名以上と推定された [10]。この襲撃は、米軍にとって、物資を破壊してかつ日本軍の作戦に影響を及ぼすタイムリーな攻撃となった。3-6-2節で述べたように、米軍はそれまで何度かルンガ岬西のコクンボナに舟艇を用いた機動上陸戦を行っていた。それらはガダルカナル島守備隊から第17軍に伝えられたと思われるが、タイボ岬の川口支隊はほとんど無警戒だった。
また、8月17日には太平洋のマキン島に米軍約200名が潜水艦から奇襲上陸して、約70名の日本軍守備隊が全滅したばかりだった。それらから米軍の大胆さと積極さがわかる。日本軍はそれらの教訓を活かして、海上からの機動上陸に警戒すべきだった。
一方、米軍側にも日本軍の兵力を過小評価するという錯誤があった。もし川口支隊の移動が遅れていたら、4000名以上からなる川口支隊の兵力によって、850名の米軍部隊は、上陸用舟艇に乗って分散して到達した海岸で、個別に撃破されていたかもしれない。
10-4 日本軍の攻撃支援
10-4-1 日本海軍の攻撃支援計画
連合艦隊では、川口支隊による飛行場奪還を日米における艦隊決戦の場になると見ていた。すなわち、飛行場奪還そのものは、基地航空部隊の支援爆撃と陸軍の攻撃で可能であると考えて、その前後に起こるであろう敵機動部隊との艦隊決戦に重点を置いていた。この思想はこの後も繰り返される。 [18]は、この海軍の艦隊決戦重視の作戦思想が、海軍に陸戦の支援よりも艦隊決戦を追求させ、緊密な陸海協同を阻害したと述べている。
海軍は艦隊決戦に備えて、敵の哨戒基地を使用不能にするとともに、南東方面の哨戒を強化した。ソロモン諸島南半分とその南方の島々を航空攻撃し、サンタクルーズ諸島、ヌデニを潜水艦及び駆逐艦の攻撃によって破壊することが計画された。そして、レカタとギゾに飛行艇を設置しての哨戒、インデスペンサプル礁に潜水艦を配置して水偵による偵察と水上機母艦の水偵を用いたサンタクルーズ諸島北東方向の索敵が計画された。
南東太平洋地図(再)
その上で、機動部隊をトラック島に、そして支援部隊をガダルカナル島北方約1200 kmに待機させて敵艦隊の出現に備えるとともに、囮船団をガ島に 向けて南下させて敵艦隊の北上を誘うことにした。そして飛行場を奪還したならば、外南洋部隊 の駆逐艦などの艦艇はガ島泊地に突入して敵の退路を遮断し、これを捕捉繋滅し、支援部隊はこれに策応して南下して敵の機動部隊を追撃する [7, p488]、という綿密な作戦を立てた。
外南洋部隊(第8艦隊)では、陸軍の攻撃に応じて、全作戦の支援を第8艦隊主体(司令長官、重巡洋艦「鳥海」、駆逐艦「陽炎」)に、敵艦船の撃滅を支援隊(第6戦隊と駆逐艦「天霧」)に、ルンガ泊地へ乗り込んでの敵艦船の奇襲と陸戦協力を奇襲隊(軽巡洋艦「川内」と駆逐艦「敷浪」、「吹雪」、「涼風」)、敵艦隊の誘致を陽動隊(囮船団:駆逐艦「白雪」、「ぼすとん丸」、「大福丸」)などに割り当てた。陽動隊(囮船団)は、攻撃当日にガダルカナル島北方400 km付近で敵艦隊を誘致することになっていた。これらは極めて緻密な艦隊決戦用の計画ではあったが、飛行場奪還への支援にはあまり力が入れられていなかった。陸戦の直接支援は奇襲隊の4隻のみだった。
しかしながら後に述べるように、米軍は川口支隊による攻撃があることを直前まで察知しておらず、米軍の艦艇は補給とその護衛以外にはほとんど動きがなかった。哨戒機は南方で米軍の機動部隊を発見したが、そこで輸送船団の護衛に当たっていただけのようで、北上してこなかった。しかも後述するように、攻撃直前から川口支隊と連絡が途絶し、攻撃状況が数日後まで全くわからなかった。そのため、これらの緻密で入念な準備と配備は、多くの艦艇が川口支隊の攻撃状況の不明によって右往左往しただけで、川口支隊の攻撃開始時のガダルカナル島の艦砲支援射撃を除いて、この艦隊決戦計画はほとんど役に立たなかった。
10-4-2 日本軍航空部隊による爆撃
米軍の記録では、輸送艦ベラトリックス(AK-20)とフラー(AP-14)が、9月7日にガダルカナル島に到着したが、日本軍の航空攻撃により荷を揚陸できずに引き返して輸送阻止に成功した [9]。しかし記録によると、第11航艦は7日にはポートモレスビーを攻撃しており、ガダルカナル方面への出撃がない。第25航艦と第26航艦の戦隊日誌、および戦史叢書には、9日にタイボ岬沖を西進中の大型輸送船2隻、駆逐艦5隻を、陸攻27機が爆撃したとあるので [7, p449]、米軍記録は9日の間違いかもしれない。
