12. 米軍のガダルカナル島上陸のまとめ

 (これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

12-1    ガダルカナル島上陸直後の日米の判断

真珠湾攻撃による戦艦群の撃滅や蘭印の連合国軍の打破により、1942年3月7日の大本営政府連絡会議は、米国の反撃を1943年に入ってからと判断した。反攻には戦艦が必要であるため、米国は新たな戦艦が揃うまで身動きが取れないだろうという考えから離れられなかったと思われる。この大本営政府連絡会議の判断は軍内で広く共有されていたため、ラバウル付近にあった各部隊は、ニューギニアに気を取られて全く油断していた。米軍のガダルカナル島上陸前後における当時の日本軍の対応の原因は、まずはこの大本営政府連絡会議の判断に尽きると思われる。

一方で、大慌てでツラギ島とガダルカナル島に上陸した米軍であったが、上陸までの作戦で精一杯で、その後のことを考える余裕が十分にはなかった。第一次ソロモン海戦で多くの艦艇を失った上に、この上陸作戦で当面の蓄積物資を出し尽くしていた(多くは退却した輸送船の船倉にあった)。次の行動を起こすためには、後方のヌーメアなどに物資を蓄積する時間が必要だった。そのため、上陸作戦が成功しても直ちに次の行動を起こすことができず、いったん活動が不活発となった。

日本軍から見ると、これは米軍が消極的な対応に陥っているように見え、ガダルカナル島から撤退しようとしているのではないかという推測や、あるいはニューギニア作戦を続行しながらでもガダルカナル島を奪還できる、という間違った判断の一因となった。

日本軍は第一次ソロモン海戦で護衛艦隊に対しては速やかな反撃を行った。しかしながら、日本軍はラバウルの南海支隊をニューギニアへ送る準備を進めており、兵力も輸送船も余裕がなかった。それは米軍から見ると、日本軍のガダルカナル島確保に対する消極的な姿勢に見えた。日本軍内でも一時ガダルカナル島からの撤退論が出たように、米軍でも日本軍が今後ガダルカナル島に対してどう出るかは読めなかった。

米軍では、中央のワシントンとガダルカナル島の現場との認識に溝があった。南太平洋軍司令部は、ガダルカナル島の保持について強い危機感を持っていた。しかし連合国軍は、この後11月のアフリカ北岸への上陸作戦(トーチ作戦)が控えており、ワシントンは南太平洋の孤島であるガダルカナル島だけに関心を抱く余裕がなかった。例えば、米陸軍は南太平洋に既に800機近い航空機を派遣しており、陸軍航空隊司令長官アーノルドは、それ以上の航空戦力を派遣する気はなかった。

この溝は8月末のターナーやマケインなどの司令官のガダルカナル島視察、9月末のニミッツ提督のガダルカナル島視察による現状の把握と、10月の南太平洋軍司令官の悲観的なゴームリーから闘将であるハルゼーへの交代を経て、徐々に埋まっていくことになる。

12-2    輸送の問題

12-2-1    孤島への輸送の困難さ

8月のガダルカナル島での戦闘では、米軍兵力は1個師団弱(5個大隊:約11000名)だった。しかし、日本軍は米軍の規模がわからなかったこともあって、一木支隊1個連隊と海軍陸戦隊(約3000名)を送ろうとし、その先遣部隊としてまず1個大隊規模(約900名)の兵力を送った。

その頃、欧州の東部戦線では、9月1日にスターリングラードにドイツ軍が突入するなど、独ソの各数十師団の合計で百万名以上が戦っていた。それに比べると、ガダルカナル島での戦闘規模は著しく小さい。しかし、この規模は戦闘の重要性を表しているわけではなく、むしろ日米ともに根拠地から極めて遠く離れた南洋の島に、兵力を送ることが如何に困難であるかを示している。つまり、この地域の戦闘を制限して規模を決めていたものは、まずは海上輸送の距離である。

そのため、8月の米軍のガダルカナル島上陸以降、日米の勝敗は輸送によって決したといっても過言ではない。8月末までは米軍は小型で旧式(ただし高速)の輸送駆逐艦による輸送が主体だったが、徐々に本格的な輸送艦による輸送に成功した。それでも9月7日のように、米軍の輸送艦2隻が到着はしたものの、日本軍の航空攻撃によって揚陸を諦めて引き返すこともあった。米軍は最初の上陸時に11000名の兵士をガダルカナル島に上陸させたためか、その後9月中旬まではその維持のための補給物資や兵器・工兵隊の輸送が主だった。そして、兵士の増援については、9月18日の第7海兵隊4000名の増援の成功で、ようやく一息ついた。これでツラギからの移動を含めてガダルカナル島を19000名の兵士が守ることになった。

 

194287日、ガダルカナルとトゥラギ上陸作戦の初日にUSSサンフランシスコ(CA-38)から撮影された輸送駆逐艦マッキーン。同艦はトゥラギ上陸グループの一員だった。https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-390000/80-G-391483.html

12-2-2    米軍の揚陸方法

米軍が送った輸送船団のいくつかは、ガダルカナル島へ向かう途中で日本軍哨戒機に発見された。しかしこの船団の攻撃に向かった航空機の攻撃隊のほとんどは、悪天候による視程低下などのために、輸送船団を発見・攻撃できなかった。船団攻撃のために夜間にルンガ岬沖に進出した日本の駆逐艦(一部巡洋艦)の多くも、そこで米軍の輸送艦を発見できなかった。9月中旬までに、ガダルカナル島付近で撃沈された米軍輸送艦は、輸送駆逐艦を除くと8月8日の航空攻撃による輸送艦「ジョージ・エリオット」以外にはない。

ルンガ岬付近は海岸地形が単調で開けており、夜間でも天候が良ければ輸送船を視認できたと思われる。しかし、ルンガ岬沖の夜間攻撃に出撃した日本軍艦船は、ルンガ岬で揚陸していた米軍輸送艦を発見できなかった。実は米軍では、ルンガ岬に物資を輸送する場合は、輸送艦は日中にのみ荷揚げを行うよう指示されていた。荷揚げが終わらない場合は、夜間に海峡を東に退却し、夜明けにルンガ岬に戻って揚陸を再開することになっていた [9]。そのため、夜間にルンガ岬沖に侵入して輸送船を攻撃しようとした日本軍艦船は、夜間も活動を行っていた輸送駆逐艦以外には、米軍の輸送艦を発見、攻撃することが出来なかった。

