11. 川口支隊攻撃のまとめ

 (これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

11-1    米軍の増援

11-1-1    空母「ワスプ」の撃沈

エスピリッツ・サントから航空戦を指揮していたマケイン提督は、8月末にガダルカナル島を視察し、そこでガダルカナル島での航空戦の実情とそこでの日本軍駆逐艦による艦砲射撃を経験した。これによって、ガダルカナル島での航空戦力の強化が必要であることを実感した。

またヴァンデグリフトの上官で気むずかしがり屋のターナー提督も、9月初めにガダルカナル島に入って現地を視察して状況を知った。彼は当初兵士の増援に否定的だったが、この視察によって連隊規模の第7海兵隊を増援に送ることを決断した。その結果、米軍増援部隊として第7海兵隊4000名と補給物資、建設機械などが、輸送艦5隻と補給船2隻に搭載され、9月14日にエスピリッツ・サントを出港した。

日本海軍は、レンネル島の南50-80kmにあるインディスペンサブル礁に時折潜水艦を配置して、水上機の秘密中継基地として使用していた。そこに停泊した潜水艦を中継した日本軍の水偵は15日0830時に、サンクリストバル島南東方200 kmに空母1、巡洋艦6、駆逐艦7の有力部隊を発見した [29, p111]。これは、この船団の護衛にあたっていた空母「ワスプ」を中心とする機動部隊だった。

連合艦隊は、第1潜水部隊にサンクリストバル島南方への進出を命じ、第3潜水部隊などにガダルカナル島西方の機動部隊の迎撃を命じた。その結果、9月15日1145時に潜水艦「伊19」は、船団を間接護衛していた空母「ワスプ」を雷撃し、潜水艦「伊15」はその沈没を確認した。同じく雷撃によって戦艦「ノースカロライナ」と駆逐艦「オブライエン」も損傷を受け、「オブライエン」は途中で沈没した。米軍では決まった航路を往復しながら護衛していたのが失敗だったとしている。

潜水部隊作戦経過図(9月6日~15日)
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 1942年9月15日にガダルカナル作戦中に日本潜水艦の魚雷攻撃を受けたオブライエン。数分前に魚雷を受けたUSSワスプ(CV-7)が左の遠方で燃えている。オブライエンは艦首に命中したが、魚雷の爆発によって船体中部に深刻な損傷を受け、修理のため米国に戻る途中の1942年10月19日に沈没した。https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-450000/80-G-457818.html

11-1-2    増援の成功

9月16日にはインディスペンサブル礁の潜水艦を中継した日本軍の水偵が、今度はガダルカナル島南に輸送船9隻、駆逐艦6隻からなる輸送船団を発見した。この輸送船団は、前日に日本軍哨戒機に発見されたため、欺瞞のため一時的に南へ向けて航行中だった。日本軍では、輸送船団は南下しており、ガダルカナル島への輸送を断念して退避しつつあると考えて、船団への攻撃は中止された [29, p112]。ラバウルの25航戦と26航戦は、この日ガダルカナル島在泊の輸送船団攻撃のために戦爆連合50機で出撃したが、悪天候のため引き返した [27] [30]。

欺瞞航路を取っていた輸送船団は、17日に針路を反転させてガダルカナル島へ向かった。海は荒れていたが、18日0330時に比較的海が静かなククム沖を選んで停泊し、揚陸を開始した。この6隻の輸送艦によって、第7海兵隊4000名と、車両147台、工兵装備の90%、組織装備の82.5%、弾薬のほぼすべて(37mm砲弾と手榴弾各1万発を含む)、B糧食82トン、C・D糧食930トン、軍事物資のほぼすべて、テント設備の60%が陸揚げされた。船団はその日の1800時までで揚陸を止めて出航した(これはガダルカナル島守備隊に目撃されている)。また、この6隻とは別に、4隻の輸送艦によって、ドラム缶3823本が揚陸された [9]。ラバウルの第11航空艦隊(25航戦と26航戦)は、18日にポートモレスビーへの攻撃の予定になっていたが、悪天候で出撃できなかった [29, p140]。結局、ガダルカナル島で揚陸中の輸送船への空襲はなかった。

ガダルカナル島の海岸に新鮮な物資を運ぶ上陸用舟艇とはしけ。おそらく1942年12月か1943年1月。80-G-40796


これら輸送は米軍にとって、兵士の増援とガソリン、食糧、弾薬の上陸後初めての本格的な補給となった [22]。この第7海兵隊の到着によって、米軍兵力は大幅に増援された。また同時に、上陸以来不足していた物資が補給された。これによってガダルカナル島の防衛は、当面の窮状を脱した。ヴァンデグリフトは、第7海兵隊を加えて防衛線を再編し、占領域内の全周囲防衛線を確立した [9]。9月30日には太平洋艦隊司令長官ニミッツと彼の閣僚が、ガダルカナル島を訪問して兵士を激励している。