日本軍のタイボ岬への上陸に気づいた米軍は、10日から飛行場南側のムカデ高地(米側呼称ブラッディ・リッジ)への兵の配備を始めた。兵士たちは爆撃頻度が高い飛行場周辺から逃れられると思ったが、そうではなかった。日本軍の爆撃機は、今度はムカデ高地を爆撃し始めた。これは逆にこの方面からの日本軍の攻撃を予想させた。11日に米軍の師団砲兵司令部は地図に基づいた射撃諸元を制作し、射撃管制部隊で射撃計画を立案した。105mm榴弾砲は、それに応じてムカデ高地稜線防御を近接支援できる位置に配置された [15]。後述するように、これが功を奏したと思われる。
第11航空艦隊は、機数を集めるため、四空の陸攻と六空の零戦を25航戦と26航戦に組み入れた。そして9月9日から13日までガダルカナル島の爆撃を行った。陸上での攻撃が始まる日の12日までに行った爆撃は、艦船1回、敵陣地2回、飛行場1回となっている [29, p95]。各攻撃は陸攻25-26機に零戦15機程度が護衛についた。
9月13日には、8日に上陸した米軍がまだいると思ったのか、タイボ岬を陸攻26機、零戦12機で爆撃・銃撃した [29, p98]。タイボ岬に残留していた日本軍は、米軍によって通信機材が破壊され、連絡する手段がなかったのだろう。味方であることを知らせようとしたのかもしれない。爆撃による日本軍兵士の遺体が、現地住民の米軍斥候によって後に発見されている [15]。通信手段がなかったための悲劇としか言いようがない。
ガダルカナル飛行場でF4F戦闘機の火を消す米海兵隊の地上勤務員、1942年 。https:/ww2db.com/images/battle_guadalcanal44.jpg;
ガダルカナル飛行場爆撃で破壊されたSBD急降下爆撃機。1942年。https:/ww2db.com/images/battle_guadalcanal6.jpg;
10-5 川口支隊の展開
10-5-1 第17軍司令部との通信不通
川口支隊には、軍固定無線小隊が配備されていた [7, p450]。しかし、どういう理由かわからないが、川口支隊と第17軍の間の直接の通信が不通となった [7, p457]。そのため川口支隊は、出力の弱い砲兵隊の旅団無線を使って、ガダルカナル島守備隊に中継してもらって連絡をとっていた [7, p467]。
そして攻撃開始日の12日以降は、第17軍は川口支隊と連絡が全くとれなくなった。この理由もわかっていない。第17軍ではそれから15日朝まで肝心の攻撃の状況がまったくわからなかった。川口支隊長は、はっきりしない戦況のために、第17軍司令部への連絡を行わなかったのだろうか?戦況が不明のため、後述するようにラバウルの第17軍司令部と南東方面部隊では、さまざまな憶測によって混乱した。これについては、11-2-3節でも検討する。
10-5-2 飛行場東方への展開:イル川方面
川口支隊長は5日1300時に、部隊に対して攻撃計画を示達した。それは一木支隊の轍を踏まないように、内陸のジャングル内を潜行し、飛行場南東側から敵の背後を奇襲するというものだった。飛行場の南東側、日本軍から見て手前には低い丘陵の峰(ムカデ高地と呼ばれる)が、飛行場に向かって北西方向に位置していた。
日本軍は、南東側から北西方向にムカデ高地を縦断できれば、飛行場へ到達することができた。そのムカデ高地に向かって右翼隊を熊大隊が、中央部右第1線を第3大隊が、中央部左第1線(実質的にムカデ高地に対する左翼)を第1大隊が、中央部第2線を青葉大隊が攻撃を担当した。そして左翼隊として、岡部隊である歩兵第124連隊第2大隊(舞鶴大隊)と青葉支隊が、ルンガ岬西方から攻撃することになっていた。川口支隊司令部は第2線の青葉大隊の後を追随した。
川口支隊長は9日に攻撃日を12日夜と決定し、各部隊に通知した [7, p455]。そのほかに3個砲兵中隊がテナル川手前の海岸寄りに配置された。砲兵隊は、夜襲に先だって敵陣地を2000時から30分間砲撃して、敵を牽制する予定だった [7, p457]。敵の火力が優勢であることから、夜が明けると不利となるため、一夜のうちに雌雄を決することを想定して、川口支隊は予備隊を置かなかった。攻撃は12日1200時までに準備を完了し、1600時に準備位置から進撃を開始、1700時から一斉に夜襲をかけることになっていた(攻撃開始は2000時からという説もある) [7, p445]。
