14. なぜガダルカナル島で?~戦前の防衛方針~

  (これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

ガダルカナル島での戦いは、太平洋戦争での典型的な戦闘の一つとして取り上げられることが多い。しかし、激しい戦いが起こったガダルカナル島は、日本から5000 km以上遠く離れた南半球にあり、しかもほとんど現地住民しかいない密林に覆われた島である。そこは海軍が国防方針として艦隊決戦を想定していた中部太平洋からも遠く離れている。

また、日本が太平洋戦争に突入した理由の一つに、米国の全面禁輸によって、石油などの南方での資源確保があった。しかし、石油などの資源のほとんどは、太平洋「西端」の蘭領インドネシアや英領マレーシアにある。ガダルカナル島は、そこから東に遙か数千キロメートルも離れた所にある。日本本土や南方油田地帯からはるか遠くの南半球にあり、戦いが始まるまでほとんどの人が名前も知らなかった島が、なぜ激しい戦場になったのだろうか?あくまで私見だが、それを考えてみたい。

14-1    第一次世界大戦後の戦法革命

第一次世界大戦後に、戦い方に関して2つの大きな革命が起きた。一つ目は、各種動力の燃料として石油が普及してきたことと、航空機が重要な兵器になったことである。それが戦争の手法に大きな影響を与え、それが最終的にはガダルカナル島での戦いにつながっていったと考えている。

14-1-1    エネルギー革命

石油自身は20世紀以前にも小規模に利用されることはあった。しかし石油は石炭と異なり、掘り出しただけでは使えない。石油の利用が普及するには、原油を精製するための技術と、それからの精製物(ガソリン、灯油、重油など)を利用する技術が並行して広く普及する必要があった。石油が大量に使われ始めたのは1920年代以降である。

これ以降、さまざまな動力の燃料として石油が広く使われ始め、内燃機関の小型化、運用の容易化、連続運転の長時間化を可能にした。また艦船を例に取ると、重油は石炭よりもエネルギー密度が高いため、船内の燃料貯蔵庫を小さくでき、かつ航続距離を延伸することができた。また石炭の積み込みやボイラーへの石炭の投入に必要な船員を大幅に削減することができた。といっても船舶燃料の重油化が一気にすすんだわけではない。製油所や給油施設の新設、移送のためのタンカーの建造が必要となる。また石油を精製すれば重油だけが出来るわけではなく、同時に出来るガソリン、軽油などの利用と歩調を合わせる必要があった。そのため、船舶機関の重油化は徐々に進んだ。

第一次世界大戦を契機に艦船だけでなく、戦闘の補給物資の移動も、鉄道や馬からトラックや弾薬輸送車などの石油を用いた動力に徐々に切り替えられた。しかし、戦後にまず大きな影響を受けたのは艦船だろう。日本海軍においては、第一次世界大戦後の艦船動力の多くは石炭が主で、重油は従だった。海軍の既存の大型艦の動力が、重油専燃のボイラーに換装し始めるのは、昭和に入ってからである。これは戦争の際の石油依存度を高めることとなった。

機関燃料の重油化よる艦船速度の向上と、無給油(あるいは海上給油)での航続距離の延伸により、太平洋を一気の横断が可能になった敵艦隊の迎撃戦略に変更が必要となった。それが日本軍によるハワイ空襲や米軍による日本本土のドゥーリトル空襲にも関連している。そして、この艦船の燃料の重油化は、攻勢作戦を容易にし守勢作戦を不利にする、と理解された。これが海軍軍縮条約の破棄の一因ともなった。

そして、次に述べる航空機もガソリンを動力としている。このため軍艦の燃料の重油化は、次に示す航空機と合わせて、戦争と石油との関係を切っても切れないものにしてしまった。そして、その石油のほとんどを米国から輸入している日本は、万一米国との戦争になった場合に米国とどう戦うのか、という大きな命題を抱えることとなった。

14-1-2    航空機の発達

戦法の変化の二つ目は、第一次世界大戦をきっかけとする航空機の発達である。そして航空機は、1930年頃からその性能が飛躍的に増大し始めた。航空機は全金属製単葉のモノコック構造になり、恒速(可変ピッチ)プロペラと大馬力エンジンを装備することによって性能が飛躍的に向上した。つまり、速度、航続距離、機体強度、搭載量が急速に向上し、攻撃力や防御能力の大幅な向上が可能になった。これによって、その前の時代の木製複葉羽布張りのものと比べて、その能力は全く別物になったといっても良いと思う。

特にエンジンの数や馬力を増やすと、それによる重量の増加より搭載量をはるかに増やすことが可能になる。それが大型爆撃機や戦闘機の攻撃能力と防御能力の大幅向上につながった。そして、航空機が多数の大型爆弾を積んで数百km先に精度良く落とせるようになったことで、航空機を超長距離砲として見ることが出来るようになった。当初はよたよた飛んでくる爆撃機を地上から撃ち落とせると考えていたら、あっという間に高度2000 ~ 3000 m以上を時速200 km~300 kmで飛んで(大戦末期には高度1万m以上を時速500 km以上で飛んだ)、地上からの撃墜は困難となった。そのため、逆にレーダー照準の高射砲やVT信管(近接信管)が発達することとなった。

そして、この性能が向上した航空機を兵器としてどのようにして使うかが各国で問題となった。そして、日本海軍では後述する艦隊決戦での補助戦力として整備する方向に進んだ。ただ、兵器として格段に進歩し始めた航空機は、石油(ガソリン)が唯一の燃料だった。そして、その精製された石油製品を輸入に頼っていた日本では、石油化学の発達が遅れた。そして開戦後の大規模な石油プラントが稼働し始めた頃に、南方からの原油の還送(日本への輸送)が途絶した。石油化学の遅れは航空機用ガソリンのハイオクタン化の遅れにもなり、大馬力エンジンによる性能向上の足かせの一つになった。なお英米では、1940年にオクタン価100のガソリンの供給を開始している。日本は大戦末期にその製造の実用化に成功したが、たちまち精油所は爆撃されて製造は終わってしまった。

14-2    戦前の国防方針との関係


14-2-1    帝国国防方針とその第3次改定(1936年)

日本は1907年から帝国国防方針を策定していた。その帝国国防方針とは、手続きとしては陸海軍統帥部で起案し、統帥権独立のもと政府や国会とは無関係に天皇に奏上したものだった [37, p119]。つまり国防方針という物々しい名前が付いていて、大元帥(天皇)の裁可も受けているが、天皇の補弼の(助言を行う)任を負っている政府が議論・決定した国としての総合的な防衛構想を明らかにするものではなかった。

海軍は大艦巨砲主義による艦隊決戦を国防方針の柱に置いた。それは日露戦争における日本海海戦で確立されたものである。海軍は日露戦争後に米国を仮想敵国とし、もし米国が艦隊を押し立てて攻めてきた場合には、これを艦隊決戦で撃滅することを国防方針の主軸に据えた。それに必要なのは大口径砲を持った戦艦だった。第一次世界大戦直後の1918年6月の帝国国防方針の第一次改定までは、その方針は当時の情勢を勘案したものとして総じて妥当なものだった。