CINCPACのニミッツ海軍大将(中央)がガダルカナル飛行場で幕僚らと写っている写真
(1942年9月30日)


9月15日の潜水艦による空母「ワスプ」の撃沈を取り上げた記述は多いが、同時に米軍がガダルカナル島への初の兵士増援に成功した事実は重要である。この増援によって、9月14日にツラギから移動してきた第2海兵隊第3大隊を合わせて、ガダルカナル島におけるヴァンデグリフトの手元にある戦力は、10個歩兵大隊、1個襲撃大隊(戦力は減少していたが)、砲兵大隊5個となった [22]。9月末の米軍の兵員数は、ガダルカナル島に19251名、ツラギに3260名となっている [9]。ヴァンデグリフトは、一部の年長の指揮官を交代させて米国に送り返した。彼らは、戻って戦闘の実態を報告し、実戦の経験のない母国の部隊に新たな専門知識を提供した。

増援を受けたガダルカナル島の米軍戦力を日本軍が排除するには、フル編成の3個師団程度が必要となっただろう。それをラバウルから移送するには、完全な制空権と数十隻の輸送船が必要となる。この輸送と揚陸を成功させることだけでも容易なことではなく、そのため、私は川口支隊の攻撃失敗とこの米軍の増援によって、ここでガダルカナル島戦の事実上の決着がついたと思っている。

この半月前の9月2日には、日本軍は敷設艦「津軽」によってタイボ岬への食糧・弾薬輸送に成功したが、米軍の奇襲上陸によって揚陸した物資はほとんど焼かれた。第13章に記述するが、この約1か月後の10月13日に、日本軍は輸送船団6隻で第2師団を中心とする戦力を送り込もうとしたが、そのうち3隻を失うことになる。しかも揚陸した物資は海岸で爆撃によって焼かれた。11月になると、再度の輸送を試みた輸送船11隻による船団は、途中で引き返した1隻を除いて全滅することになり、状況はもっと悲惨になっていく。

11-2    川口支隊による攻撃の課題

13日の攻撃では、米軍の2個大隊が守るムカデ高地に日本軍の3個大隊が攻撃を行った。米軍は防衛線を整備していた上に、後方には砲兵隊や予備隊も構えていた。日本軍の攻撃は必ずしも組織的ではなく、各大隊の個別の戦いになったようである。この攻撃の混乱の責任は支隊司令部にあると考えているが、そういった指導の不備による不利な状況にもかかわらず、日本軍は、多大な犠牲を払って米軍司令部近くまで一時的にも進出できた。これは日本軍の個々の一般兵士の優秀さを示しているのではなかろうか。まず、その点を指摘しておきたい。

稜線に沿って白く禿げたムカデ高地。向こうに飛行場が見える。 [9]より。

11-2-1    攻撃開始日の繰り上げの是非

川口支隊攻撃時、ガダルカナル島の米軍は上陸してから1か月以上経っており、防衛線は既に確立されていたが、増援の輸送船が新たに到着しない限り、米軍の兵力が時間とともに増勢されることはなかった(ただし、ツラギの兵力をガダルカナル島に転用はしている)。一方、川口支隊は、地理も詳しくわからない密林の中を、困難な道を啓開しながら飛行場へ向けて急いで進軍しており、その状況から12日の攻撃開始を無理と判断して13日に延期した。しかし、フィジーでの米軍集結の情報を聞いた第17軍からの攻撃繰り上げの打診があると、即座に延期を撤回し、攻撃開始日を12日に戻した。

ムカデ高地での突撃が最終的に失敗したのは、ほとんどの兵士が、得意の夜襲による白兵戦が行える地点まで突破できなかったためではなかろうか。その一因として、総攻撃の予定だった12日に一斉攻撃ではなく、一部の部隊だけによる攻撃しか行えなかったことが挙げられる。

これによって米軍には、翌日以降にこの方面から同様な攻撃に対応するための準備が出来た上に心理的余裕が生まれた。しかも13日の攻撃も各大隊が自分の位置が十分に把握しないままに各隊がバラバラで不徹底となり、また日本軍が攻勢をかけてくると想定された一帯に照準された米軍による砲撃が大きな効果を発揮した。このように、連絡網の粗雑さによって各大隊が他部隊の状況もわからずに個別に戦いを展開したことと、海空とも十分に連携した組織的な攻撃を行わなかったことが米軍による日本軍の撃退を容易にしたと考えている。