後述するように記録の問題があるが、攻撃前の部隊の配置状況を確認する。中央右攻撃隊である第3大隊は、12日2000時にどうにか攻撃準備位置付近に到着したが、この時点で攻撃予定時刻を過ぎていた。中央左攻撃隊である第1大隊は、12日朝に高地に出ると米軍から射撃を受けた。実はこれがムカデ高地だった。第1大隊はこの高地を迂回し、さらに西進して、1530時に攻撃準備位置に到着した。第二線攻撃部隊である青葉大隊は2100時頃に攻撃準備位置に到着した。右翼隊である熊大隊は、1000時に攻撃準備の推定位置に到着した。しかし、そこは予定地点よりかなり手前の東方だった [7, p452-456]。
これを見ると、熊大隊以外は所定時刻に少し遅れたものの、攻撃予定位置に着いたように見える。しかし当日の攻撃は、第1大隊を除いてそれほど多数の部隊が参加したようには見えない。地図の不備や磁石磁針の偏差により、着いたと思った場所は予定場所とは異なっていた可能性がある。また各大隊も全ての部隊が到着していたかどうかわからない。第17軍司令部の分析(小沼参謀の回想)では、攻撃したのは川口支隊5大隊中、第124連隊第1大隊と第4連隊第2大隊(青葉大隊)の2個大隊に過ぎなかったとなっている [7, p482]。
10-5-3 飛行場西方の展開:マタニカウ川西岸コカンボナ方面
カミンボには独立工兵第6連隊の船舶工兵部隊が海岸基地を設立し、大発と小発を合わせて20数隻を擁して、今後の補給に備えていた [7, p460]。第124連隊の岡部隊は、舟艇機動により9月5日にガダルカナル島北西部のカミンボ周辺に到着したことは8-5節で述べた。しかし到着は分散しており、行方不明となった部隊も多く、兵力は約300名に減っていた。その後、サボ島などに流れ着いた部隊が合流して、7日にはどうにか約650名となった [7, p459]。しかし失った装備も多かったと思われる。
この部隊に配属されていた特設無線分隊はセントジョージ島に取り残されたので、岡部隊はガダルカナル島守備隊を通して川口支隊本隊と連絡を取った。しかし川口支隊長は、舟艇機動の惨状を軍本部には伝えなかった [7, p458]。岡部隊は8日にカミンボからコカンボナに向かって東進し、11日に同地のガダルカナル島守備隊と会合した。また各地に漂着した岡部隊の兵士は、結局駆逐艦で集められて10日から12日にかけてカミンボに到着した。
1942年9月初旬頃、ガダルカナルに到着して行軍する日本軍兵士。背景はサボ島。https:/ww2db.com/images/5b8fd605a8313.jpg
11日0940時に左翼の岡連隊長は、麾下の部隊に対して12日夜の攻撃命令を示達した [7, p461]。それは「連隊本隊と青葉支隊の1大隊は12日飛行場西南3kmに進出し、敵を夜襲する。舞鶴大隊(第2大隊+連隊機関銃中隊、無線分隊)は、飛行場西岸南方の敵を夜襲する。11日夜にカミンボに到着予定の青葉大隊(歩兵第4連隊第3大隊)は、そこから舟艇機動によりコカンボナに上陸し、舞鶴大隊の後方で第2線をなす」というものだった。
左翼隊の青葉大隊(第4連隊第3大隊)は駆逐艦輸送により、予定通り11日2220時にカミンボに上陸した。青葉大隊はカミンボに向けて東進を開始したが、命令にある舟艇ではなく陸路をとった。この理由はわかっていない [7, p461]。カミンボからタサファロングまではいくつかの河川を渡河する必要がある上に、海岸に沿った道は上空に暴露しており、進軍に時間を要した。カミンボからマタニカウ川まで距離は20 km以上あり、フル装備での陸路の行軍では、12日夜の戦闘に参加できなかったのではないかと思われる。また、舞鶴大隊の方もまだ分散しており、この時はまだ実質歩兵二個中隊を中心とするだけだった。
青葉大隊には作戦指導のため第17軍の松本参謀が同行していた [7, p451]。しかし、上陸したのは攻撃開始直前であり、川口支隊がいる反対側の左翼隊で、しかも上陸位置は前線からは遠く離れていた。作戦指導といいながら、結局は事後処理が目的だったと思われる。そして彼が持って行った第17軍の指示により、もし攻撃に失敗したならば川口支隊は飛行場を南に迂回して西進し、マタニカウ川西岸に集結することになっていた。
10-6 米軍の展開
米軍防衛線の南と南東では、海兵隊と現地住民からなるパトロール隊が日本軍とたびたび衝突していた。そのため海兵隊は、日本軍による攻撃が迫っていることに気づいていた。ただ、その攻撃場所はわからなかった。