帝国国防方針の第2次改定は、1922年のワシントン海軍軍縮条約締結に伴うもので、当然必要なものだった。しかし、その後のロンドン軍縮条約を含めて海軍軍縮条約は、日本の実情・地勢等に適応した軍備を自主的に持つことを妨げており、国防上危険とされた。それが1937年のロンドン軍縮条約の延長破棄につながった。しかも海軍内に艦隊派と条約派という分断をもたらした。しかし海軍の一部は軍縮条約を相手のことを考えずに、自分たちの国防方針に合致するかどうかだけを見ていたように感じる。14-2-6節で述べるように、海軍は建艦競争は起きないと勝手に判断していた。しかし、そもそもワシントン軍縮条約がなぜ始まったのかを冷静に分析できていれば、軍縮条約が必須であることを理解できたのではないだろうか。

軍縮条約の破棄を目論んでいた海軍は、1931年の帝国国防方針の第2次改定の「第一次補充計画」と1934年の「第二次補充計画」を、来たるべき無条約時代に備える形にした。そして日本はワシントン軍縮条約の破棄を通告し、1937年には補助艦の建造を制限したロンドン軍縮条約も失効し、無条約時代に突入することとなる。

日本は、無条約時代に備えて1936年6月に「帝国国防方針第3次改定」を行った。そして米国を第1仮想敵国とする海軍は、大和型戦艦と航空隊増勢を含む「昭和12年度海軍補充計画」を立てた [37, p122]。しかし、それらの上位の国策がなかったせいもあって、それらの改定と補充計画は、海軍では14-1節の情勢の変化に対応する抜本的な対応とはならず、米国海軍の増勢に引きずられた艦隊決戦のための戦術と戦力の改定に終わった。

14-2-2    艦隊決戦論の是非

海軍の国防方針は、多くの書籍が指摘しているとおり艦隊決戦だった。この対米に対する艦隊決戦とは、東洋のアメリカ艦隊を撃破してルソン島・グアム島を攻略し、本国から来航する米国艦隊主力を、中部太平洋で迎撃するのを初期の目的とした。それ以後の作戦は、陸海軍で臨機に策定するとされた [38, p133]。つまり、日本にやってくる米国艦隊を、潜水艦、基地航空部隊で漸減し、最後に西太平洋で全艦隊を集中して、1回の艦隊決戦で米国艦隊を再起不能にまで撃滅するという日本海海戦の再来だった [37, p108]。日本海軍は、米戦艦の射程外の遠距離から攻撃できる大和型戦艦の建造や米艦隊を雷撃するための陸上攻撃機を開発するなどしてほぼ全ての海軍力をこの戦いに合わせて最適化した。

この大和型の主砲で米国戦艦をその射程外から攻撃する(アウトレンジ攻撃)という発想はよく理解できない。敵戦艦の主砲が届かない40 km近く離れての砲撃戦を想定していたのかもしれない。しかし、それでは着弾までに1分以上かかる。敵戦艦が30ノットで航行していれば1分先の照準は約1 km先となる。発砲を見た敵艦は当然針路を変えるだろう。しかも高仰角で撃つので、2次元でのスポットで当てなければならない。後は1 km先の砲弾落下地点に敵艦がいるかどうかという確率論となるが、そうなれば事実上命中はまれだっただろう。それは約20 km離れて行われた重巡同士のアッツ島沖海戦やスラバヤ沖海戦の一部の結果でも実証されている。砲撃戦は、砲弾がほぼ水平に近い弾道を描く距離15 km程度以下でないと、砲弾が命中する確率はかなり下がると思われる(これは物理学的に計算すれば誰でも到達できる結論である)。

話を戻す。制度設計という言葉があるが、当時の海軍軍備の制度設計は、上記の形の艦隊決戦だけに基づいて行われていた。この(特に戦艦を中心とした)艦隊決戦だけに戦闘形態を特化した考え方は、他の戦い方の自由度を奪い、結果として過剰適応となった。連合艦隊は航空戦力の威力を認識していたものの、それもかなりの力点を艦隊決戦時の使用に置いていた。海軍全体としてみると、開戦後も戦艦中心の艦隊編成になっていたのは、多くの書物が指摘しているとおりである。

ちなみにガダルカナル島での戦いでも、海軍の目的は、日本軍の動きに呼応して出てきた米国機動部隊に対する艦隊決戦での撃滅だった。輸送船の護衛よりも艦隊決戦を優先させた結果、海戦では多少の戦術的勝利を得られても、ほとんどの場合は輸送の目的を果たせなかった。

米国では国防方針である「レインボープラン」の中で、艦隊決戦によって日本艦隊を壊滅させ、最後は日本付近を海上封鎖することが想定されていた(ただしその前に太平洋中部諸島にいる日本軍を排除する必要があった)。そのため、米国でも戦艦主戦論を唱える海軍高官が多くいた。しかし、彼らは日本による真珠湾奇襲(とマレー沖海戦)によって航空戦力の威力を見せつけられた上に、頼みとしていた戦艦は真珠湾で沈められてしまった。米国の戦艦主戦論者たちは、名実ともに身動きが取れなくなった。それによって否応なく航空機主戦論者たちが主導権を握った面があると思われる。

イアン・トールが「太平洋の試練-真珠湾からミッドウェイまで(p290)」で述べているように、海軍高官の戦艦主戦論者たちが、(足の遅い)戦艦を連れて行けと主張できなかったことが、高速の空母を主体とした機動部隊が、1942年前半のあちこちへのヒット・エンド・ランを可能にした面がある。もし真珠湾攻撃時に、演習か何かの理由で戦艦が出払っていたとすると、全く異なる(ひょっとすると日本軍の国防方針に近い)戦争になっていたのかもしれない。

一方で、航空戦力の威力を見せつけた日本海軍の方は、相変わらず戦艦主戦論だった。それが、多くの戦艦を失った米国は1943年まで本格的反攻を行えない、という判断にもつながった。真珠湾攻撃によって、長年の懸案だった米国戦艦による脅威がなくなったという安堵感はわからなくもないが、強力な航空戦力で米国の戦艦を沈めておきながら戦艦主戦論を用いる、という非対称的な論法も垣間見える。日本の航空戦に対する考え方は第14-4章でもっと議論する。

14-2-3    帝国国防方針の限界

国防方針の位置づけは14-2-1節で述べたが、軍が作成する国防方針とは別にもっと上位の国策(政治)としての国防構想が別途必要だっただろう。戦史叢書でも(軍が作成した)帝国国防方針を「政治目的と関連づけた作戦の限度線、ならびに政治的収束要領を示すことができない。これでは、作戦はみずからの軍事判断に基づき、際限なく拡がる特性がある」 [37, p122]と結論している。

そして米国と戦うとなると、そのほとんどを米国から輸入している石油をどうするのか、が問題となる。しかし、帝国国防方針の第3次改定以降の防衛方針には、石油をどうするのか?という肝心の問題には、その備蓄を増やす程度の対応策しか考えていない。それは艦隊決戦とも関連しており、現実的かどうかは別として、米国とは「石油の備蓄がある間に決着をつけるための短期的な決戦兵力を整備する」という考えとつながっていた [37, p118]。

