13. その後からガダルカナル島撤退までの概要

 (これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

10月からガダルカナル島撤退までの概要だけを簡潔に記しておく。

米軍が守りを固めたことから、ガダルカナル島を奪還するには、米国からの補給線を断ってから、航空撃滅戦によってガダルカナル島の航空戦力を壊滅させて、それから大規模船団で数個師団規模の兵力を送らなければ難しくなった。それは、その後米軍が日本軍が防衛している島嶼に行った戦法でもある。仮にそれに成功しても、その後はガダルカナル島内に戦線が出来て、再び輸送合戦となっただろう。つまり、ガダルカナル島に飛行場がある限り、日本軍にはその奪回のため戦闘を支える輸送は無理だったと思われる。

川口支隊の攻撃失敗の後、大本営はガダルカナル島の状況が容易ならざる事態になっていることを、ようやくはっきりと自覚した。第2師団に加えて第38師団主力の投入を決意し、高速輸送船を用いた正面からの船団輸送を計画した。一方で米軍では増援を受けた海兵隊が、新たな部隊の戦場慣れも兼ねて、島で攻勢に出る試みを始めた。

この攻勢を受けて、日本軍は飛行場攻撃の拠点として好適なマタニカウ川東岸から撤退せざるを得なくなった。日本軍は、鼠輸送によって徐々に兵力を増していったが、十分な食糧の輸送まで手が回らず、既に飢餓や病気が蔓延しつつあった。109日に第17軍司令部がガダルカナル島へ進出した。それによって、軍司令官はようやくガダルカナル島での自軍の実態について知ることになる。

一方で、太平洋艦隊司令長官ニミッツ自身が、930日に防衛が安定してきたガダルカナル島に赴いて、現地を守っている海兵隊司令官ヴァンデグリフトと会談した。ただゴームリーはずっとヌーメアに留まっていた。この会談の結果、新たな陸軍の投入や日本軍の鼠輸送の阻止のための艦隊派遣を検討することとなった。この米軍艦隊派遣によって、10月にガダルカナル島周辺で日米の艦隊によるいくつかの海戦が起こることとなる。

米軍は、1013日にニューカレドニアにいた陸軍アメリカル師団の第164歩兵連隊(2852名)を、物資3200トンとともに輸送艦2隻で送り込んだ [9]。日本軍にとって小うるさい魚雷艇4隻もツラギに曳航されて常駐するようになった。兵力や物資のさらなる充実によって、日本軍によるガダルカナル島の奪還はもっと困難になっていった。

海軍では前述の高速輸送船団による揚陸に合わせて、艦隊によるその護衛と飛行場の艦砲射撃を計画した。1011日にはサボ島沖海戦が起きて飛行場砲撃には失敗したが、水上機母艦2隻と駆逐艦を用いた輸送には成功した。また13日には戦艦「金剛」「榛名」がガダルカナル島飛行場砲撃に成功した。14日には重巡2隻の飛行場砲撃の下で高速輸送船6隻がタサファロング沖に到着した。しかし飛行場はかろうじてまだ稼働していた。米軍も必死の飛行場修復とエスピリッツ・サント基地からの中継での航空攻撃により、日本は3隻の高速輸送船を物資揚陸中に失った。輸送物資の約8割の揚陸に成功したものの、その後の米軍機の攻撃で揚陸した物資のかなりの量が海岸に積まれたまま焼失した。

1018日に南太平洋軍の司令長官は、ゴームリーから闘将ハルゼーに交代した。日本軍は、増援した第2師団を中心とする再度の飛行場攻撃を22日に計画した。しかし、これも甘い見通しによって攻撃日は遅延し、24日となった。しかも攻撃直前に手に入った航空写真での攻勢前面に構築されたように見える米軍防衛陣地への対応判断を巡って、攻撃開始前に右翼隊の川口隊長は罷免された。戦闘は激戦となり、左翼隊長や多くの連隊長や大隊長が戦死して日本軍の攻撃は撃退された。ゴタゴタのあった右翼隊は進出が遅れて戦闘に参加できなかった。しかも「飛行場占領」の誤報のため、突入した軽巡「由良」は爆撃され沈没した。

1026日には、この日本軍の攻撃に合わせて北上していた米機動部隊と日本軍空母との間に南太平洋海戦が起こった。日本海軍は空母「翔鶴」が小破し、「瑞鳳」が中破したが、米海軍は空母「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」が損傷した。この南太平洋海戦によって、稼働する米空母は一時的にいなくなり、日本軍は南太平洋から米空母を排除することに成功した。しかしながら、それでも日本軍はガダルカナル島の米軍航空戦力を削いで制空権を得ることはできなかった。また、長距離大型爆撃機の脅威も無視することは出来なかった。逆に日本軍は航空機と操縦員の消耗戦に引き込まれ、後方での戦備の増強力に劣る日本にとって、それは深刻な問題となった。