そして、米軍ではそれまでの教訓を元に、9月29日にガダルカナル島への輸送のやり方を明確に定義した。それは、1日で揚陸できるように、1隻当たりの積み荷を3000トンに制限した。ただし、ガダルカナル沖で荷物を揚陸する場合は日中だけ荷揚げを行うが、比較的安全なツラギで荷揚げする艦船は、連続的に荷揚げを行えた [9]。

一方で、日本軍は日没頃にガダルカナル島の300 km圏内に入り、荷下ろししてから日出前に300 km圏外に出なければならなかった。このため、駆逐艦が揚陸にかける時間は長くても2~3時間程度しかなかったと思われる。しかも、上述したように月明期には輸送できなかった。これらから補給物資の揚陸量が制限された。

12-2-3    日本軍潜水艦による攻撃

輸送艦に対する日本の航空攻撃は、天候に阻まれてしばしば失敗している。艦艇による攻撃は上記の通りである。それでは、潜水艦はどうだっただろうか?日本軍の潜水艦は、8月7日の米軍上陸時に、艦船攻撃のためにガダルカナル島付近に派遣された。しかし、到着したのが敵艦船の撤退後だったので、ガダルカナル島付近では敵艦船を見なかった。それでそれらの潜水艦は、3-2-4節で述べたように陸地の偵察を行った後、撤収してしまったようである。また、8月20日にエスピリッツ・サント方面で敵機動部隊が発見されると、第7潜水部隊を始めほとんどがそちらへと向かった。

その後潜水部隊は、8月23日と24日に再びガダルカナル島方面へ進出するように指示された。8月下旬、ソロモン諸島周辺海域には第1潜水部隊(伊9、伊15、伊17、伊19、伊26、伊31、伊33)、第3潜水部隊(伊10、伊174、伊175)及び第7潜水部隊(伊121、伊122、伊123、呂34)が作戦中だった [29, p62](伊174は27日に第7潜水部隊に編入された)。このうち、第7潜水部隊が26日頃からルンガ岬で敵艦船攻撃の配備についた。残りはサンクリストバル島方面に散って、31日に空母「エンタープライズ」の雷撃に成功している。

南東太平洋地図(赤字は重要地点)(再)

ルンガ岬付近に配備された第7潜水部隊は、敵を発見しなかったため監視区域を変更した。しかし、その監視地域は伊「123」、呂「34」を除いて、なぜか南緯10度(ルンガ岬は南緯9.5度、東経160度)より南になっている(「呂34」はエスペランス岬より西) [29, p64]。しかも、ルンガ岬に入るためのガダルカナル島東の海峡に配備された潜水艦「伊123」は、米掃海駆逐艦によって8月29日に撃沈された。つまり、ルンガ岬に入る海峡に入った艦船を攻撃する潜水艦は、29日以降いなかったと思われる。

8月31日に潜水艦「伊11」はガダルカナル島の南東で貨物船を雷撃して撃沈を報告したが、連合国軍にはそれに類する記録はない。これと潜水艦「呂34」による前述した記録のない戦果を除くと、輸送船に対する戦果の記録はない。第7潜水部隊は補給のために9月1日に第3潜水部隊(伊172、伊174、伊175)と交代した。

9月に入ると、ガダルカナル島東の海峡(ガダルカナル島、サンクリストバル島、マライタ島に囲まれた海域)においては、潜水艦「伊174」、「伊175」が、夜間に相次いでガダルカナル島に出入する敵船団を発見した [29, p124]。米軍船団は、早朝からガダルカナル島に揚陸するため、この海峡の通過は深夜となった。当時この海域では夜間にしばしばスコールがあり、低視程のために潜水艦による発見は近距離となった。潜水部隊は、避退潜航が精一杯で攻撃の機会は得られなかったとある [29, p125]。なお、ルンガ岬沖には、停泊中の船舶を攻撃する潜水艦は配備されていない。警戒が厳重だったか、海底が浅かったのかもしれない。

一方で日本海軍は、米機動部隊がいそうなエスピリッツ・サント方面の海域には、15隻以上の潜水艦を散開線に投入していた。しかし、輸送阻止のためにガダルカナル島東に投入したのは第3潜水部隊の3隻だけだった。

潜水部隊作戦経過図(9月6日~15日)(再)

米海軍は輸送船の護衛に機動部隊を投入していた。空母「ワスプ」を雷撃で失ったものの、それによって日本の潜水艦を引きつけ、11-1節で示したようにガダルカナル島への増援輸送には成功したといえるのかもしれない。

12-2-4    船舶輸送の問題

米軍のガダルカナル島への輸送に使われた輸送艦(後の攻撃輸送艦)の多くは、8000-15000トン級で、速度も14-16ノット出すことができた。対空武装を持ち揚陸用の装備・設備も持っていた(この時期、直接岸に乗り上げて船首から車両や物資を下ろせる揚陸艦LSTなどはまだなかった)。

ガダルカナル島への米軍上陸を聞いて、日本陸軍はまずトラック島にいた大隊規模の兵力を輸送船で送ろうとした。しかし、その時たまたまかもしれないが、使えた日本の輸送船の速度は遅かった。トラック島にあった陸軍一木支隊第2梯団は、8月16日朝に陸軍徴用船「ぼすとん丸」と「大福丸」でガダルカナル島へ出発した。この船団は、巡洋艦「神通」と第34号、第35号哨戒艇に護衛されていたが、その速力は8.5ノットだった。

そして海軍は、グアム島にいた横須賀第5特別陸戦隊(横5特)を、トラック島経由で最大速力20ノットが出る特設巡洋艦「金龍丸」でガダルカナル島へ送ろうとした。しかし、7-1節で述べたように、その輸送は陸軍の低速輸送船に合わせる形になった。結局、この遅い輸送によって到着が飛行場完成の後になったことにより、せっかく高速が出せた「金龍丸」は爆撃を受けて沈没した。