仮想敵国とはあくまで仮想であり、必ずしも現実の戦争を想定する必要はないかもしれない。仮想敵国に対する戦備方針は、ある想定された世界情勢(例えば世界各国を味方に付けて米国とのみ戦う)に基づく艦隊決戦のような狭義のものでも良かったのだろう。しかし、その方針による戦備は、想定された情勢以外では機能しない。つまり国防方針にない戦いはしないという決意が必要だったと思われる(でなければ、何のための国防方針なのかわからない)。

14-2-4    仮想敵国の多国化

国防方針の第3次改定の頃、日本では当時の国際情勢から単一国との戦争を想定するか複数国との同時戦争を想定するか、あるいは長期戦を想定するか短期戦を想定するかが問題となっていた。陸軍は米ソ中英の国益の対立から戦争が生起することを考えれば、数か国を相手にする長期戦になると考えていた。一方で、海軍は対米一国に対する艦隊決戦のための軍備を整えており、日本の国力・国情からして対一国戦・短期決戦にしか対応できないと考えていた [39, p200]。ただし、想定敵国は外交にも関する問題なので、統帥部が考案した国防方針だけで決定できるものではないとも考えていた。

中国大陸を巡る英国との関係悪化のために、「帝国国防方針第3次改定」で初めて仮想敵国に英国が加わった [37, p118]。しかしそれは、在東洋艦隊及び来援する艦隊を撃破するとともにその作戦根拠地を覆滅するほかは、具体的内容については触れていない [37, p122]。この時点では、あくまで英国艦隊が攻めてきた場合の話で、やはり日本近海での英国艦隊との決戦を想定していた。英国の仮想敵国化は、武力による積極的南進による衝突や南方の防衛を意識したものではなかった。

また、仮想敵国に英国が加わると、英連邦の一つであった豪州への対応も必要になると思われる。しかし、日本近海での短期決戦だけを想定していたためか、豪州への対応を検討した形跡はない。しかし開戦後に南方資源地帯を確保してみると、豪州からの脅威を考慮せざるを得なくなり、これがこの戦争の行方に大きく影響してくることになる。

14-2-5    「国策の基準」(1936年)

軍縮条約脱退と欧米の情勢の変化を受けて、海軍制度調査会は、1936年に「国策の基準」を作成した。陸軍もほぼこれと同時に別途独自に「国防国策大綱」を作成した。これらは、1936年8月7日に内閣の五相会議で決定され、政府が認めたものとなった。また廣田内閣も別途「帝国外交方針」を策定して内奏した。これではそれぞれの省の対外方針が林立して、国家が組織の体をなしていないようにも見える。

この海軍の「国策の基準」において、「海軍軍備ハ米国海軍ニ対シ西太平洋ノ制海権ヲ確保スルニ足ル兵カヲ整備充実ス」となっている。そして資源類に関しては、ようやく「国防及産業二要スル重要ナル資源竝ニ原料ニ対スル自給自足方策ノ確立ヲ促進ス」となった(例えば [37, p123])。これは、南方への平和進出を軸としたものであった。武力進出とは書かれていないものの、資源確保という方針は、短期決戦以外の選択肢を模索し始めたようにも見える。これは日中戦争が始まる前であったことに注目しておく必要があると思う。

問題はここから先である。もしこの「国策の基準」にあるように、(平和裡にしても)南方での資源獲得を促進するならば、もしそうなった場合の準備も必要となる。南方の資源を確保するとすれば、その後の南方の資源地帯を守る軍隊や艦隊、そこからの輸送を護衛する艦隊、南方の資源地帯を守る基地とそこへの補給、そして、どうやってそこを守るのかという政略・戦略の検討が必要となるだろう。ところが、1936年の「国策の基準」では、それらの検討が行われた形跡がない。つまりこの時点では、自給自足方策の確立を促進する方針を何れ検討する必要がある、とただ漠然と述べただけのものだったようである。(仮想敵国だったとはいえ)実際に米国と戦争するとは思ってもいない当時の情勢では、それでも良かったのかもしれない。

14-2-6    軍縮条約脱退後

14-2-1節で述べたように、軍縮条約の破棄を目論んでいた日本はワシントン軍縮条約の破棄を通告し、1937年には補助艦の建造を制限したロンドン軍縮条約も失効し、無条約時代に突入した。海軍は、日米建艦競争は生起しないと勝手に楽観していた [38, p132]。一方で米国は、1934年に無条約時代を見越したヴィンソン・トランメル法とその後の法案で海軍大増強計画を立てた。建艦競争は起きないと見込んでいた日本海軍の目論見は全く外れた。日本海軍は、まさか大和型戦艦さえあれば米国艦隊は対抗できない、と思ったわけではないとは思うが。

欧州での怪しい雲行きによって、無条約時代になると特に米国の膨大な建艦能力は野に解き放たれることとなった。米国では、第二次ヴィンソン案と第三次ヴィンソン案及びスターク案(両洋艦隊案)という途方もない建艦計画が順次米国議会を通過した。1939年の日本海軍の「昭和十四年度海軍軍備充実計画」(通称④計画)では、その米国艦隊に対抗するための艦隊決戦に関心を向けた。米海軍の巨大な建艦計画に驚いて、海軍では艦隊決戦用の戦備をどうするかで手一杯だった。この時点でも、南方の資源地帯とそこからの輸送を防衛するための軍備の計画はなかった。そして、この④計画が実質的に開戦時の軍備となった。

このように対米軍備の方は一応ではあるが対応策を考えていた。しかし石油については、米国から輸入しながらその石油を使って日中戦争を戦っていたにも関わらず、備蓄以外の具体的対応はなかった。日本が米国の石油で中国と戦っていることは米国内でも大きな問題となっており、石油などを何らかの外交戦略に使ってくることは十分に考えられた。実際に、モラル・エンバーゴーや日米通商条約破棄などで貿易は徐々に制限されていった。しかし石油備蓄以外の具体的検討はなく(いくつかあった日中講和案は何れも潰えた)、そういう状況の中で米国の石油を使って中国と戦い続けた。1939年には石油の米国依存度は90%だった(戦史叢書91巻。P383)。

日本は戦争に必須の石油の輸入を万一止められた場合にどうするのか、という大きな命題を抱えていたが、当時の石油に関する危機感はほとんど伝わってこない。日本の軍部は、米国が石油を禁輸することはないと根拠なく信じていたのだろうか、戦争に訴えれば短期間で解決すると考えていたのだろうか?それとも、「そうなっては困ることは考えない(見たくないものは見えない)」という脳科学の生理(確証性バイアス)に素直に従っていただけなのかもしれない。

14-2-7    戦争直前(1940年頃)

