3. 米国海兵隊の上陸

(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)
 

3-1    上陸前の日本軍の状況

 

3-1-1    ラバウル方面の日本軍の体制

太平洋戦争が第2段階を迎えるに当たり、海軍は塚原二四三中将を司令官とする第11航空艦隊を4月10日に編成した。この担当範囲は広く、マーシャル、東力ロリン方面およびラバウルを含む南東方面と南鳥島であり、海軍の陸上航空戦力をまとめて、統一指揮官の下に機動性ある作戦を実施できるようにするものだった(基地航空部隊と称された)。第11航空艦隊の下には6個の航空戦隊が太平洋各地に配属された。その構成と定数を以下に記す。これらは太平洋各地に分散していた。なお、定数と実働数とは乖離がある。

  • 第21航戦:鹿屋空(陸攻36、戦闘機27)、東港空(大艇12)
  • 第22航戦:美幌空(陸攻27)、元山空(陸攻27、戦闘機27)
  • 第23航戦:高雄空(陸攻45)、三空(戦闘機45、陸偵6)
  • 第24航戦:千歳空(陸攻27、戦闘機27)、十四空(大艇12)、一空(陸攻27、戦闘機27)
  • 第25航戦:四空(陸攻36)、台南空(戦闘機45、陸偵6)、横浜空(大艇12、水戦9)
  • 第26航戦:木更津空(陸攻27)、三澤空(陸攻27)、六空(戦闘機45、陸偵6)

塚原二四三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E4%BA%8C%E5%9B%9B%E4%B8%89#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nishio_Tsukahara.jpg

そして、ラバウルがある南東方面には25航戦に元山空の陸上攻撃機(陸攻)を加えて、軍隊区分として「第5空襲部隊」を編成した。これらは、米軍のガダルカナル島上陸を受けてラバウルに設立される「南東方面部隊」の核となる。

南東太平洋方面日本軍構成図(8月8日時点)。
青字は軍隊区分。塚原二四三は第11航空艦隊司令を兼ねていた。
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同じく海軍は、7月14日に南東方面の防衛のために、第8艦隊を編成し、司令部をラバウルに置いた(これらは軍隊区分上の外南洋部隊となった)。これは重巡「鳥海」、軽巡「天龍」、「龍田」、潜水母艦「迅鯨」、第13潜水隊(「伊121」、「伊122」、「伊123」)、第21潜水隊(「呂33」、「呂34」)、第7根拠地隊、第8根拠地隊、第30駆逐隊(敷設艦「津軽」、駆逐艦「睦月」「彌生」、「望月」、「卯月」)、特設水上機母艦「 聖川丸」などからなった。注目すべきことは、これを第11航空艦隊司令長官が指揮することになっていたことである。これは空と海の作戦を統一的に指揮することが目的だった [7, p268]。

また、陸軍ではFS作戦(サモア、フィジー、ニューカレドニアの各諸島の攻略)のために、百武晴吉中将を司令官とする第17軍を5月18日に創設した。これには南海支隊(第55師団の歩兵144連隊基幹、約5000名)、歩兵第35旅団(歩兵第114連隊欠)、青葉支隊(第二師団の歩兵第4連隊基幹)、歩兵第41連隊(第5師団の一部)が含まれていた。しかし、ミッドウェー海戦のために米豪遮断のためのFS作戦は中止され、その代わりに7月11日に第17軍による陸路によるポートモレスビーの攻略が計画された [24, p1-2]。

3-1-2    日本軍による哨戒

連合国軍の上陸部隊を乗せた艦隊TF62はまず西進し、8月5日にガダルカナル島の真南から北上を開始した。ガダルカナル島の西方を抜けてから東進して、フロリダ島とガダルカナル島に上陸する予定だった。この航行の間、天候は連合国軍に味方した。米軍の記録によると、5、6日とも曇天で断続的にスコールがあり、視程は悪く雲底は低かった [10]。日本軍哨戒機との接触はなかった [9]。