11月に入ると米軍の攻勢は激しくなり、マタニカウ川西岸も失う恐れが出てきた。そうなれば、重要な揚陸地点だったタサファロングも危うくなる。この攻撃は、第38師団の兵士の駆逐艦による緊急輸送によりなんとか凌いだ。しかし、兵士が増えると必要な食糧も増えるため、鼠輸送だけでは兵力の維持は不可能だった。もう一度輸送船11隻を用いた船団輸送が計画された。そしてその揚陸を確実にするために、1113日に戦艦「比叡」「霧島」と軽巡1、駆逐艦14の挺身攻撃部隊による飛行場砲撃が計画された。

米軍は暗号解読で日本軍の動きを察知していたが、13日に日本艦隊を迎撃できるガダルカナル島周辺には、重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻の米国艦隊しかなかった。日本軍の戦艦2隻を含む艦隊に対して、この米国艦隊は勇敢にも日本艦隊に戦闘を挑んだ。米軍は軽巡2隻、駆逐艦4隻が撃沈され、重巡2隻も大破した。日本側の損害は駆逐艦2隻の沈没のみだった。しかし、問題は戦艦「比叡」だった。艦尾に当たった敵弾によって操舵不能となり、同じ場所を周回していた。飛行場砲撃は中止され、夜が明けると米軍機による攻撃が始まった。結局、比叡は自沈した。

この海戦で敵艦隊をほぼ殲滅したことから、翌14日に船団輸送は再開された。日本の輸送船団はガダルカナル島に迫っていたが、飛行場は健在だった。船団はガダルカナル島から航空機による反復攻撃を受けた。しかも空母「エンタープライズ」がガダルカナル島近くまで支援に来ていた。その艦載機もガダルカナル島を中継基地として攻撃に交じることとなった。結局船団は、途中で6隻を失い、1隻が引き返した。残った4隻は航行を続けた。

再び戦艦「霧島」と重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦6隻によって夜間の飛行場砲撃が計画された。まず重巡「摩耶」と「衣笠」が飛行場を砲撃した。重巡の大砲では効果は一部に留まった。続いて戦艦「霧島」がルンガ岬沖に進入して飛行場を砲撃しようとした。ところがガダルカナル島には、米軍の新型戦艦2隻が差し向けられていた。ガダルカナル島を砲撃しようとした戦艦「霧島」は米国戦艦「サウスダコタ」と「ワシントン」の2隻と交戦し、損害を与えたものの、撃沈されてしまった。当然飛行場砲撃も行えなかった。

ガダルカナル島への物資輸送はガダルカナル島攻略の成否を決めるものとなっていた。船団の残った4隻は、悲壮な覚悟でガダルカナル島へ突入して、海岸に乗り上げて擱座した。しかし、夜が明けると敵機だけでなく艦艇を動員した攻撃によって擱座した輸送船に火災が発生し、兵員2000名こそほとんど上陸できたが、揚陸できた物資はわずかだった。結局日本側は輸送船10隻を失った上に、物資輸送に失敗した。日本軍は、この後主力艦のガダルカナル島への派遣を断念した。

この後も、駆逐艦を使った鼠輸送は続けられ、それに伴って海戦も起きたが、体勢を挽回するものではなかった。陸軍は引き続き大部隊の輸送でガダルカナル島奪回を目指したが、もうそれに回す輸送船がなかった。ガダルカナル島奪還がこの戦争の天王山と考えている陸軍参謀本部と、戦争全般の遂行を考えている陸軍省が、船舶の配分量を巡って衝突するという諍いも起きた。ガダルカナル島の奪回は、ニューギニア作戦と並行させて片手間で片付ける、というわずか4か月前の考えとは全く異なる展開となった。

日本軍は、194312月にガダルカナル島から200 kmのムンダに中間航空基地を完成させたが、手遅れだった。ガダルカナル島の強化された米軍の航空戦力に押されて、それらは航空基地としての威力を十分に発揮する前に無力化されてしまった。第9節で述べたように、せめてブイン基地の建設を開始した9月初めからムンダ基地の整備も開始しておれば、少しは情勢が変わったかもしれない。

日本軍は、細々とした鼠輸送(駆逐艦輸送)を続けていたが、それでガダルカナル島の兵員を養うことは出来なかった。食糧不足によって、日に日に餓死者が出ており、戦闘どころではなかった。1231日の大本営御前会議でガダルカナル島から撤退することが決定された。19432月に数次にわたって駆逐艦を用いた撤退が行われ、この時点でガダルカナル島に残っていた将兵16152名の撤退に奇跡的に成功した(撤収人員数には諸説ある)。結局、ガダルカナル島の戦いは、戦死者より戦病死(餓死者を含む)の方がはるかに多いという結果で終わった。

 

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