海兵隊はムカデ高地付近の防衛を強化したが、南東側は防衛の空白域となっていた。ムカデ高地付近のルンガ川東側については、第1海兵隊と砲兵隊、工兵隊、施設隊が守っていた。そこから南東に向けてムカデ高地が走っていた。この高地の北端に師団司令部があった。この尾根を突破されれば、飛行場への接近を許すことになる。このムカデ高地の南東端に、ツラギから移動してきた精強な襲撃大隊と空挺部隊を、尾根の両側にそれぞれ配置した [9]。ムカデ高地は視界を確保するために雑草が刈り払われ、あちこちに機関銃壕が掘られ、有刺鉄線が張り巡らされた。
さらにムカデ高地北方には予備として第5海兵隊を配置した。ルンガ川と第5海兵隊の間には工兵隊が配置された。LVT(水陸両用トラクター)部隊もこの工兵隊の北西に配置された。予備の軍は、もし北西方面から組織的な攻撃があれば、それにも対応する予定だった。
後述する12日夜の攻撃の後、米軍の配置が多少変更された。師団予備であった第5海兵隊第2大隊は、13日午後、ムカデ高地の地形を確認した後、そこでの戦闘に備えてムカデ高地のすぐ北に移動した。この部隊は、ムカデ高地での激戦時に応援に駆けつけて、日本軍の撃退に大きく寄与することになる。第11海兵隊第5大隊の砲兵(105mm榴弾砲)がムカデ高地稜線の直接支援に割り当てられた。この砲兵は高地南方地域への砲撃のための諸元を設定したが、信頼できる地図がなかったため、着弾点の正確な区画割は不可能だった [9]。
ルンガ岬付近の米軍配備図(9月12日頃)
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10-7 ムカデ高地での戦闘
10-7-1 9月12日夜の攻撃の混乱
12日の2200時頃から、奇襲隊の軽巡洋艦「川内」と駆逐艦「敷浪」、「吹雪」、「涼風」の4隻が、攻撃支援のため約1時間にわたってガダルカナル島飛行場を砲撃した。米軍によれば、「いままでにない規模のものすごい砲撃」と回想されている [8, p207]。しかし、砲弾のほとんどは防衛線より外の東側に落ちた [10]。イアン・トール著「太平洋の試練」は、これによって士官2名が戦死、他2名が負傷したと書いている [8]。 [15]では砲弾はムカデ高地尾根周辺に落ちたとしている。これが被害の全てかどうかはわからないが、他の資料にはこの砲撃による被害は書かれていない。
後に最大の攻撃力を発揮することになる砲兵陣地は無傷だった。これは、陸上から観察した射撃制御を行わない場合の艦砲射撃の限界だと思われる(11-2-2節で述べるように、日本軍は米軍砲兵陣地の位置もおそらく知らなかった)。しかもこの時点では、日本軍部隊の多くは計画通りに所定の攻撃位置に着くことがまだ出来ておらず、この艦砲射撃を活かした攻撃は出来なかった。
9月12日2130時頃から始まった陸上戦闘の詳細は、実はわからない部分が多くある。米軍では、日本軍の兵力が不明だった上に、タシンボコの襲撃によって日本軍が逃走しているのではという推測もあった。米軍は、防衛線の外側へ送ったパトロール隊が散発的な銃撃戦に遭遇していたが、それ以上のことはよくわからなかった。
日本軍も、正確な地図もないジャングルを啓開しつつ手さぐり状態で進撃してきており、磁針の偏差もあって自隊の位置さえも確認できない部隊があった [29, p114]。また、各部隊の通信が貧弱で、司令部でもどの部隊がどこでどの程度の攻撃を行ったのかが、ほとんど把握できなかった。しかも翌日の戦闘を含めて大隊長をはじめとする多くの将校が戦死したため、戦闘後の正確な記録もあまり残らなかった。
[7]の記述を、一応要約しておくと、右翼隊だった熊大隊は、暗闇と密林のため思うように前進できず、攻撃開始時刻に所定の位置に着くことができなかった。ところが、他の大隊も攻撃している様子がなく、そのまま前進を続けている間に夜が明けてしまった。その時点でも、この大隊の位置はまだイル川の上流6 km地点で、攻撃開始予定地点の手前だった。
中央隊右の第3大隊は、遅れた大隊砲部隊を待たずに予定通り夜襲を開始し、米軍の警戒線らしきものを突破した。夜が明けて激しい砲撃を受けて相当な被害を受けたが、正午頃までは攻撃を続行した。中央隊左の第1大隊は、やはり大隊砲部隊が後方に落後したまま前進したが、途中で第3大隊の一部が混入してきたため、一時ルンガ川左岸?に集結し直した。その時点で夜明けが近かったため、夜襲を中止して攻撃開始位置まで戻った。しかし、この戦線に対応する米軍のC中隊は、日本軍の攻撃を受けて後退している。第2線の青葉大隊は、第1線部隊と連絡がとれず、進撃することなく待機したまま夜が明けてしまった [7, p465]。