    (米国の貿易圧力)
1937年に日中戦争が起こると、戦争当事国に石油の輸出を認めていない米国からの石油禁輸を恐れて、日本はこれは戦争ではないと主張した(そのため事変と称した)。しかし1940年9月に、日本が中国への支援物資流入を防ぐという名目北部仏印に進駐すると、米国は鉄鋼とくず鉄の日本への輸出を停止し、石油も輸出統制品に加えた(全面禁油ではなかった)。日本では米国からの石油の輸入に不安を感じて、その頃からインドネシアの石油の輸入交渉をオランダと始めた。しかし、米国や英国の後ろ盾によって、オランダは日本の要求に応じなかった。その頃から、「蘭印(インドネシア)」を占領すればそこから石油を日本内地に還送ができるし、ドイツがおそらく戦争に勝利するので、日本は長期戦に耐えられるという考え方が浮上してきた [38, p174]。

    (南方への軍事進出)
海軍は1940年頃から対英米戦を意識し始めた。1940年8月28日の海軍の「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱に関する覚」では、米国が石油の全面禁輸を行った場合には南方に武力行使することが掲げられた。また、1941年4月17日の大本営陸海軍部による「対南方施策要綱」には、「英米蘭等の対日禁輪により帝国の自存ら脅威せられたる場合、之か打開の方策なきに於ては帝国は自存自衛の為武力を行使す」と規定した [40, p461]。海軍では永野修軍令部総長が、陸軍では田中新一参謀本部第一部長が、対米戦を強く主張した [40, p463]。とはいえ、海軍軍備は④計画のままだった。

1941年6月に海軍省・軍令部の課長レベルが、もし戦争になった場合の石油の推移の検討を行った。その結果、南方資源地域を入手すれば「作戦上相当の自信をもって対処できる」との結論となった [38, p175]。つまり海軍では、南方資源の武力確保をこの頃から「具体的」に検討するようになった。開戦のわずか半年前である。それでも、検討は南方の資源地帯の占領までで、それ以降の防衛をどうするかなどは考えられていない。

海軍では戦争になれば持久戦となるとして、「持久戦の準備が整わなければ戦争をしない」と言いながら、短期決戦を基本方針とするといった矛盾した思考によっていた [39, p200]。それが、開戦後の持久戦を想定した海軍軍令部と短期決戦を目指した連合艦隊、という考え方の違いにも現れている。そして、もし持久戦となれば、中部太平洋での決戦を準備しながら、豪州からの攻撃を含めた南方資源地帯の防衛とそこからの海上輸送保護が必要となる。それにも関わらず、南方資源地帯の確保後の具体的計画や準備がほとんどないままに、太平洋戦争へと突入していった。

    (作戦実務者たちの考え)
米国が石油全面禁輸を行う直前の1941年7月29日に、陸・海軍統帥部の作戦及び戦争指導の事務当局である服部卓四郎中佐、富岡定俊大佐、有末次大佐、大野竹二大佐らが水交社において懇談した。この内容を櫛田陸軍中佐が業務日誌に残している [40, p465]。この内容は、戦争の実務を担当する当時の軍高官らの戦争になった場合の考えを知るのに貴重である。

「持久戦になった場合敵の通商妨害が問題となる。年間油500万屯、米、鉄鉱石等の物資500万屯を持って来るくのに船90万屯が必要である。之を船団に分けてやれば輪送は出来る。護衛艦艇40隻、飛行機100機。1割以内の揖粍にて通商保護が出来る。・・・飛行機の製作能力に鑑み 日米航空戦力の懸隔は、時日の経過に伴い急「カーブ」で増大する。しかし比島、「カムチャッカ」を取れば米機は来れない.来るなら航空母艦であるが、航空母艦は日本の哨戒線を越えて来るといふ冒険を犯すこととなる。・・・航空の全兵力を重点的に使用した場合双方飛行機の損耗予想は、比島100機、蘭印100機、馬来150機、蘭印、馬来、比島をやった後、艦隊2、根拠地隊3を配置すれは内海の確保可能。(筆者注この場合内海とは蘭印、馬来、比島等に囲まれた南西太平洋一帯の海域を指すものと認められる)」
(原文はカタカナ。括弧内も原文通り)。

通商保護の考えが甘いことはともかく、哨戒線(作戦限界?)と思われるトラック島以東や以南に進出するつもりはないとも受け取れ、また戦争直前になっても航空戦における量的な見通しが全く過小であったことがよくわかる。

14-2-8    石油の全面禁輸

    (石油の全面禁輸)
1938年の米国によるモラル・エンバーゴー、および日本による天津封鎖と日本軍による海南島占領に対する米国の反発を受けて、1940年には米国は日米通商条約破棄に至る。それでも、日本は通商航海条約の再締結はなんとかできるだろう、という甘い夢を見ていた。ところが、1941年6月に世界情勢が大きく変わる。独ソ戦の開始である。日本政府は7月2日の御前会議での「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要領」で、この情勢変化への対応策を、外交交渉と南進論と北進論の3つを併記したままの決定を行ってしまう。これに基づいて陸軍は満州での関東軍特種演習を行って、この機会にソ連を叩こうという素振りを見せた(北進論)。これを見た海軍は陸軍を抑えてバランスを取るかのように南部仏印へ軍事進出した(南進論)。

南部仏印への進駐は国内の事情によるものだったが、米国との微妙な空気の中で楽観的に強行された。その結果、1941年8月に米英から石油を含む全面禁輸・資産凍結という、想定外の痛いしっぺ返しを受けた(一部には警告を受けていたという説もある)。このように中国から遠い南部仏印への進駐は、それが対外的にどう見えるかという視点が不十分だった。欧米から見ると当然ながら南方資源の武力確保の準備と見えた(当時はそういうつもりはなかったかもしれないが、結果として日本はマレー沖海戦などの攻撃機は南部仏印から出撃している)。

    (日本の対応)
「アリューシャンでの戦い」で述べたが、統帥部は南部仏印進駐がまさか米国の石油全面禁輸を招く、とは全く想定していなかった。石油の全面禁輸は、そうなってみれば石油のほとんどを米国に依存していた日本にとっては、極めて深刻な事態となった。平時でも軍の何らかの活動は必要であり、何もせずとも毎日1万トン近い備蓄燃料が減っていく。このままだと石油が尽きて、海軍は1年か2年でほとんど機能しなくなる。日本には、現実にそうなった場合に南方資源確保という漠然とした案はあっても、具体的かつ稠密な対応策の準備がほとんどなかった(だから日本は米国と戦争する気はなく、石油を止められることもないと思っていてのではないかと思っている)。「アリューシャンでの戦い」の「11.3.2 日本軍の航空戦への理解と開戦」に書いたように、石油が日々減っていくという事態に、日本は否応なく期限を切られた早急な決断を迫られた。

一般的にこういう期限を切られた状態で重大な判断を求められると、人は適切な判断を下すことが苦手である。脳科学者の中野信子は「急いで、時間に追い立てられるようにして下した判断は・・・エラーが多くなってしまう」と述べている。急いで判断した直感には、じっくり時間をかけて行われた判断の際の論理的な機能が働かないようなのである。日本にとって重要なことは、こういう状況になることを避けることだったと思われる。

「アリューシャンでの戦い」でも書いたように、最終的には南部仏印への進駐による米国の石油の全面禁輸が、対英米戦争へ踏み出す「決定的な」役割を果たしたのではないかと思っている。南部仏印進駐による禁油がなければ米国と積極的に戦争する理由はなく、そうこうしている間にドイツの戦況が不利なこともわかって(12月にはモスクワ付近から撤退している)、日本が戦争に踏み切ることはなかったと思っている。