実は1910年の「海戦要務令」によって、陸軍兵士の輸送は陸軍で行い、海軍がその護衛を行うと規定されていた(もちろん、この時点では大陸での戦闘が想定されている)。そのためトラック島でも、陸軍一木支隊を陸軍の低速徴用船で送り、海軍の陸戦隊は海軍の特設巡洋艦で送ろうとしたのではないかと思われる。

当初、南太平洋には特設巡洋艦として「金龍丸」と「金剛丸」の2隻が配備されていた(特設巡洋艦については12-2-7節で解説する)。ところが、「金剛丸」は3月にラエで米機動部隊のヒットエンドラン攻撃を受けて沈没していた。代わりの特設巡洋艦(または高速輸送船)は配備されなかったようである。比較的高速な海軍の特設巡洋艦は「金龍丸」のみだったが、もし一木支隊第2梯団と横5特を駆逐艦輸送と合わせて「金龍丸」で輸送できておれば、20日頃にはガダルカナル島に着いていた可能性がある。つまり、一木支隊と横5特(約3000名)を、米軍航空機が活動を開始する前に、まるごと輸送できていたかもしれない。

もっと言えば、一木支隊第2梯団がトラック島を出発した8月16日には、3-2-6節で述べたように、ニューギニア作戦のための南海支隊主力(支隊司令部と第144連隊)と第41連隊が、輸送船とともにラバウルにあった。これらの南海支隊は8月17日に輸送船3隻(和浦丸、良洋丸、乾陽丸)でラバウルを出発し、翌日18日に無事にニューギニアのバザブアに上陸した。第41連隊は19日に輸送船2隻(靖川丸、妙高丸)でラバウルを出発して、21日にバザブアに上陸した [7, p337](バサブアまで距離は、ガダルカナル島までの約2/3)。

使われた輸送船の速度は、全てについてはわからないが、その中の1隻である和浦丸(4853トン)は最大16.5ノットで、他の船も同程度の速力を持っていたかもしれない。結果論ではあるが、(不要不急の?)ニューギニアへはトラック島の一木支隊を充てて、一刻を争うガダルカナル島へは、ラバウルにあった南海支隊を準備してあった輸送船で直ちに派遣していれば、飛行場が稼働する8月21日より前に空襲を受けることなく上陸できていたと思われる。フル編成の南海支隊(第144連隊)と第41連隊がガダルカナル島に上陸できていれば、また別な戦いになっただろう。

12-2-5    軍艦を用いた陸軍部隊の輸送について

陸軍は、8月から9月にかけてガダルカナル島での戦局に合わせて西太平洋にあった部隊をソロモン方面に集めた。しかしガダルカナル島方面における作戦は、開戦当初の計画にはなかったため、補給面における準備がなく、遠距離の輸送、中継拠点の整備、マラリア対策、現地自給策など、多くの問題を克服する必要が生じた [1, p87]。しかも、戦局の急な変化のため、鈍足である輸送船では間に合わず、陸軍は多くの部隊(一木支隊、川口支隊、青葉大隊、舞鶴大隊など)を、インドネシアやパラオから海軍の巡洋艦や駆逐艦で輸送した。これらの部隊は到着後に再編成される余裕がなく、フル装備や本来の編成ではないまま、そのまま各地の戦線に投入された。これも戦力が発揮できなかった一因と考えられる。

例えば川口支隊(第124連隊)や青葉支隊(第4連隊)をパラオやインドネシアなどから兵士と軽火器のみを急いで軍艦で輸送して、ラバウルやショートランド経由で大隊毎にタイボ岬や反対側のカミンボに上陸させた。そのため、上陸した部隊の編成はバラバラとなった。陸軍部隊を海軍の艦艇で輸送するという想定がなかったため、すぐに輸送できる手段で、編成に拘らずにすぐに輸送できる部隊を、輸送出来る場所に送った感がある。なぜ東太平洋で戦う計画がなかったのかは、14-2節で議論するが、これはもともと陸軍は太平洋の島嶼で戦う想定がなかったため、部隊を必要な地域にまとめて迅速に海上輸送することができなかったと思われる。

12-2-6    海岸への揚陸の問題

ガダルカナル島への駆逐艦輸送について、8月25日に日本軍は輸送船による輸送に失敗し、その後「鼠輸送」と称して駆逐艦による輸送に切り替えた。そして、鼠輸送では重火器は輸送できなかったとされている。

駆逐艦の輸送能力は、1隻で人員150名、物資100トンが基準だった [7, p405]。数トンもある重砲は無理でも、92式70mm歩兵砲(大隊砲、重量204kg)、94式37mm対戦車砲(重量327kg)、41式75mm山砲(同540kg)、94式75mm山砲(同536kg)程度であれば、駆逐艦に搭載できた。8月28日に川口支隊の輸送に従事して、空爆により撃沈された駆逐艦「朝霧」には、大隊砲2門と弾薬と兵士が搭載されていた [29, p26]。ちなみに、山砲とは草原などの平地で使用される野砲に対して、山岳などの不整地でも分解輸送して使用できる大砲である(威力は野砲より劣る)。41式山砲は大隊砲として使われることが多かったようである。94式山砲はこれの改良版である。

前述の敷設艦「津軽」による12cm野戦高射砲1門を除いて、8月29日から9月7日までに高射砲2門、野砲4門、速射砲14門、山砲(連隊砲)6門がタイボ岬に揚陸されている(その一部は9月8日に米軍によって破壊された) [7, p405]。タイボ岬に揚陸された大砲は、敷設艦「津軽」で運ばれたものを除いて、全て駆逐艦で運ばれたと考えられるが、その際の揚陸方法に関する記述がない。9月7日に第24駆逐隊(海風、江風、涼風〉は、試験的に大砲を大発に載せて曳航しようとしたが、風浪で曳索が切れたりして大発は全て放棄されており [29, p59]、揚陸に大発は使われていない。

この時期、大発の曳航に成功した記述はなく、タイボ岬に大発はなかったと思われる。そのため、大砲類は折畳舟を用いて揚陸されたのかもしれない。しかし、「津軽」の大発がそのまま残されていた可能性がある。また、8月30日に哨戒艇4隻(旧式駆逐艦)がタイボ岬への揚陸に成功しており、これらの哨戒艇に大発が搭載されていれば、それらもタイボ岬に残されていたのかもしれない。