[24]には、9月12日の攻撃を「夜暗と密林のため一部の米軍と接触したにとどまり、三方面とも空しく天明を迎え、旧攻撃準備位置に復婦した。」とだけ書かれている。米国陸軍の報告でも、「何人かの日本兵が実際に空挺部隊の陣地を突破したが、彼らはそれに気づかなかったので、その利点を利用しようとしなかった。」とだけ書かれている [9]。日米の日誌、戦史、回想録などによると、この日の夜襲は、実施、延期、中止、散発的、一部占領など、内容がまちまちとなっている。米軍の資料の中には、12日の日本軍による攻撃は、米軍を試す試験的なものだったとしているものもある [22]。
9月12日の攻撃の記録については、 [7]の付録第六に、日本軍の資料の作成経過と米軍の諸資料との関係を使って、各資料の詳しい分析が行われている。その結論として、この戦闘で起こったことは、「日本軍の一部は攻撃をかけて米軍の前哨線を混乱させたが、飛行場への突進は阻止された」としている [7, p569]。日本軍は、ジャングルの中で、部隊が位置を見失ったたり、バラバラになった部隊があった。攻撃日を繰り上げたためか、攻撃位置につくのに間に合わなかったり、部隊全体が揃わなかったりして、予定通りの攻撃を行えたのは一部の部隊だけだったようである。
参考のため、アメリカ海兵隊の公式記録も要約しておく(ただし、それで全体像がわかるわけではない)。その記録によると [10]、日本軍艦船からの艦砲射撃が終わった2130時頃に、照明弾が上がってムカデ高地(ブラッディリッジまたはエドソンリッジ)に向けて、南東から日本軍の突撃が始まった。海兵隊はこの細長い高地の尾根に垂直なT字型で、(米軍司令部から見て)右翼2隊、中央1隊、左翼1隊の4つの中隊が守っていた。日本軍の攻撃は、高地中央とそのすぐ横の右翼を守っていた2つの中隊に集中した。
海兵隊の他の中隊も、状況がよくわからず戦闘中に他へ兵力を転用したりして、効果的な防衛が出来なかった。海兵隊は日本軍の攻撃を支えきれず、ムカデ高地の裾野から中央部尾根まで一旦退却して、尾根だけに戦線を縮小して集中して守った。日本軍はこの尾根の南東部の一角を占領し、そこで夜が明けた。尾根では昼間は爆撃や砲撃の標的になると思ったのか、日本軍は尾根からジャングル内にいったん退却した。
これだけで見ると、米軍左翼を攻撃するはずの日本軍の中央隊右が米軍右翼を攻撃していたと考えると辻褄は合うが、実態はわからない。少なくとも米軍は、この12日の日本軍の攻撃を、4個大隊によって飛行場まで蹂躙しようとした本格的な作戦だった、とは思わなかったようである。
10-7-2 9月13日夜の右翼隊の攻撃
13日昼間もこの攻防は続いたが、険しい地形のため、両軍とも小グループにわかれた戦闘になったようである。夜明け後に川口支隊長は各大隊と連絡をとったが、各隊は現在位置さえ正確にわからない状況だった [7, p468]。
この間に米軍は鉄条網を張り直して防衛線を再び整備した。また前述したように、予備だった米軍第5海兵隊第2大隊の隊長と中隊長たちは、このムカデ高地尾根付近に派遣されることを予想して、13日昼間にこの地域の偵察を行った。これが後で役に立つことになる。
日本軍は、昼間は砲撃や爆撃の対象となるので動けなかった。川口支隊長は、1020時に2000時から再度の夜襲を行うという命令を出した。中央隊の各隊には無線が使えず、伝令に命令を口述筆記させて持たせた。本格的な戦闘は同日の夜襲から始まった。
右翼の大隊長水野少佐は、第1中隊と第2中隊を率いて敵防衛線を攻撃したが失敗し、水野大隊長は戦死した。中央隊右の第3大隊は、参謀本部の作戦史では、敵第1線を突破したが頑強なる抵抗に遭い、これを撃退したものの現位置を確保となっている。しかし、支隊長の手記や大隊長の手記からすると、参謀本部の記録のような夜襲を行えたのは一部だけだったようである [7, p471]。
第11海兵隊第5大隊の砲兵が2100時に砲撃を開始し、その後まもなく第2砲兵陣地、第3砲兵陣地が加わった。すべての砲兵陣地が稜線上の海兵隊の頭を越えて砲撃した。日本軍の攻撃が激しさを増すにつれて、第5大隊砲兵隊は集中砲撃を行った。砲兵隊と前方監視員との間の通信は約2時間途絶えたが、砲兵隊はそれに構わず予めの想定範囲の砲撃を続けた [9]。