14-2-9    開戦の決意

当時日本海軍の艦艇量の米国海軍に対する比率は7割を超えていた。ところが、この後米国の両洋艦隊法などによる膨大な艦船が完成してくると、数年後には対米4割以下になることがわかっていた。石油が無くなるという強迫観念と、今であれば対米艦艇比率が7割を超えているという思いが、開戦に踏み切らせたのかもしれない。ロンドン軍縮条約以来、この7割という数字がクローズアップされたが、7割という数字にはっきりした根拠はなかった。

結局日本は開戦へと傾き、1941年9月6日、第3次近衛文麿内閣は、御前会議において、最終決定ではないものの、対米英蘭3国との戦争に踏みきる方針を確認し(「戦争への決意を固める」ことを決意した)、10月上旬に開戦するかどうかを決定することになった。米国の両用艦隊法などによる戦争準備によって、日本が長期持久するといってもせいぜい3年程度が限度だった。しかも欧州戦局が思ったように進まなければ、想定した戦争終結どころか日本が破綻するのは目に見えていた。開戦を目前にして米国対決との前面に立つ海軍は動揺していた。海軍省兵備局長だった保科善四郎は、日本の軍備はこのような形での戦争を想定していないと述べているし、海軍省調査課長だった高木惣吉も対米演習を何度やっても勝てなかったと述べている。中国で戦っている現場の陸軍(支那派遣軍総畑俊六司令官や後宮淳総参謀長)も米国と開戦する無謀さを指摘していた(NHKスペシャル、「日本人はなぜ戦争へ向かったのか」、2011年)。

そして、政府首脳も米国と戦争しても勝てないことがわかっていた。開戦するかどうかの決定期限とした10月の大本営政府連絡会議では、誰も本心では開戦したいとは思っておらず、だれか責任者が一人でも戦争不可と言えば、米国の条件を呑んで戦争が回避された可能性が高かった。首相、企画院総裁、海軍大臣、陸軍大臣などが戦争不可能を誰かに言ってもらおうと手を回して組織の駆け引きを行ったが、結局誰も責任を回避して戦争回避を口にしなかった(もちろん、それぞれが強気の大勢の部下を抱えており、その彼らを強硬な一部の国民世論が支えていた)。そして、そのままずるずると開戦へと向かっていった。14-2-3節で述べたように、国防方針は軍が定めていたため、開戦の決定時に、軍人以外の政府首脳が「国防方針にない戦争は出来ない」と言えなかったのも原因の一つかもしれない。

日本はこの戦争をどのようなものにするかについては、大本営政府連絡会議が1941年11月15日に決定した、「対米英蘭蒋戦争終末促進二関スル腹案」が事実上の戦争指導方針となった。それは、まず南方資源確保によって長期持久の態勢を固め、欧州戦局の進展による英国の崩壊とこれに伴う米国の戦意喪失によって、戦争終末を図るのが基本方針だった [3, p4]。ここにきて、南方資源地帯を武力確保することが正式に決まった。作戦はそれを見越して少し前から練られていたが、軍備は手持ちの分で対応するしかなかった。

14-2-10    ガダルカナル島がクローズアップされるまで

日本が南方資源地帯の武力確保を具体的に考え始めたのが1941年6月頃だった。つまり石油の全面禁輸の頃を境に南方資源占領・確保の計画(南方作戦)の準備を開始した。それでも南方資源地帯を防衛のための具体的な戦備計画はなかった。結局、米国と英連邦を相手に南方資源地帯をどのように確保するのか、は熱心に議論されても、そこをどうやって防衛するのか、という議論はほとんど行われなかったようである。しかし南方資源地帯を確保してみると、英国や豪州からの脅威に対応せざるを得なくなった。

そのため南方資源地帯を確保して後は、基地航空部隊を含む連合艦隊のみで英国による西からの攻撃を防ぎ、豪州からの南からの攻撃を防ぎ、そうしながら東での米国との艦隊決戦に備えるという無理な形になった。そのため、FS作戦が第2段階の作戦として立案された。後述するように、第1段階のラバウルの占領の直後にフィジー・サモア方面の様子をうかがって、状況に応じてツラギ占領作戦と同様なものを行えるように計画していれば、占領そのものはそれほど困難ではなかったと思われる。それが1942年4月以降の第2段階の作戦となったことで、連合国軍によるエスピリッツ・サントなどの軍事拠点化を可能にし、それらを反攻の足がかりにする時間を与えた。そしてツラギに進出したことが、開戦前にはほとんど誰も名前さえ知らなかったガダルカナル島での戦闘に結びついたと考えている。

14-2-11    理想的な戦備体制とは?

私は軍事の専門家ではないので、詳しい戦術などはわからない。しかし、万一石油を禁輸されたら南方資源を武力占領した上で英米蘭と戦う、という覚悟を1930年代末に持っていたとすれば、どのような形の戦備体制の整備が、当時の国力で可能だったのか、その例を考えてみたい。それは日本軍が開戦時に現実にとった戦備体制との良い対比となるかもしれない。この例は、私のような軍事の素人がこうすべきだった、といっているわけではない。専門家が考えればもっと良い考えがあるだろう。ただ、南方資源を確保した上で米英と戦うならば、例えばこのような構想が必要だったのではないかとして挙げている。

    (南方資源地帯の防衛)
まず南方資源地帯の占領は、実際にそうなったように、当時の軍備で可能だっただろう。問題はその後の防衛である。西のインド洋からの英国の攻撃に備えなければならない。英国は戦艦や空母を持っているから、それらとの海戦も想定しなければならない。そうすると、シンガポールを根拠地とした空母を含めたインド洋艦隊のようなものが必要だろう。日本の国力からすれば、ダッチハーバーを空襲した第2機動部隊(空母「隼鷹」、「龍驤」+後の「飛鷹」)のような艦隊になるのかもしれない。

また、南方資源地帯からの輸送に対する海上護衛も必要となる。輸送船はハワイや豪州西岸を基地とする潜水艦の攻撃にさらされる可能性は高かった。開戦時には海上護衛用の海防艦や対潜哨戒機の開発と配備も必要だっただろう。これらは大戦後半になってあわてて整備することになる。ちなみに日本では戦前から潜水艦による攻撃を重視していた割には、それからの防衛を担う対潜戦闘専門の士官(海軍兵科予備学生対潜班)の育成が開始されたのは1942年7月だった [41, p163]。彼らが実戦配備につくのは1943年に入ってからとなった。当然、対潜用の装備であるソナーや爆雷の近代化も遅れていた。

    (豪州との連絡線遮断)
次に、豪州による南からの攻撃に備える必要がある。ただ、当時の豪州の軍事力は海空共に強力なものではなく、問題は米国からの支援によるそれらの強化となるだろう。そうすると、後述するFS作戦のようなもので、米国と豪州を切り離す必要がある。そのためには、上述したように、南太平洋でのFS作戦のようなものまで開戦時に計画しておく必要があったと思われる。事前に計画してラバウルに続いてフィジー、サモアまで侵攻していれば、軍事基地はなかったので占領は容易であったろう。