夜間であれば揚陸が容易であったかというと、必ずしもそうではない。月明時には、艦船は夜間も銃撃などの航空攻撃を受けた。ただし、米軍飛行艇などにはレーダーが積まれていたが、まだこの時期の航空機レーダーは初歩的なもので、岸と船を区別することはできなかった [29, p69]。また米軍パイロットの技術(急降下爆撃など)も、最初の間は実戦経験がほとんどない者が多かったので、それほど夜間の命中率は高くなかったと思われる(母艦被害によりガダルカナル島へ支援に来ていた艦載機のパイロットは別である)。

12-2-7    特設巡洋艦と高速商船について

もともと諸外国では、19世紀頃から有事になれば大量の民間商船を徴用して外洋作戦を可能とすることを想定して、平時から自国商船隊の育成に努めていた。近代戦における輸送の複雑化と重要性に鑑みて、日本軍でも軍用の輸送船の能力向上が図られていた。

日本では1932年から、「船舶改善事業」で老朽商船の更新を図ることとなり、5000~10000トン級の高速商船48隻(速力16~18ノット)が、補助金を付けて建造された。これで建造された全ての船は、太平洋戦争に入ると軍に徴用された。1937年以降も優秀船建造の助成は継続され、引き続き高速商船28隻が建造された。またこれとは別に、日本郵船では船名がSで始まるSクラス高速商船を7隻建造していた [34]。さらに「橿原丸」と「出雲丸」(速力25ノット)が空母転用を想定して建造され、これらは実際に空母「隼鷹」と「飛鷹」に改修された。この時期に補助金を付して建造された高速商船のほとんどは、戦時に軍に徴用された。

そして、軍に徴用された高速商船の一部は、太平洋戦争が始まると特設巡洋艦となった。なぜ「巡洋艦」だったのだろうか?これは帆船時代から通商破壊作戦を行う船の一種として商船に仮装した巡洋艦(Armaed Merchant Cruiser)があった。これは実態は武装商船なのだが、このクルーザーという英文を慣習的に巡洋艦と訳したためのようである。

特設巡洋艦は、外洋の哨戒任務および哨戒線に配置される特設監視艇の支援任務、外洋での通商破壊戦および偵察任務用、内戦部隊での母艦任務等が目的とされている。特設巡洋艦は、中には魚雷発射管や水上機(カタパルトはなくデリックで水上機を海上に降ろして発進する)を搭載したものもあるが、船体の大きさが近い以外に正規の巡洋艦との共通性はない。しかも外洋での作戦は、第二次世界大戦の直前から航空機の偵察・攻撃能力が飛躍的に発達したことにより、正規の巡洋艦でさえ安全でなくなっており、大型の商船を用いた作戦は無理があった。

そのためか、特設巡洋艦は太平洋戦争中に徐々に特設運送艦へと転換されている。日本海軍の特設巡洋艦は開戦前後に14隻あったが、終戦直後に機雷に触れて沈没した1隻を含めて、終戦後まで残った船はない。艦隊決戦に特化した海軍には、上記の海戦要務令にあったように輸送を直接担う発想はなかった。しかし、特設巡洋艦の性能は高速輸送船に適していたと思う。結果として、特設巡洋艦という中途半端な船種での運用は、成功したとはいえなかった。米国の攻撃輸送艦のように、当初から輸送用の高速船を多数整備・運用していれば、もう少し違った結果になっていたかもしれない。。

なお上記で建造された高速商船は、他にも特設水上機母艦や特設潜水母艦、特設機雷敷設艦などさまざまな特設艦に改修されて、それなりに活躍した。高速商船は小型空母にも改装されたが、海軍の商船改造空母は、正規空母に準じた艦隊目的に用いようとしたため、結果的に戦局に寄与することはあまりなかった(一部は航空機の輸送に用いられている)。

12-3    日本軍の通信の問題

12-3-1    通信の文化とハードウェアの問題

あくまで相対的な問題かもしれないが、そもそも日本は明確なコミュニケーションを重視しない風土があるのではなかろうか?暗黙の不文律というものがあり、それに従って最低限のコミュニケーションでものごとを進めるのが当然、という雰囲気があるような気がする。もしそういう文化があれば、軍事を含めてあらゆる面に普及していただろう。同一民族のためか「息が合った」とか「あうんの呼吸」などが重視された面があったかもしれない。しかし、組織がどういう場合でも組織として行動する(つまり下部組織が規定された役割を確実に果たす)には、どんなに離れていてもまず情報の共有と相互の意思疎通は必須である。「あうんの呼吸」では、よほどのことがない限り行動はバラバラとなり、想定された成果が得られることは少ない。

1930年代の日本軍における通信機材(電子機器を含む)の能力・普及は、欧米に比べて一歩遅れていた感がある。無線電話を含む通信技術は、やはり第一次世界大戦で大きく進歩した。第一次世界大戦後は、それを利用したアマチュア無線やラジオ放送などの電波の民生用の利用が始まった。日本でもそれが特別遅かったとは思えない。現在まで続いている「無線と実験」という雑誌の発刊は1924年である。当時のそういった新しいテクノロジーに対する熱気は、日本も他国と同じようだったかもしれない。

しかし、それらの軍事利用となると、保守的というか一歩遅れてといった感じが否めない。たしかに軍事には民生用とは異なった仕様が求められるだろう。しかし、民生用には大量生産による安定した品質が求められる。そういった民生技術を利用しながら軍用の利用技術を相乗的に高めていくという発想が乏しかったのではないだろうか?それを暗黙の文化が後押ししたかもしれない。また標準化の所で述べるが、限られた研究者・技術者で、多種の無線機や電波探信儀(レーダー)を開発しようとしていたようである。戦前は無線に関する多くの技術を海外からの輸入に頼っていたのが、開戦後に突然途切れたことも影響しているかもしれない。