日本軍中央隊左の第1大隊は、予定通り夜襲を決行した。ムカデ高地の敵陣を突破しようとしたが、海兵隊の第1陣を抜くことはできたものの、第2陣を突破することはできなかった。米軍の砲撃は熾烈で、中央隊左は大隊長以下多数の戦死者を出し、夜が明けると占領地の確保も難しくなって撤退した [7, p471]。
第2線攻撃部隊の青葉大隊は、結局最も前進した部隊となった。同部隊は、突入予定時刻になっても支隊命令が来ないので、独断で攻撃前進を開始した。左第1線では敵第2陣を突破したが、各小隊長を含めて多数の損害を出し、中隊長は残存兵力を集めて引き続き突進したが、中隊長が戦死すると、そこで突撃は弱まった。右第1線では敵第1陣を突破するとともに、敵の間隙を突いてムカデ高地北東部まで進出した。大隊長はさらに予備の中隊を投入して攻撃を続行した。同部隊は、夜が明けると飛行場南東部の米軍の幕舎(海兵師団司令部)が見える地点まで進出したが、支隊長よりの撤退命令により撤退した。
米軍側の記録では次のようになっている。2100時の砲撃から日本軍の攻撃が始まり、最初の攻撃によって防衛線は後退したものの、迫撃砲の猛射で日本軍の突撃を止めた。日本軍はいったんジャングルに退却した。夜中の0000時頃に火砲の支援を受けて再度の突撃が始まった。米軍資料は日本軍は夜間に12回ほどムカデ高地に突撃したとしている [9]。日本軍の攻撃にはロケット照明弾(信号弾のことか)が用いられたため、これが砲撃の格好の目標となった。
米軍から見た9月13日のムカデ高地の様子。赤矢印は日本軍が行った攻撃の推定。黒実線は米軍退却路、黒破線は第5海兵隊(予備)の進路
(クリックすると図が拡大します)
米軍は、砲兵に連絡して最終防衛線の向こうに砲弾を集中させて、日本兵を撃退した。最後の突撃は、0200時頃だった。ムカデ高地の稜線の両側で日本軍の迫撃砲が炸裂し、日本兵が突進してきた。日本兵は飛行場まで300mに迫った。米軍では着弾観測員が倒れると、別な者が咄嗟に砲兵に指示を行った。
戦線は混乱しており、日本軍前線の後方から米軍兵士の砲兵への電話連絡が聞こえるほどだったという [7, p473]。中隊の50-60名はムカデ高地を越えて飛行場南東に進出した。夜が明けると米軍の幕舎が見えた。これは、第1海兵師団司令部と工兵隊の宿営地だった。しかし、ここまでの進出が限界だった。日本軍の進出に気づいた米軍は、この部隊に砲撃を集中し、部隊は撤退した。
米軍は、105mm砲弾1992発を使って約1.5 km先の目標を砲撃したと記録している [9]。すさまじい火力だったことがわかる。この大量の砲弾による集中砲火と予備の第5海兵隊の投入によって、上記の司令部付近まで進出した一部を除いて、0230時頃には日本軍は退却した。夜が明けると、米軍は航空機で上空から掃討を行った [15]。日本兵の死体は500以上を数えた。
なお、この13日2200時頃、飛行場占領の誤報によって敵の退路遮断のために駆逐艦「陽炎」「白雪」がルンガ岬沖に進出しており、飛行場の東方で盛んに照明弾が上がって交戦中であることを認めた [29, p104]。ところが、飛行場未占領のため帰投せよとの指示で、そのまま帰途についている。海軍には、予め第17軍から攻撃中のルンガ岬を砲撃しないようにとの指示も来ていた。
しかし、飛行場攻撃中に駆逐艦の5インチ砲12門が攻撃目標の手近な所にあったことになる。上海事変では、艦砲射撃・爆撃のために方眼を有する地形図の作成も行われており [2, p108]、照準の目印となる灯火を海岸に設置しておけば、目標を狙った艦砲射撃は技術的には可能だっただろう(後の戦艦「金剛」「榛名」による艦砲射撃はそうやって行われている)。しかし、2隻の駆逐艦は指示通り何もせずに退去した。米軍だったら、地上の射撃管制部隊が着弾を見ながら無線で砲弾を目標に誘導して、それを破壊したかもしれない。このように日米の戦闘形態の違いは明白だった。
日本軍の死傷者の割合(工兵や砲兵を除く)は、第124連隊直轄部隊が12.3%、第1大隊が37.7%、第2大隊が15.2%、第3大隊が15.9%、青葉大隊が21.4%、熊大隊が13.1%となっている。第1大隊が4割近くと突出して多く、ついで青葉大隊の2割となっており、それ以外は1割強である [7, p484]。日本軍の戦死者は、約4000名のうち633名だった。決して全滅に近い被害を出したわけではないことがわかる。各大隊の攻撃には斑があった。ちなみに米軍のエドソン中佐が指揮した襲撃大隊と空挺部隊は、ムカデ高地で死者59名、行方不明者10名、負傷者194名を出した。これによって、空挺部隊は上陸時のガブツ島での損害と合わせて実質的な戦力を喪失した。