その上で、日本の委任統治領だったマーシャル諸島やギルバート諸島に加えて、フィジー諸島、バヌアツ・ニューカレドニアなどに、強力な航空基地と海軍基地を設置して、その周辺で通商遮断をすることになる。補給は大変だがハワイからは遠いので、ミッドウェー島を占領しての補給よりは危険は少なかっただろう。その地域が米国との最前線となるので、もしそこに米国が攻めてくれば6隻の空母+αで迎撃するというのが一つの戦略になるのではなかろうか?当然、補給のための高速輸送船団も必要となるだろう。一方でもしそれが出来ていれば、ポートモレスビーは補給を断たれて脅威になることはなかっただろう。

ただし、2月1日に米国機動部隊がマーシャル諸島とギルバート諸島を奇襲した際に、この方面に配備されていた日本海軍機は、若干の96式艦戦と96式陸上攻撃機と水上機だけだった。太平洋における米国との最前線という重要な地域に、これら旧式の機種が若干機配備されていただけということに、日本海軍の島嶼域での航空戦に対する認識がわかる。

    (東北沖の太平洋の哨戒)
さらに、ドゥーリトル空襲が行われたように、日本本土の東側に広がる広大な太平洋は、島々がない哨戒空白域であるため(これは「アリューシャンでの戦い」で述べたようにミッドウェー作戦の目的とも関連している)、漁船を改造した監視艇が配備された。しかし、ドゥーリトル艦隊を発見した「第23日東丸」のように、万一敵機動部隊を発見した場合は、監視艇では生還を期しがたく、まさに特攻と称すべき任務だった。

そういう場所の哨戒にはむしろ潜水艦の方が向いているのではないだろうか?この哨戒問題は以前からわかっていたので、監視のために潜水艦「呂」級を使うべきだったと思っている(戦前から一部にはそのような意見があったようである)。ただ当時攻撃兵器と見なされていた潜水艦を、哨戒目的に使う発想は主流にはならなかったのだろう。しかし、潜水艦の隠密性と生存率と万一敵艦を発見した場合の攻撃力は、ほとんど機銃1丁程度の武器しか持たない監視艇の比ではなかっただろう。後に監視艇の武装が貧弱なことを知った米軍は、北西太平洋に潜水艦を派遣して、監視艇を砲撃することにより監視網の攪乱を図っている。

14-3    開戦後の戦略

開戦後の戦争の第2段階作戦について、大本営陸軍部は、攻略した南方地域についてはそれを保持する以外の明確な方針を持っておらず、むしろ大陸に目が向いていた。要するに陸軍は、米国の反攻による決戦は洋上で海空による艦隊決戦で行われ、それは海軍の担当と考えていた [7, p121]。一方、海軍はこれまで述べてきたように、「南方要城を占領確保し持久不敗態勢を確立すると共に敵艦隊を撃滅し」 [7, p120]、と二つの方針を持っていた。そして海軍軍令部は、南方資源地帯を防衛し「持久不敗態勢」の確立のための米豪連絡線の遮断を意図した。一方で連合艦隊は、「敵艦隊の撃滅」のためにミッドウェーの攻略とそれによる早期講和を強く希望していた [7, p122]。南方の資源地帯の確保以降は、陸軍と海軍軍令部と連合艦隊の3者で考え方がまとまっていなかったことがわかる。これは、太平洋戦争における戦争指導及び作戦指導に関する軍内対立の典型的な縮図だった [7, p119]。

14-3-1    フィジー・サモア(FS)作戦
開戦後、日本軍の進撃は幸運にも順調に進み、英領マレーシアと蘭領インドネシアの資源地帯を手に入れた。それらの資源地帯は英連邦(英領インドや豪州)には近い。それらの国々に対して、南方資源地帯をどうやって守ったらよいだろうか?英国はドイツと戦っており、オランダや英国など連合国軍が、いきなりインド洋を渡って南方資源地帯を本格的に奪還に来る、とは考えにくい。しかし、インドネシアの油田や鉱山の破壊を行いに来るかもしれなかった。連合艦隊は南方資源地帯の防衛のために、1942年4月に機動部隊を用いたインド洋作戦を強行した。

米国が南方資源地帯の日本軍を直接駆逐しにやってくるにはあまりにも遠い。しかしながら、蘭領インドネシアだった南方資源地帯は豪州に下腹を曝している。豪州は英連邦の一つだった。大きな工業力はなかったが、米国が豪州と組んで拠点を整備して、資源地帯である蘭領インドネシアを攻撃してくる可能性は低くなかった。つまり、南方の資源地帯を守ろうとすれば、すぐ南にある豪州の軍事力が強化されるのを避ける必要があった。

後に欧州連合国軍の総司令官となるアイゼンハワーは、日米開戦直後にマーシャル陸軍参謀総長に呼ばれて、日本への反攻をどうするか問われている。彼は考えた後に、豪州を拠点とするため米豪の連絡線を確保する必要があると答えた。この考えはマーシャルと合致していたようである。アイゼンハワーは翌1942年3月少将に進級し、6月には中将に昇進して米国陸軍欧州戦域司令官となった。この豪州との連絡線を確保する考えは海軍作戦部長だったアーネスト・キング提督とも同じであり、米軍の首脳部もそう考えていたことがわかる。

2-1節でも述べたが、日本では1942年1月10日の大本営政府連絡会議で、戦争の第2段階をどうするかが具体的に議論された。その結果は、豪州を連合国から脱落させて、南方資源地帯を守ることだった [7, p124]。そのためには米国の立場とは裏返しに、米豪を遮断する必要があった。この時点でようやく南方資源地帯の防衛を本腰を入れて検討し始めたと思われる。それがFS作戦(フィジー・サモア作戦)である。

日本軍がフィジーとサモアを押さえてしまえば、米国から豪州へ向かう船舶は輸送ルートを大きく迂回することを余儀なくされる。それは軍事物資の輸送が大幅に減少し、豪州への軍事支援が困難になることを意味した。米国から豪州への支援を断つFS作戦は、南方資源地帯を守るためには確かに必要だっただろう。しかし、もし成功していたら使える船舶や輸送頻度はかなり減ると思われるが、どの程度効果上げたかは不明である。


南太平洋の島々は、1942年2月頃までほとんど無防備だった。開戦前から予め計画しておいた1942年1月のラバウル占領だけでなく、南方資源地帯の防衛を想定してFS作戦も続けて計画しておれば、占領に成功していた可能性は高い。開戦直後には、特設巡洋艦2隻がフィジーのさらに東の西経120度付近まで進出して米国商船2隻を撃沈している [4, p40]。しかし、FS作戦が具体化されたのは、第1段階作戦を終えた1942年4月だった。この遅れが、バヌアツ、ニューカレドニアを軍事拠点とした反撃の余裕を米国にかろうじて与えた。