11-2-2    火砲の軽視

川口支隊では、攻撃前に交戦した米軍パトロール隊の捕虜から、米軍防衛線内の様子を聞き出していた。それは陣地の位置や鉄条網の有無、戦車の待機位置、航空機の数などであった [7, p462]。その聞き取り記録には、米軍の砲兵陣地の位置の情報はない。また、航空写真を撮っていれば、砲兵陣地の場所なども予めわかっていただろう(10月の総攻撃の前には航空写真を撮っている)。日本軍は、少なくとも米軍の砲兵陣地の位置を特定して、艦砲射撃や爆撃でそれらを事前に潰すことを行わなかった。

亡くなった兵士の死因を個別に分析することはできないが、後の全滅覚悟のバンザイ突撃と異なって、あくまで飛行場奪取を目的とした攻撃である。小銃や機関銃の閃光弾が飛び交う弾雨の中を、兵士が遮二無二突撃して失敗したとは考えにくい。米軍はいくつかの砲兵陣地を構築して、日本軍が攻撃してきそうな場所の照準の諸元を予め計算していた。そのため11-2-1節で述べたように、突撃場所の連絡を受けての目標地点への砲撃や日本軍の発火信号を目印にした砲撃によって、日本軍の兵士は白兵戦による混戦状態に持って行く前に大きな損害を蒙って、攻撃が頓挫したのではないかと考えている。

第一次世界大戦での各国の戦訓の一つは、戦いが砲兵主導であり、逆に砲兵を事前に潰すことの重要さだった。しかし日本軍は、香港攻略、シンガポール攻略、バターン半島攻略でも火砲を軽視した白兵銃剣至上主義だった(バターン半島ではそれで苦戦している)。そのパターンを、そのままガダルカナル島でも適用したようである。

川口支隊では3個砲兵中隊をテナル川河口の海岸寄りに配置した。しかし、前述したように火砲や砲弾の人力での運搬は困難を極めた(92式歩兵砲でも重量204kg。砲弾を含めると1トン近い。本来は駄馬運送)。そのため、支援砲撃は極めて限られていたと思われる。しかし、夜間は制海権がまだ日本側にあり駆逐艦も進出していたので、13日も海上からの艦砲射撃が使えたにも関わらずそれを行わなかった。もし事前の艦砲射撃や爆撃で米軍の砲撃陣地を潰すことに成功していれば、攻撃はもっと有利に展開していたかもしれない。ガダルカナル島の海兵隊司令官ヴァンデグリフトは、日本軍の砲兵の使用について、「効率性の欠如と専門的技術の低さ」を指摘している [9]。

11-2-3    川口支隊長の対応

戦史叢書に断片的な記述から、いくつかの問題点を洗い出してみる。まずは川口支隊長が、部隊のガダルカナル島への移動について舟艇機動に固執したことである。輸送時に部隊の被害を出したくないという気持ちはわかる。しかし8月27日の駆逐艦輸送の失敗は、燃料不足のために昼間に敵機の攻撃圏内に入ったためである。攻撃を受けた原因を確認すれば、航空攻撃が弱まる夜間に輸送できれば予定通り揚陸できることはわかったはずである。また、舟艇機動でも被害を免れるとは限らない上に、そうすればタイボ岬へは到着できずタサファロング方面への到着となり、兵力が分散することもわかっていたはずである。しかも、軍司令官の却下にも関わらず自説にこだわった。この自説にこだわる理由にあまり合理性を感じない。しかも、舟艇機動実施後の部隊の到着状況やその惨状を第17軍司令部には伝えなかった。

次の問題は11-2-1節で述べたように攻撃日の変更である。密林内の進軍の困難さから、攻撃日の1日延期を決定しておきながら、翌日に17軍司令部から打診があると、あっさりその延期を撤回した。最初の1日延期は何だったのだろう。攻撃日を元に戻した12日の攻撃の様子を見ると、この判断が適切でなかったことは明白である。

さらなる問題は、攻撃開始の指示である。12日の攻撃は最終的に9日に決定された。それから各部隊は攻撃位置に向けて進軍している。支隊司令部は、攻撃開始時に各部隊の攻撃位置への到着状況を確認してから最終の攻撃命令を出した様子がない。戦闘開始後に支隊長は口述命令に依っていた部分をあり、とすると大隊には無線機がなかったのだろうか?前述したように、青葉大隊は攻撃命令が来ないので、独断で攻撃を開始している。自分たちがいる正確な位置さえわからない部隊も多かったのに、そういった状況を確認せずに、9日に決定した攻撃日をそのまま墨守させたようである。それが12日の攻撃がバラバラで、攻撃を行えなかった部隊が続出するという事態になったのではなかろうか?