10-7-3 9月13日夜の左翼隊の攻撃
左翼隊の岡部隊は、13日1615時にマタニカウ川を越えてトラ高地に向けて前進を開始した。岡左翼隊長は、2040時に舞鶴大隊には右手にある高射砲陣地を、青葉大隊には左の海岸線付近の敵を攻撃するように命令した。舞鶴大隊は敵陣の一角を占領したが、敵の集中砲火でそれ以上前進できず、夜が明けると空爆を恐れてか撤退した。1153名中死傷者は125名だった [7, p483]。青葉大隊は海岸を前進し、翌0430時頃マタニカウ川を2 km越えた付近で敵と遭遇した。正面の敵と海上からの舟艇による攻撃を受けて攻撃は頓挫した。左翼(西側)からの攻撃はこれらだけだった。
10-7-4 攻撃後の日本軍の行動
攻撃のための進出時に、各部隊がジャングル内に分散したため、支隊司令部ではその掌握がきわめて困難になっていた。14日朝になって支隊長の攻撃中止の命令が各部隊に伝達された。各兵士は、タイボ岬を出発する際に1~2日分の糧食を携帯していただけだった。タイボ岬の根拠地の食糧は焼き払われた。無線機を破壊されたタイボ岬の様子はわからず、まだ米軍が占拠しているかもしれないと考えられていた。
川口支隊長は14日1105時に、現位置(飛行場東方)から飛行場の南側を西方に迂回して、ガダルカナル島守備隊がいるマタニカウ川付近に集結することを決断した。マタニカウ川付近はガダルカナル島守備隊がいる上に、ラバウルからの補給の点からも有利と考えられた。
日本軍にとって幸いなことに、米軍は川口支隊を追撃する余裕がなかった。飛行場南側を守っていた空挺部隊は、ガブツ島上陸以来、この戦闘を含めて死傷者は5割を超えていた。もう一つの襲撃大隊もツラギ島に上陸以来、死傷者は30%を超えていた。日本軍が再度攻撃をかけてくる可能性もあり、それを防ぐ準備も必要だった。ガダルカナル島の米軍司令部もまだ混乱していた。
14日夕方には、川口支隊の攻撃不成功を知らないショートランドのR方面航空部隊(水上機部隊)は、朝方に二式水戦3機で戦況偵察に向かったが、全機未帰還となった。日没直後に水戦2機、零式観測機19機で、ガダルカナル島を爆撃した。しかし空戦により、自爆2機、未帰還1機。不時着2機を出した [29, p110]。
10-7-5 川口支隊の転進
川口支隊長は攻撃失敗によって、14日1105時に西方へいったん離脱することを命じた。支隊長はいったん離脱して攻撃を再興するつもりだった。支隊本部はルンガ川西南地区へ、右翼隊(熊大隊)と中央隊(第1大隊、第3大隊、青葉支隊)は、アウステン山東北の麓への集結を命じた [7, p501]。第1大隊、第3大隊は15日までに所定の位置に到着した。右翼隊(熊大隊)は15日朝になって離脱命令を知って、同日中に退却した。しかし、青葉大隊(第2大隊)は敵陣深く侵入しており、一部の部隊は飛行場南東方向で米軍と対峙していたので、離脱が遅れた。16日夕方になって離脱を開始したが、食糧も尽きており、2日後に所定の場所に集結できたのはわずか300名足らずだった [7, p502]。
ガダルカナル島北西部図(再)
川口支隊長は、15日になってようやく各隊の状況がわかってきた。またエスペランスにいて第17軍司令部の指示を受けた松本参謀から、状況不利な場合はマタニカウ川左岸(西方)に集結して、後続部隊の来着を待てとの連絡を受けた。攻撃再興を断念した川口支隊長は、1900時に左翼隊とガダルカナル島守備隊などがいるマタニカウ川左岸へのさらなる集結を命じた。
支隊はアウステン山南麓をマナニカウ川沿いに北進して、早い部隊は18日朝に左翼隊である第124連隊の連隊本部に到着した [7, p504]。兵士たちは13日の攻撃以来手持ちの食糧はなく、飢えながら雑草などを食べつつ急峻なジャングル地帯を進んだ。この退却中に、異例なことに重火器の全てと小銃の半数がジャングル内に放棄された [7, p505]。武器類は天皇から下賜されたことになっており、その遺棄は通常であれば許されないことだった。兵士たちは草や葉をかじり、泥水をすすりながら、8日かかってようやくガダルカナル島守備隊の位置にたどり着いた部隊もあった。
10-7-6 攻撃後のマナニカウ川西方の状況