持久戦を覚悟していた海軍軍令部と短期決戦を目指した連合艦隊では、考えが異なっていた。太平洋戦争での第2段階として、海軍軍令部はFS作戦によって豪州を弱体化させ、南方資源地帯の安泰を図ろうとした一方で、連合艦隊は早期の艦隊決戦による痛撃によって講和を目指した。両者の妥協案として、まずラバウルを守るためのMO作戦を実施して、それからミッドウェー作戦(MI作戦)を行い、さらにFS作戦を行うことになった。

ところが珊瑚海海戦によって海路によるMO作戦は中止され、またミッドウェー海戦の敗戦のため、連合艦隊の早期講和の目論見は崩れた。当然FS作戦も中止された。しかし、海軍軍令部は引き続き長期持久を目指していたようである。そうなると、戦争の行方は中部太平洋で起こると想定される受動的な艦隊決戦に賭けるしかなかったのだろう。それにはトラック島の基地は必須であり、その防衛のためにはラバウルは重要であり、さらにその防衛のためにソロモン諸島、ポートモレスビーを含むニューギニア方面がにわかに注目されるようになったと思われる。

14-3-2    ポートモレスビー攻略とSN作戦

海路によるMO作戦とFS作戦は中止された。しかし、陸路によるポートモレスビー攻略のためにツラギの占領は継続し、さらにラバウル飛行場の拡張に加えて、ラエ、カビエン、ガダルカナル島などいくつかの地点での飛行場建設・拡張が始まった。この航空基地設営が2-3節で述べたSN作戦である [4, p378]。しかし、陸軍は中国大陸とインド洋に目を向けており、海軍はソロモン諸島ではなくニューギニアを主戦場と考えていた。

ところが、ソロモン諸島のツラギの占領継続とガダルカナル島での飛行場建設は、連合国軍の必死の反攻を招くこととなった。それにも関わらず前述したように、日本では連合国軍の反攻は1943年になってからという強い思い込みがあった。しかも日本軍にとってソロモン諸島は、ポートモレスビー侵攻のための側面を固めるものに過ぎなかった。しかし、米国にとってツラギの占領とガダルカナル島での飛行場建設は、米豪遮断の前触れに映った。ソロモン諸島が持つ地政学的な役割について、日米で考え方が異なっていた。

14-3-3    大型爆撃機の影響

では、なぜ日本軍はニューギニア方面に注目して、ポートモレスビー攻略とそのためのSN作戦を実施したのだろうか?それには、2-1-1節で述べたように米国陸軍の長距離大型爆撃機(B-17など)の存在が大きかったと思われる。日本軍は、艦隊決戦の要となるトラック島を守るため、ラバウルに進出した。ラバウルに進出してみると、ポートモレスビーからの長距離大型爆撃機による爆撃に曝された。ラバウルを守るためには、ポートモレスビーを押さえる必要があると考えたと思われる。米国での長距離爆撃機の開発の目的と経緯は、「アリューシャンでの戦い」の「11-4アメリカ軍の航空戦力に対する考え方」に書いた「敵に我が沿岸に近づく手段を与えない」である。結果として、この長距離大型爆撃機が、日本軍によるラバウルから先の侵攻を弱めた面があると思われる。

また、ガダルカナル島攻防戦において、10月の南太平洋海戦によって米海軍は使える空母が一時的になくなった(空母「サラトガ」と「エンタープライズ」は11月に復帰する)。一方、日本軍は南太平洋海戦で、空母「翔鶴」が大破、「瑞鳳」が中破したが、「翔鶴」、「隼鷹」、「飛鷹」(機関故障中)は残っていた。この状況においてもガダルカナル島での制空権は取れなかった。それは南太平洋海戦でのこれら空母のベテラン搭乗員の損失が大きかったこともあるが、米軍の長距離大型爆撃機が健在だったことも大きい。

長距離大型爆撃機はラバウル付近まで飛んで、飛行艇と合わせて日本軍の哨戒・偵察も行っていた。日本軍にとっては、長距離大型爆撃機によって飛行場は爆撃され、哨戒によって動向は監視され、場合によっては艦隊も爆撃された。しかもその撃墜は至難を極めた。米軍の長距離爆撃機は日本軍の目の上のたんこぶだった。敵空母がいなくなっても、日本の機動部隊はソロモン諸島付近を自由に航行できるわけではなかった。米国陸軍航空隊が戦前に想定した「敵を近づけない」、という長距離爆撃機の役割が功を奏したといえる。

14-4    船舶問題

戦前から日本を近代国家として成り立たせていたものは、船舶による物資の輸送・貿易だった。この理解が軍部に決定的に欠けていたと思われる。戦時の物資や兵員の輸送は陸軍の船舶輸送司令部(1942年に船舶司令部に改名)の担当だった。日中戦争の初期から大陸への物資輸送に船舶が不足しており、国内の民間船舶を大量に徴用して凌いでいたが、それが逆に国内の民需を圧迫していた。1937年の杭州湾上陸では日本海運力の 2 割強の70万トンの船舶を徴用した [2]とあるが、一時的とはいえこの徴用量では国内の需給が回らない。その後の対応の必要性もあって、船舶の建造が行われたと思われるが、12-2-7節で述べたように、結局高速船は大戦前に数十隻が建造されたに過ぎなかった。これは老朽船舶との世代交代を含めると、必ずしも多くない。しかも、太平洋戦争突入後のジャワ島上陸作戦では、再び総船腹量の3割である187万トンが徴用されている [2]。

ここに日本の戦争観が表れていると思われる。つまり、短期決戦の戦争だけを想定して、一時的な徴用で凌げばなんとかなるという考えである。船舶の建造の拡大は急には出来ない。造船所の増加拡大だけでなく、原料を海外から輸送して鉄鋼に精製しなければ船舶建造用の資材にならない。つまり実際に戦争を始めて見ると、生産拡大ための物資を輸送する船舶を建造するための船舶が足りないという矛盾に陥っていた。そういう中で船舶の作戦への徴用が常態化して、13章で述べたように陸軍参謀本部と陸軍省が徴用船舶量を巡って争いを起こすという事態に陥ってしまう。しかも船舶は潜水艦や航空機の攻撃によって次々と沈められていって、さらに事態は悪化した。

政府や軍の首脳は日中戦争の初期から船舶の不足状況をわかっていたと思われる。ただ、日中戦争はすぐに片付き、ましてや米国などと戦争することになるはずがないと考えていたのではなかろうか。英米との戦争は、近くの大陸との輸送で済む戦争ではない。南方の資源を日本本土に輸送しながら、かつ広大な太平洋の各地に補給を行いながら戦うのである。船舶量だけでなく、護衛用の軍艦も足りなければ、徴用した多くの船舶の防衛武装も不足した。結局、軍の船舶輸送を陸軍の担当にした1910年の海戦要務令を、英米相手の太平洋戦争まで続けたことも、船舶の護衛や船舶輸送速度の向上が後手に回った一因かもしれない。

米国が戦時中に建造した輸送船(リバティ船)は2700隻と言われている(総量は2000万トン以上と思われる)。日本では、戦争をすれば航空機と同様に、膨大な数の専用の輸送船舶が必要になるという考えに至らなかった。第一次世界大戦を綿密に分析して、英米と戦争をするには徴用した船舶量では全く足りないことに気づいていれば、戦争を避け得たのではないかと思っている。