いずれにしても、日本の無線電話技術は遅れていた。欧州では、1939年には単座航空機にも地上や他機と交信する無線電話が装備されていたのに、日本ではそれができなかった(あってもほとんど使えなかった)。その実現は1945年に入ってからで、実質的に欧米より5年以上遅れた。これは地上での通信機器の発達にも現れている。米国陸軍は1941年に携帯型の無線電話ハンディトーキー(ウォーキートーキー)を開発して多くの部隊に配布していた(TVドラマ「コンバット」の世代には馴染みがあるだろう)。重さは2.3 kgで1.6 km程度通話能力を持っていた。一方で、ガダルカナル島で日本の陸軍部隊が使用した94式6号無線機は、重量約23 kgで通信能力2 kmだったことを見ればその違いが如実にわかる。

さらに、米国や英国、豪州は、ソロモン諸島の現地の自国民や現地住民の協力者に遠距離用の無線機とそのための発電機(と燃料)を配布して、豪州本国との情報網を構築していた。その通信網は着実に機能し、連合国軍の戦闘に大きく寄与した。それに比べると、日本軍はラバウルとガダルカナル島との間の部隊間の通信にも事欠く状況だった。このような違いも戦局に大きく関係したと思われる。

12-3-2    通信を用いた戦闘指揮

これまでも断片的に書いたが、日本軍の戦闘は、事前に手はず位はあったかもしれないが、いったん戦闘に入ると、航空部隊、艦船(艦砲射撃)、砲兵隊、あるいは各部隊は、多くの場合に状況に応じた連携をせずに単独で戦っていた。日本軍は通信機器のレベルが低いこともあって、司令部が通信を用いて一元的に戦況を把握して、陸海空の各部隊に通信で状況に応じた効果的な指示を出す、という発想があまりなかったようである。

米軍では専門の射撃指揮部隊あるいは連絡部隊を配置して、その場の陸上の戦闘状況に応じて、無線指示によって敵の拠点に対して空爆あるいは艦砲射撃をピンポイントで行うというシステムを採用していた。また既述したように、ガダルカナル島では陸軍機と海軍機の使用周波数の違いに直面して、海軍の無線をいったん基地で受けて、地上にいる陸軍機の無線を使って上空にいる陸軍機に伝達するような工夫も行っていた [10]。

予め射撃制御部隊を陸上に派遣しての艦砲射撃の例として、9月25日のガダルカナル島での米軍攻勢を挙げる。この日に米軍の第1海兵大隊がクルツ岬の西に上陸して、マタニカウ川沿いの日本軍に攻勢をかけた。海兵大隊は予想外の激戦で窮地に陥り、日本軍に包囲された。海兵大隊は司令部を経由した無線で駆逐艦の掩護射撃を受けることによって、日本軍の包囲を突破して海岸へ撤退しようとした。ところがちょうどその時、日本軍攻撃機によるルンガ岬への爆撃で米軍の通信網が破壊された。苦戦していた大隊は、掩護の艦砲射撃を行うことになっていた駆逐艦「バラード」と無線が通じなくなった。大隊は咄嗟に海岸から信号旗を使って駆逐艦に射撃位置を伝えたことによって、無事に日本軍の包囲を突破して海岸に到達でき、上陸用舟艇に収容された [9, p129]。

一方で、日本軍は一般的に陸と空の間や陸と海の間での連携は弱かった。例えば日中戦争では、地上部隊を支援する海軍水上機に対して、陸軍部隊からは布板信号で指示し、空中からは報告球を投下するという原始的な方法で連絡が行われていた [25]。日本軍では、米軍のように無線を使って陸上からの観測と連携して空からの爆撃や海からの艦砲射撃を行う、ということが出来なかった。

また、ガダルカナル島守備隊は、遅くとも8月下旬までには飛行場周辺の米軍の動きを遠くから監視できる高地を確保したようである。米軍機の動向や艦船の入泊などをラバウルに連絡した記述がある。しかし、その頻度や効果は不十分だった。輸送船攻撃のためにルンガ岬に突入した艦艇(主に駆逐艦)が、「敵を見ず」によって攻撃が空振りに終わった事例があまりにも多い(米軍艦船が夜間に退避していたことを知らなかったようである)。せっかく敵の近くに自軍がいるので、米軍の動きをよく監視・把握して報告できていたら、攻撃効果がもっと上がったかもしれない。

12-3-3    規格化・標準化の問題

日本では、ものごとを規格化・標準化して、作りやすくかつ使いやすいようにするという発想が一般に乏しいようである。つい最近まで水道栓のレバーは、押すと水が出るものと止まるものが混在していた。当時の戦闘機のスロットルも、機種によって押すと開く(加速する)ものと閉じる(減速する)ものがあったという話がある。大戦末期になると突然の空襲に手近な戦闘機に乗って迎撃することもあり、一瞬の操作ミスがあれば、それは致命的になっただろう。

製作も使用も名人芸が尊ばれ、どこでも誰でも作って使える、ということはあまり尊重されなかった。しかし、機器を規格化・標準化することは、機器の動作が安定して誰でも操作しやすいものにするためには重要なことである。また、規格化・標準化によって大量に製造することで価格も下がる。乾電池の例を見ればわかる。大きさの規格が統一されているため、電池が切れても世界中のどこででも安く買えて使うことができる。

詳しくは通信の歴史の専門家に譲るが、日本軍における通信機材の多種多様な種類を見ると、共通の基本部分を重点的に開発してそれを各分野で応用するよりも、あらゆる分野でそれに応じた通信機材を、別々に一から開発しようとしていたように見える。その結果、どれも完成度が低く、能力的に不完全・不安定で、しかも生産に時間がかかったのではないかと思われる。

通信機材はこの一例に過ぎない。日本での陸軍と海軍で異なる規格による多種の航空機の開発、銃砲類とその弾薬など多くの事にこのことが当てはまる。弾薬と砲はあったが、それぞれの規格が異なるので使えなかったという戦記もある。ちなみに、米国では南北戦争の前から小銃間の部品の互換性に意を注いでいた。そして第二次世界大戦時には、米軍では例えばブローニング M2 重機関銃とその弾薬を大量に生産して、地上の兵士も、戦車も、航空機も、そして陸軍も海軍も共通に使用していた。

物資を大量に揃えて誰でも円滑に利用するには、その製作や利用に関する規格化・標準化が欠かせない。しかし、軍だけでなく、日本にはそれを重視する文化があまり根付いていなかったし、それは現在でも十分とはいえないかもしれない。