川口支隊の攻撃に不安を覚えていた第17軍は、青葉支隊の歩兵第4連隊第1大隊(兵士1116名、連隊砲6門。速射砲4門、食料等)は、ショートランドから駆逐艦「海風」、「江風」、「浦波」、「敷浪」、「嵐」、「叢雲」、「白雪」に分乗して、15日夜にカミンボに上陸させた [29, p106]。その際に一部の駆逐艦は揚陸に使う大発を曳航した。この部隊はもちろん戦闘には参加していない。
18日には、ガダルカナル島守備隊の観測によって、米軍輸送艦6隻と護衛艦艇がルンガ岬に入ったことがわかった(これは後述する米軍の増援部隊だった)。この日も第4駆逐隊の輸送隊「嵐」、「海風」、「江風」、「涼風」がガダルカナル島に兵員等を輸送することになっていた。しかし、この知らせを聞いて増援部隊指揮官は、主隊である軽巡洋艦「川内」、駆逐艦「浦波」、「白雲」、「叢雲」、「濱風」とこの輸送隊を合同させて、9隻で敵輸送船団を攻撃することに決心し、0830時にショートランドを出撃した。
ところが、ガダルカナル島守備隊から敵船団は1830時に出航したという知らせを聞いて攻撃を中止し(米艦船は日本軍艦船による夜襲を避けるため、夜間は退避していた)、兵士170名、野砲4門、物資のカミンボへの揚陸のみを行った [29, p139]。この後月明時期を迎えて、鼠輸送もままならなくなり、9月25日以降はガダルカナル島への輸送はいったん中断された。
10-7-7 ラバウルの陸海軍司令部の状況
第17軍と海軍の南東方面部隊では、12日夜からの川口支隊の攻撃と合わせていろんな手を打つ必要があった。それにもかかわらず、10-5-1節で述べたように戦闘直前から川口支隊との連絡が絶え、現地の状況がわからなくなった。海軍の南東方面部隊では、12日夜に水偵で偵察を行ったが、全機撃墜されたのかその報告は上がってこなかった。13日早朝になって、25航戦は戦況の確認のため、陸偵2機を零戦の護衛付きで派遣した。
海軍では川口支隊に対して、飛行場を使用不能にできた場合と占領が成功した場合に分けて、上空からの偵察でわかるように、飛行場にかがり火を付けるように連絡してあった。第11航空戦隊の航空機は、早朝に滑走路上にかがり火2個を発見した [7, p476]。これが上記2機の陸偵によるものかどうかはわかっていない。上記の陸偵2機は別々に行動したが、1機は味方戦闘機が上空で敵機と交戦中と報告した(つまり敵は飛行場を使っている)。ところが別な1機は飛行場は利用されていないと、相反する内容を報告してきた。
第11航空艦隊では判断に迷ったが、諸状況から占領に成功したものと判断し、13日の1108時に「飛行揚占領セルコ卜概ネ確実卜認ム」と打電した。第8艦隊もそれを追認する電報を発した。ところが陸偵が1400時に戻ってくると、それに搭乗していた陸軍の航空参謀は、ガダルカナル島上空で敵機の迎撃を受け、敵の飛行場利用には疑問の余地がないと説明した。第11航空艦隊は1405時に前電を取り消す電報を発した [7, p477]。
陸軍第17軍では13日になっても川口支隊長と依然連絡がとれず、川口支隊が12日の攻撃日を延期したと推測していた。米軍の通信状況は12日夜半の日本軍の準備艦砲射撃に関するものを除いて平常と変わらず、海軍は上記の陸偵の結果、敵機の活動は活発と報告した。第17軍は、地上での火災、爆煙、砲撃などの戦闘の兆候がないため、川口支隊は攻撃を延期したと判断し、その旨を東京へ打電した [7, p477](前述したように、この日の攻撃は失敗していた)。
ラバウルの陸海軍司令部では、14日になっても攻撃状況に関する報告が全くなく、肝心の状況が全くわからないために、さまざまな推測が飛び交った。第17軍司令部では、川口支隊の攻撃位置への進出が遅れているのではないか、相互の連絡が取れていないのではないか、まだ攻撃準備に時間がかかっているのではないかなど、さまざまな憶測で混乱していた [7, p478]。ラバウルの司令部では、米軍の通信状況を探ったが、平常と変わらなかった。14日午後になってカミンボに上陸していた松本参謀から連絡が届いた。しかし、その内容は川口支隊は攻撃を14日夜に延期したというものだった [7, p479]。この連絡の経緯は不明である。実際には13日夜~14日朝にかけて攻撃は失敗していた。
15日朝になって、川口支隊長からようやく報告が入った。それは、敵の抵抗は意外に大きく、大隊長以下多数の損害を蒙ったため、やむなく西方に兵カを集結して再興を図るというものだった。第17軍司令部は、ここにきて初めて川口支隊の攻撃失敗を確認した。
参照文献はこちら