14-5    総力戦とは

第一次世界大戦後、日本は欧州に調査団を出して、なぜドイツが敗れたのかということを調査した。よく知られているように、第一次世界大戦でドイツ軍は完膚なきまでに叩かれたため降伏したのではなかった。どちらかというと国内の世論の厭戦によって戦争体制が崩壊した。そのため、それなりの兵力・戦力が各地に残ったまま降伏する形になった。彼らは武装解除されたものの、その不満が第二次世界大戦の伏線ともなった。

当然、ドイツの降伏が国民世論の厭戦から始まったことを、日本の軍部も認識していただろう。そのため、戦争の遂行には、国民世論の操作と統一が重要であると思ってもおかしくない。事実、陸軍省人事局課長の中井良太郎大佐は、大日本国防婦人會の指導と監督に就いて、「(第一次世界)大戦は永びき(ママ)・・・もう戦争をやめてもらいたいと言う気分は婦人の間に流れました。我が国婦人は大いに覚悟して独逸婦人の二の舞を演じないにようにすべきであります。」と述べている(NHKスペシャル「銃後の女性たち」、2021年放送)。

そのため日本では、総力戦とはまず国民の全部が一致して協力することだけに重点を置いて考えていた人も多かったのでないかと思われる。そのために昭和に入ると思想統制が強化されたのかもしれない。

第一次世界大戦を見ると、戦争途中でそれまでにない新しい兵器が登場し、それらを如何に大量に揃えるか、あるはそれを用いた新しい戦法を編み出すか、が重要だった。航空機だけではない、戦車、長距離砲、毒ガスなど新しい兵器が登場し、大量に使われた。とういことは、次の戦争でも同様なことが起こると考えるのが普通である。しかし日本は、そういう情報に対するアンテナの立て方が極めて狭かった。日本が見逃した(遅れた)技術は、主な兵器だけでも、レーダー、ソナー、成形炸薬、噴進砲(バズーカ砲)、(魚雷用)磁気信管、蒸気カタパルトなどがあり、さらに兵器の運用方法や戦法、兵器周辺の技術(電子装置、石油化学、土木機械の開発など)を入れると、無数にある。

それらの技術の発展とそれを用いた物資の大量生産には、さまざまな部品や製造装置の製造、そのための鉄鋼などの生成工場の増設、そのエネルギーを賄うための発電施設増設、技術発展のための人材の育成などが関連する。総力戦には多面的な国力の増強が必要だった。しかし、日本では、思想統制は強力に進められたにもかかわらず、総力戦における(軍需産業だけでない)産業全般の育成という視点が、十分でなかったと思われる。

それは第一次世界大戦後も、失業対策もあって土木作業用の機械を輸入や開発せずに人力による作業に頼ったことでもわかる。持っている兵器だけによる戦争の時代は終わった、というのが総力戦の意味だったのかもしれない。しかし、戦争指導者たちは(既存の)軍備と士気だけで戦争に勝てると思っていたのかもしれない。第一次世界大戦をよく研究して、日本の産業の実情を理解していれば、そして、想定している短期決戦にならない可能性を判断できていれば、この戦争に突入することはなかったのではないだろうか?

一時期、戦争に負けた理由を米国の物量にやられたというような声を聞いたことがある。しかし、それは表面的な言い訳であるように聞こえる。確かに米国を初めとする連合国の勝利の背景に、豊富な物量があったのは事実である。しかし、近代的な電子戦や情報戦を始めとして、連合国軍の戦い方は決して物量だけではなかったし、誰でもどこでも効果的に使える武器やそのための戦法やそれらを組み合わせて効果を高めるシステムの開発も重視された。個々の戦闘に負けたというよりも、戦争をやるための基本的な考え方が安易過ぎたのではないだろうか。欧米はなぜそういう方向を目指し、そしてどうして日本はそれが出来なかったのか、ということまで掘り下げないと、敗戦の原因には迫れないだろう。

14-6    ガダルカナル島が戦場になったまとめ

南太平洋のガダルカナル島で悲惨な戦いが起こった原因は、南方地資源帯を防衛しながら英米と戦争するという、戦前に想定していなかった戦争をいきなり始めてしまったため、想定していなかった場所で、想定していなかった戦闘をせざるを得なくなったことに集約されると考えている。

一方で、米国はオレンジ・プランやその後継のレインボープランによって、もし日本と戦争となった場合の基本戦略を決めており、それに沿って準備を行い、開戦後は大筋ではそれに沿った一貫した戦略を採った。ただ、南太平洋に進出した日本軍を見て、米豪連絡線の遮断の恐れを感じたため、その防衛を兼ねて反攻が南太平洋からになったのだろう。その際の迅速な反攻開始は、キング提督の功績だと思われる。この時点ではまだ軍事的優位を保っていた日本軍だったが、迅速な反攻によって油断していた日本軍は足下をすくわれたと考えている。

振り返ってみると、14-2-10節に書いたように、石油の全面禁輸の前には、日本は米国と本気で戦争をする考えがあったとは思えない。そのため、石油の全面禁輸という想定外の事態になったなら(当時の情勢を冷静に考えれば十分に想定されたが)、それから国防方針にない資源確保のための戦争を始めるのではなく、いったん立ち止まって戦争以外の手段で状況を立て直す、というのが常識ではなかろうか?

にもかかわらず、備蓄石油の減少と米国艦隊の拡充という時間を切られた決断を迫られた結果、南方資源地帯を武力で獲得してそこを防衛しながら英米と戦う、という全く準備していないない戦いを、こちらから仕掛けてしまった。南方の資源地帯を守る戦略も専用の軍備もなかった。あったのは、中部太平洋で米国との艦隊決戦をするためだけの軍備と戦法だった。それで米国との艦隊決戦と資源地帯の防衛の両方を賄おうとして、機動部隊はハワイからオーストラリア、インド洋まで駆け回った挙げ句、ミッドウェー海戦で敗れ、油断していたガダルカナル島に反攻の足場を築かれ、消耗戦に巻き込まれて、後は転げるように破綻したのではないかと考えている。

英語にはビッグピクチャーという言葉がある。これを訳すと基本構想ということにでもなろうか?日本では戦争に対する基本構想があまりにも矮小化されていたのではないかということである。14-2-7節の最後の方に、作戦及び戦争指導の事務当局という当時の軍事のプロ中のプロの、戦争に対する考えを記した。これが日本人だけで300万人以上の兵士や市民の犠牲を強いることになった英米との戦争に対する基本構想であったとすれば、怒りを通り越して悲しみしかない。

現実としては、戦前に何度も国防方針の類いが定められた(改訂された)にもかかわらず、私が挙げたような戦備体制の構想は一切検討されなかった。何度も書くが、これはもともと日本には米国と石油を巡って戦争をする意思はなかったためと見ている。もし何かの弾みで米国が攻めてくれば、備蓄した石油を用いた短期の艦隊決戦で米国艦隊に大損害を与えて、後は外交で処理するストーリーを描いていたのではなかろうか?(実際にそうなればそんな単純ではないだろうが。)それならば、それ以外の状況での戦争はしない(できない)、に徹するべきだったと思っている。

 

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