確かに各部隊との通信は困難になっており、司令部本隊要員の多くは舟艇機動によりマタニカウ川西方にいた。支隊司令部には伝令などに使える要員が少なかった影響もあるかもしれない。そういった要因がどこまで影響したかはわからないが、9日に攻撃日を決定した後は、攻撃開始は各大隊にお任せになっていたような印象を受ける。

最後の問題は、第17軍司令部との通信の途絶である。攻撃開始から攻撃中止・撤退までの肝心の時期に、3日間にわたって通信が行われなかった。このため、ラバウルの陸海軍は大きな混乱に陥った。この通信途絶の理由がわかっていない。せめてこの理由だけでも釈明すべきだったのではないだろうか?

11-2-4    もし岡部隊がタイボ岬に上陸できていれば?

8月27日の外南洋部隊の命令で混乱が起こり、第1回駆逐艦輸送におけるガダルカナル島輸送が1日延期になった。それに伴った燃料の節約のため、第20駆逐隊は昼間に米軍航空機の攻撃圏内に入らざるを得なくなり、被害を受けた。この被害を見て川口支隊長は舟艇機動にこだわるようになり、岡部隊は被害を受けながら舟艇機動でタイボ岬と反対側のマルポポなどに上陸した。2回目以降の駆逐艦輸送は全て成功していることから、この混乱がなければ、27日の第1回駆逐艦輸送は成功し、その結果、岡部隊(第124連隊司令部要員や第2大隊、速射砲中隊など)は、最初の計画通り川口支隊本体がいるタイボ岬に上陸できたと思われる。

だからといって敵陣までの行軍が容易になるわけではないが、仮に熊大隊と第124連隊1~3大隊、青葉大隊の5大隊が、連隊司令部本隊を含めて配置につくことができて、一斉に攻撃していたらどうなっていただろうか?歴史にifはないといわれるが、可能性としては十分にあったと思われるので、簡単に推測してみたい。

13日の攻撃で、日本軍(おそらく青葉大隊)の一部は、米軍海兵隊司令部の近くまで進出した。5大隊による攻撃によって日本軍に兵力の余力があれば、司令部を占領できたかもしれない。それなれば、中枢を失った米軍は、全体の状況を把握した上での適切な対応をとりづらくなったと思われる。状況によっては、日本軍は飛行場まで進出し、さらに北上して海岸を目指したかもしれない。ここで米軍が東西に分離されるかどうかはわからない。必死で防戦するだろうし、戦車やLVT(水陸両用トラクター)もあった。しかし、東側の防衛線を守っていた米軍部隊は、海岸付近を通っていったん飛行場の北西側のルンガ岬かククム付近に撤退したのではないかと推測する。しかし、飛行場付近にまで進出した日本軍部隊が微弱だと、日本軍は追い返されてムカデ高地付近まで退却したかもしれない。いずれにしても、ルンガ岬付近を拠点とする米軍とムカデ高地付近を拠点とする日本軍との間で、戦線の膠着が起こったのではないかと推測する。

日本軍砲兵隊が飛行場近くのムカデ高地付近まで進出すれば、米軍機は少なくとも飛行場を使えなくなる。仮に飛行場を日本軍が占領しても、米軍は撤退時に燃料や施設を破壊していくだろし、米軍の砲兵も残っているだろうから、日本軍の航空機が直ちにガダルカナル島飛行場に進出できるわけではない。

飛行場復旧のための資材揚陸のために、ルンガ岬付近の海岸を巡る戦いが起こったかもしれない。あるいは、米軍を挟み撃ちにするために、日本軍はタサファロング付近にさらに増援を送った可能性もある(実際に第2師団第4連隊第1大隊などの一部の部隊は、飛行場奪還の成否にかかわらずタサファロングへの輸送の途上にあった)。これで飛行場を巡る戦いは、ガダルカナル島に航空基地がなく、かつ日米の根拠地がラバウルとエスピリッツ・サントという対等に近い条件から、改めて始まることになっただろう。