12-4    その他の課題など

12-4-1    沿岸監視員による情報網

沿岸監視員という制度は、遡ると1919年に豪州海軍が民間組織として設立した [22]。英国や豪州は、日本による脅威が増した時期から、目の届きにくいソロモン諸島にいる自国民や現地住人の警察官や郵便局員、教師などに、無線機を与えて沿岸監視員とした。そして、彼らの下に現地住民を配して沿岸監視体制を構築した。当初彼らは豪州海軍情報部の政府職員だったが、1942年には連合国情報局の管理下に置かれた [22]。

彼らには無線機はもちろん、バッテリーや発電機とそのための燃料も定期的に提供されていた。その無線機は電話でも600 km、電信だと1000 kmも届いたという [35]。その通信能力は、ガダルカナル島の監視所が持っていた無線機より高かったことに注目する必要がある。沿岸監視員の数は1939年には100か所に約800名の沿岸監視員がいたとされている [35]。彼らを支える仕組みを含めると相当に大規模な組織だったことがわかる。

米軍の上陸時には、これらの沿岸監視員からの無線機による情報によって、上陸艦隊に対する日本軍の航空攻撃が阻まれた。また彼らは、飛行場建設に協力する現地住民に混じって、飛行場の建設状況を報告していた。またガダルカナル島で戦いが始まると、撃墜や不時着した米軍パイロットの救助や保護に活躍した。救助したパイロットは118名に上るという [22]。

このような熱帯の辺境での諜報システムは、一朝一夕にできるものではない。それにはある意味でフロンティア・スピリット的な気風ととともに、植民地経営の歴史を感じる。英国や豪州によるこの平時からの情報網には、かつての大英帝国のしたたかさを感じる。

日本軍は、ほとんどが現地住民からなるこんな南太平洋の辺境の地に、このような監視・情報網があることを予想だにしなかっただろう。通常は航空攻撃による主導権(場所と時刻)は、奇襲による攻撃側にある。しかし、この監視・情報システムによって、連合国軍は日本軍機による奇襲を多くの場合に未然に防ぐことが出来た。この利点はいくら強調しても強調しすぎることはないだろう。

12-4-2    航空攻撃時の天候把握

ラバウルからはしばしばガダルカナル島へ航空攻撃を行ったが、かなりの頻度で天候不良で引き返している。例えば、一木支隊第2梯団がガダルカナル島に近づいていた8月23日に航空攻撃でもガダルカナル島の敵機を叩くことが計画され、陸攻24機が零戦13機とともに出撃したが、天候不良で引き返した(第2梯団は別の要因で引き返している)。

第25航空戦隊の日誌を見ると、この天候による引き返しはしばしば起きている。これはガダルカナル島守備隊から天候報告を受けていなかったのか、それとも天候が急変したのかは不明である。さらに第25航空戦隊では、9月の初めまで天候偵察機を飛ばしていなかった。連合艦隊参謀は、哨戒を含めた基地航空隊の活動に対して、「天候偵察ノ手段不足」と述べている [4, p582]。

熱帯の気象は局地的あることが多い。つまり、場所や時刻が異なると天候も異なることが多い。天候偵察機を飛ばして、雲の薄い地域がどこかにあるのかないのか、どの地域の天候が回復に向かっているのか悪化しているのか、を把握することは、航空戦にとって重要な基本と思われる。広範囲の気象を把握しておけば、行く手が悪天候のように見えても、少し迂回すればそれを避けられた場合があったかもしれない。

また、ラパウルとガダルカナル島との間に中間基地を整備しなかったことが、気象把握の上からも作戦遂行に重大な影響を及ぼしたとも述べている。しかし、目的地のガダルカナル島には守備隊がいた。そこの天候情報がわかれば、それだけでも進撃を阻んでいる気象擾乱が、広域にわたる大規模なものなのか、その付近だけの局所的なものなのかの判断が出来たかもしれない。途中の島々に気象部隊を配置するやり方もあった。日本軍は戦闘における気象の重要性に関心があったようには見えない。

そういった航空戦の基本的な理解不足がガダルカナル島への航空攻撃が不徹底になった一因かもしれない。連合艦隊司令部の指摘を受けてか、9月に入ると第25航空戦隊日誌には天候偵察という飛行目的が、しばしば見られるようになっている。ただし、気象の専門家が同乗したわけではなく、搭乗者が目視で判断しただけと思われる。

12-4-3    上陸直後の日本軍の対応

次に8月の米軍のガダルカナル島上陸後、飛行場の完成までが戦局を左右する重要な状況だったにもかかわらず、日本軍は当初の予定通り、戦力を割いてニューギニアでの作戦(海軍によるラビ攻略と陸軍によるポートモレスビー攻略)を進めた。まず大きな躓きは、ここにあると思われる。日本軍が、ガダルカナル島優先という戦略に転換するのは9月に入ってからである。この1か月の遅れは致命的であり、結局取り戻せなかった。

ラバウルの陸軍の第17軍と海軍の南東方面部隊(第11航空艦隊と第8艦隊、作戦によって第2艦隊と第3艦隊が加わる)は、ロバード・ゴームリー(後にウィリアム・ハルゼーに代わる)が率いるガダルカナル島の南太平洋方面部隊と、ダグラス・マッカーサー率いるニューギニアの南西太平洋方面部隊の、米軍の2つの方面部隊を一度に相手にしていた。そのため、ガダルカナル島を攻撃しながら、ニューギニアへの攻撃や輸送船団の護衛を行うなど、戦力を分散せざるを得なかった。

前にも述べたように、ガダルカナル島の飛行場の完成前に、作業を妨げる大規模爆撃を執拗に行ったり、後に行った戦艦や巡洋艦による艦砲射撃を繰り返して行ったりしておれば、飛行場の整備は制限され、完成は遅れたたはずである。飛行場の完成が数日遅れていれば、一木支隊第2梯団や川口支隊の輸送船による輸送は航空攻撃を受けることなく順調に進み、もっと多量の兵力と装備を揚陸できていたもしれない。