11-3    攻撃失敗についての当時の分析

前節で戦闘のまとめを記した。しかし、当時の考え方がよくわかるので、当時の各司令部の分析結果を要約しておく。括弧内の注(注:)は、私のコメントである。

11-3-1    大本営の分析

川口支隊による攻撃が予定通り進まなかった原因として、ラバウルの大本営派遣参謀井本中佐は、次の要因を挙げている [7, p480]。

  • 敵情不明、舟艇機動等による分散上陸、不十分な兵力と装備、制空権の不在、上陸後1か月経た敵の防備の強化、敵輸送船による頻繁な補給、日本軍の肉弾的夜襲と対照的な物的組織(火砲、機関銃)の十分な準備。
  • 敵は引き続き地上と航空戦力の強化に努めている。それは兵力の増強競争となっており、日米の決戦的な様相を示している。そのため、引き続きガダルカナル島奪回作戦とポートモレスビー攻略作戦を堅持することが重要。そのためバターン半島での攻略で行ったような経緯を必要とする。

11-3-2    第17軍司令部の分析

一方で、ラバウルの第17軍司令部は、次のように分析している [7, p481]。

  1. タイボ岬に敵が上陸したため一部の糧秣等を押えられるとともに、それによって攻撃・準備のため十分な時間の余裕がなかったこと(注:しかし、川口支隊はいったん延期した攻撃日を元に戻している)。
  2. 敵の火力の優越(注:白兵戦による肉弾突撃を過信して、火砲の脅威に対する事前の認識が足りなかったということではないかと思われる)
  3. ジャングルのため部隊の連絡が十分とれず、支隊長の命令のように突撃したのは5個大隊中2個大隊(歩兵第124連隊第1大隊と歩兵第4連隊第2大隊)に過ぎず、結局突撃兵力が不足したこと(注:実際どうであったかは今でもわからないが、少なくとも第17軍では当時そう思っていたようである)。
    歩兵第124連隊主力はルンガ左岸地区から策応する予定だったが、舟艇機動中の損害が多かったのと、地形が複雑且つ隔絶していて連絡がとれなかったため攻撃していないこと(注:若干の攻撃は行ったが撃退された)。ルンガ左岸地区に新に増援された歩兵第4連隊の第3大隊は上陸後、戦場に急行したが間に合わず、左翼隊の海岸方面から行う攻撃は翌朝となったこと等。
  4. 支隊長が支隊の根幹たる歩兵第124連隊主力を舟艇機動により手元から離し、建制でない他の諸部隊を手元に置き、少数しかいない支隊司令部で指揮した。そのため、非建制部隊の掌握が不十分、協同不十分に陥った可能性があること。(注:舟艇機動では、連隊主力をタイボ岬の川口支隊本隊と合流させることは困難であることは予めわかっていたはず)
  5. 地図が不完全である上に密林内であったため、方向の維持困難であったこと。

11-3-3    連合艦隊司令部の分析(宇垣参謀長の日誌による)

  1. 敵の決意(今秋の中間選挙戦も意識した兵力の使用)とその万全を期した防備対抗手段を軽視し、自軍の力に過信し、軽装備の同数(或は以下)の兵力をもって一挙奇襲に依って成算を求めたこと。
  2. 敵の制空権下であった上に天候の障害多く、我が軍は航空機の活用や輸送が困難であったのに対し、敵は損害を顧みず相当に増強を継続し、防御を固くしたこと。
  3. 奇襲以外火砲の利用等考慮少なく、また軍の統率や連繋が不十分だった。(川口支隊長直接の部隊は二個大隊にして、他の一個大隊及び一木支隊残兵は他の建制部隊である。しかも岡連隊長は西方に占位し、両者の間に通信連絡をとらなかったようである)個々に別々の戦闘を行ったこと。(攻撃開始を13日に延期した事を通知出来ず一部は12日攻撃開始)(注:攻撃開始日はあくまで12日だった。川口支隊との通信の途絶によりラバウルでも攻撃日の混乱が起こっていることがわかる)
  4. ジャングルのため進撃が容易でなく、主隊の進出位置が適当でなかった。さらに各大隊の左右連繋に欠け、協同不能に陥ったこと。
  5. 奇襲は敵の意表を衝いて初めて成功するにも関わらず、聴音機等の活用により早期に発見され、予期しない銃砲火の集中を受け、戦闘部隊の損害と相まって精神的にも挫折したこと。(戦死200余、戦傷を合せて654名は全体の1割程度に過ぎず)
    これを要するに敵を甘く見すぎたことである。火器を重用する防御は敵の本領である。

川口支隊の攻撃失敗を受けて、大本営はようやく米軍の高い戦意や防御の強固さを、初めて知ったのではないだろうか。しかし、第17軍はそれでも強気で、相変わらず根拠のない自信に満ちていた。それが10月の再攻勢に引き継がれることとなる。10月以降からガダルカナル島からの撤退までについては、念のために13章で簡単に触れる。

参照文献はこちら