この問題には日本軍の基本的な考え方、特に航空機の威力の過小評価が関連していると思われる。またその運用に当たっても、規模の問題(陸攻30機程度が、実質的に一度に運用できる限界だった)や天候把握の問題(出撃しても途中から悪天候で引き返した例が多い)、次で述べる中間の航空基地(ブインの整備作業を始めたのは9月8日で完成は9月末)など、航空戦の当時の理解に問題がありそうである。これについては14-3節で改めて論じる。

12-4-4    ガダルカナル島までの中間基地

日本海軍は、5月のツラギの占領後にラバウル周辺の島々の基地強化に意を注いでいた。米軍によるガダルカナル島上陸時、カビエンには航空基地が完成していたが、多数の大型機を収容するにはさらに拡張する必要があった。また、ラバウルからガダルカナル島への往復にかかる6時間は、単発機にとってはあまりにも遠かった。ガダルカナル島上空での滞空時間や乗員の疲労、天候の急変を考えると、この距離は航空攻撃に支障をもたらしていた。ブカには豪州軍が使っていた滑走路があったが、施設はなく不時着用(つまり緊急避難用)だった。なお、水上機基地はショートランドがあったが、8月16日にギゾにも基地を設置している。

日本海軍は、ブーゲンビル島に3月末に進出したが、早くからこの中間基地問題に気づいており、6月末から各地を調査の上、ブーゲンビル島東岸のキエタや北端のブカにあった飛行場跡地を整備しようとした。しかし、7月初めの調査により、それらは山が近い地形と輸送路の状況を見て断念していた [4, p387]。他には適地が見つからなかったようである。

ラバウルからガダルカナル島までのソロモン諸島付近の図(再)

しかし、後にブインやムンダに航空基地を作ったように、中間の飛行場適地は真剣に捜せばあった。また、現地住民とうまく協力関係を構築しておけば、SN作戦開始時に地形に関するさまざまな情報を現地住民から手に入れられたかもしれない。ガダルカナル島でもそうだが、現地住民とうまく協力するという発想はあまりなかったようである。

航空戦に精通しておいれば、目的地の天候急変やエンジン不調などで、予定の目的地を変更して着陸できる飛行場が途中に複数必要なことはわかっていたはずである。7月の中間基地探しは、既存の使える飛行場があればという程度で、新規に建設するというほどの真剣さはなかったのかもしれない。

中間地点であるブーゲンビル島のブイン基地の建設が始まったのは9月初めで、9月末には完成したが、実際に使用され始めたのは10月に入ってからだった。SN作戦開始時に建設を始めていれば、8月初めには使用できたのではないかと思われる。そうすれば、ガダルカナル島までの距離は半分程度となり、島上空で長時間滞在できるだけでなく、ラバウルにあった航続距離の短い零戦32型(2号零戦)も使えるようになるので、航空勢力が少しは変わったかもしれない。

12-4-5    日米両軍兵士の練度

ガダルカナル島上陸作戦以前には、アメリカ本土には実戦経験のある兵士はほとんどいなかった。しかも、米軍首脳部は、ガダルカナル島・ツラギ島の日本軍兵力を、質・量ともに高いと推定していた。ガダルカナル島上陸作戦は、キング提督とニミッツ提督にとっては、兵士の凄惨な損害を覚悟した上での、初めての敵前強襲の上陸作戦(水陸両用作戦)だった。

当時アメリカ国内では、対独優先で太平洋では当面守勢、という考えが多かった中で、米軍はこれだけの被害を覚悟した作戦を強行した。米軍首脳部は、召集(志願)したばかりの未経験の若年兵士では、経験豊富なベテラン兵士を多数抱える日本軍と対等に戦えば勝てない、という謙虚さ・客観さがあったのではないだろうか?それが直接対決をなるべく避けて、情報を重視し日本軍の補給を叩き、状況に応じて奇襲攻撃をし、近代兵器の質・量を揃えて機械力で圧倒するという行動に表れているように見える。

しかし現場の米軍兵士の実際の問題として、兵士が実戦慣れしていないのをどう対処していくかが、切実な問題としてあった。ガダルカナル島に上陸した米軍は、防衛線から外に出るパトロール隊を頻繁に出した。それは戦場となりそうな現地の風土や地理に慣れさせると共に、出くわした日本軍との小規模な攻撃を通して、徐々に兵士に実戦経験を積ませていく意図があったようである。

そして米軍兵士の練度は確かに上がっていくとともに、戦いを通じて日本軍兵士への過度な恐怖は減っていった。それはガダルカナル島での日本軍のまずい攻撃指導と相まって、自信へと変わっていったようである。米軍は、ガダルカナル島において日本軍兵士の神話が砕かれた、と述べている。そういう意味では、ガダルカナル島での日本軍による中途半端な攻撃が、米軍兵士の練度と士気や自信の向上に大きな影響を与えた [22]。

反面、日本陸軍は米軍(海兵隊)を質・量ともに過小評価していたふしがある。実態を知ろうとせずまず敵を呑んでかかる(意気込みを見せる)。そして味方にさえ弱みを見せてはならない、という虚栄心がどこかで陸軍を支配していたように見える。ガダルカナル島の陸軍部隊からは、攻撃前に敵情不明なまま「任務完遂ノ確信アリ 御安心ヲ乞フ」といったような景気の良い電文がラバウルの第17軍司令部にしばしば打電されている(例えば [33, p27]、 [24, p126])。

そういった根拠のない「主観の伝達」にどれだけ意味があったかわからない。しかし司令部の方も現地軍がそう言っているのなら、と安心してしまうのである。だとすれば、日本軍(特に高級幹部)にとってまず戦わなければならなかった敵は、むしろ自身や自軍の主観性であったと言えるかもしれない。

12-4-6    戦艦を用いた飛行場砲撃

ここでの範囲からは逸脱するが、日本軍が10月に行ったガダルカナル島飛行場への戦艦による艦砲射撃について、少し述べておきたい。元来、戦艦は対戦艦用に建造されている。そのため大砲も砲弾も、陸上に向けて砲撃して効果を上げることを想定されて作られていない。しかし戦艦は、海上に浮かぶ移動できる巨大な大砲としてみてみると、海岸に近い場所では大きな脅威となり得る。

日本海軍は、対空用に開発した榴弾である零式弾や三式弾を、飛行場を使用不能に陥れるために陸上に撃ち込むことを思いついた。榴弾であれば、地上で爆発しても広範囲に被害を与えることが出来る。これは斬新な考えであったと思われる。またこれは、艦隊決戦で戦艦同士が撃ち合って決着を付けるという機会がほとんどなくなった時点で、戦艦の新たな利用方法を編み出したともいえた。そして連合国軍もアッツ島への上陸やノルマンディー上陸などの各地の上陸戦で、戦艦による陸上砲撃を積極的に活用するようになる。

戦艦といえども航空機(特に雷撃機)には太刀打ちできない。ところが、当初のガダルカナル島の米軍航空戦力の中心は急降下爆撃機だった(ガダルカナル島に初めて少数の雷撃機が配備されたのは9月12日 [9])。急降下爆撃機は駆逐艦や輸送船の攻撃には絶大な威力を発揮するが、戦艦に対しては厚い装甲を爆弾が貫通できず、装甲の外側で爆弾が爆発しても威力は限定的である。

この戦艦による飛行場砲撃を9月に行っていれば、昼間であっても米軍は対抗手段がなかったのではなかろうか?真珠湾攻撃では、急降下爆撃機の爆弾では戦艦の防御甲板を破れないので、停泊中の戦艦に対して、戦艦の砲弾を改造した800kg爆弾で高空から水平爆撃を行っている。9月に戦艦「大和」級か「長門」級をガダルカナル島砲撃に投入していれば、急降下爆撃機で撃沈されたとは考えにくい。少数の雷撃機は9月に配備されたようだが、多数の雷撃機をガダルカナル島に配備するのはもっと後のことである。

連合艦隊の角田覚治少将が、11月に戦艦による再度のガダルカナル島の砲撃を進言した。しかし、それは却下される。その理由はトラック島には、戦艦に給油する十分な重油がないというものであった。艦隊決戦の根拠地としての要であったトラック島には、短期決戦を想定していたためか、なんと十分な量の重油タンクがなかった。トラック島では各艦はタンカーから直接給油するか、戦艦から重油を分けてもらっていた。そのため、タンカーによる重油の補給が停滞すれば、戦艦用の重油もなかった。

12-5    熱帯の気象の補足

「アリューシャンでの戦い」でも述べたように、気象は戦闘に大きな影響を与える。熱帯の南太平洋でも気象は戦闘に影響を与えた。しかし、熱帯の気象は中緯度とは全く異なる。一部の戦記で熱帯の悪天候の原因を、前線(不連続線)の影響としているものがあるが、これは間違いである。熱帯では前線は発生しない。前線が発生するのは概ね北回帰線より北と南回帰線より南である。

熱帯の悪天候は積乱雲などの気象擾乱によるもので、異なる気団の衝突による前線のような組織的なものではない。熱帯はコリオリ力が弱く、中緯度のような低気圧(温帯低気圧)と前線は発生しない。熱帯低気圧は発生するが、これは前線を伴わない。熱帯に前線ができないのは気象学者から見て常識なので、戦史を分析される方は注意していただきたい。

ただし、熱帯には積乱雲が組織的にあつまる大規模な地域がある。これは熱帯収束帯(ITCZ)と呼ばれ、南太平洋だとボルネオ、インドネシア、西部ニューギニア付近にかかることが多い。この位置はエルニーニョとも関連しており、エルニーニョが起こると位置がずれて逆にこの付近は晴れて干ばつとなる。

もう一つの同様な地域として、ガダルカナル島やサモア付近には南太平洋収束帯(SPCZ)というものがある。これはちょうどニューカレドニアとソロモン諸島の間に南東に傾いて発生することが多い。これが発生すると、この北東側では積乱雲が多く天候が悪く、反対にこの南西側は晴れることが多い。この位置は、数百 kmのオーダーで位置が動くことがある。珊瑚海海戦時に、南東側に位置した米軍機動部隊は雲にかかることが多く、北西側の日本機動部隊上空の雲が少なかったのは、この南太平洋収束帯の位置が影響していたのかもしれない。

第二次世界大戦の前には熱帯の気象にはほとんど関心が向けられておらず、熱帯の気象の実態は不明だった。米国では世界的な気象学者ロスビーが中心となって、大戦中にシカゴ大学の付属施設として、プエルトリコに熱帯気象研究所を作って熱帯気象の研究を行っていた(カール=グスタフ・ロスビーの生涯(7))。日本軍では、主戦場が南方の熱帯であったにもかかわらず、熱帯の気象を専門に研究する組織はなかった。これは日本にロスビーのような人物がいなかったという単純な問題ではないだろう。戦争にとって気象がどの程度重要かということについての大勢の理解の基本がまずあって、その上に立ってロスビーが主導できたということだろうと思っている。

近代戦闘における気象の重要性は、第一次世界大戦で各国が痛感したことであり、第一次世界大戦の途中で、各国の気象部隊が大幅に強化された。戦争における気象の重要性を理解していた米国では、第二次世界大戦が始まると、米国はシカゴ大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)などの大学で数千名からなる気象技術者の大量養成を開始している。ドイツでは開戦前に既に2700名の気象学者がいて、そのほとんどが博士号を持っていたという [36]。

第一次世界大戦での各国の気象部隊の発達を経験していない日本軍は、航空戦を含む気象の重要性の認識が低かった。ツラギでもガダルカナル島でも気象専門の部隊はおらず、気象観測を行っていなかった。また、気象部隊もごく一部の気象学者を除いて前線を重視するベルゲン学派気象学を採用していなかった(気象が急変する前線は、航空機や艦船の運用にとって重要である)。航空攻撃のための天候偵察機の導入も遅かった。天候偵察機を簡単には飛ばせない欧州戦域では、英国は各地のパルチザンに気象測器を投下して、気象観測を行ってもらい暗号無線で報告させていた。またグリーンランドでは米国とドイツとの間で気象観測所を巡る戦闘を行っていた。それらの姿勢は日本軍の気象観測への対応とは大違いである。十分な気象観測網とその解析中枢があれば、海軍乙事件(古賀連合艦隊司令長官の熱帯低気圧による遭難)なども避けられたかもしれない。

参照文献はこちら