米軍上陸艦隊と支援艦隊の珊瑚海における航路
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戦史叢書によると、連合国軍が上陸する前日に、第25航戦下の横浜空のツラギの97式大艇3機が、朝6時頃アメリカ上陸艦隊付近の雲上を飛んだことになっている。「敵が上陸した前日の六日、F甲区は大艇三機をもって哨戒を実施したが、視界狭少で、敵らしいものは全く認められなかった」 [4, p429]と記されている(F甲区が米軍輸送船団のいた位置)。

熱帯の気象は、一般的に局所的であることが多く、雲があってもその領域は狭く、時々刻々と変化することが多い。航行していた上陸艦隊TF62の上空は、5日の午後に一時的に晴れたという記述もある [8]。また機動部隊TF61は、ガダルカナル島の西から南東へ向かう上陸艦隊とは別行動を取っていて、天候も違っていた可能性がある。天候の点では日本軍には運がなかった。この地域は専門的に言うと南太平洋収束帯の中であり、確かに雨や曇天が多いが局所的なことが多く、一時的には晴れることある(7日の上陸日は晴れた)。もし哨戒時に晴れていれば、上陸艦隊が近づいている何らかの兆候を掴んだ可能性は高い。

「第25航空戦隊戦時日誌」には、6日に97式大艇3機でF甲区の哨戒を行った旨の記述がたしかにあり、戦史叢書には、その著者が第25航空戦隊戦時日誌を元に推定した同日の哨戒コースと上陸艦隊の航路図が付されている [4, p429]。それに基づいて、上記のように大艇は6日の午前6時頃に上陸艦隊の上空付近を飛んだことになっている(天候は、曇晴所々スコール、視界10~20海里となっている。水平視程は必ずしも悪くないが、雲に覆われた海域もあっただろう)。これを踏まえた著述は多い。しかし、この記録に疑問がないわけではない。

まず、第25航空戦隊下の横浜航空隊司令部(在ラバウル)の「横浜空飛行機隊戦闘行動調書」には、8月2日に九七式大艇3機でツラギからF甲区の哨戒を行った記録は残っている(3日は「最上丸」の対潜警戒を実施)が、5日と6日はラバウル~サイパン間の移動だけで、哨戒を行った記録はない(つまり横浜空の記録は、上部組織である第25航戦の記録と一致しない)。 [15]では、8月6日に3機の97式飛行艇が哨戒に出発したが、1時間以内に視程が悪くなったため、哨戒は中止されたと述べられている。

次に米軍の報告書には、ガダルカナル島へ向かう途中の敵との接触はなかったとされている[2] [10]。上陸艦隊TF62の重巡洋艦「シカゴ」はレーダーを備えており、上陸日の7日にはそのレーダーで日本機による攻撃を10分前に探知している。6日に上陸艦隊の近くを哨戒機が飛んでいればレーダーに映るはずである(レーダーの性能によっては雲で映りにくかったかもしれないが)。米軍は上陸前に日本軍に見つからないように極度に注意を払っており、もし雲上でもレーダーに哨戒機が映っておれば、記録に残さなかったということは考えにくい。

ツラギで生き残って捕虜となった横浜空の宮川氏の追憶談によると、8月6日は天候不良のため哨戒は中止されたと述べている [25]。ただし、その日(6日)に二式大艇がツラギに寄ったと述べているが、第25戦隊戦時日誌によると、二式大艇がツラギに寄ったのは8月4日と5日になっている(個人の戦記でのそういった違いはよくあることである)。これらから、「8月6日に上陸艦隊上空を哨戒したが曇天で発見できなかった」は必ずしも正しくない可能性があると考えている。

哨戒実施の有無は別として、哨戒の重要性を改めて指摘しておきたい。もし哨戒機が上陸艦隊を発見していたとしても、7日の攻撃を見てもわかるように、上陸艦隊を撃滅して上陸を阻止できたとは考えられない。しかし、ガダルカナル島の守備隊・設営隊が、7日に突然奇襲を受けるか、事前に何らかの態勢を整えているかどうかで、その後の状勢は全く異なっていたと思われる。

7日の早朝に、ガダルカナルのルンガ岬にいた日本軍の守備隊と設営隊は、寝起きに完全な奇襲を受けた。突然の砲撃と爆撃および敵部隊の上陸で、何も出来ずに退避、あるいは密林に逃げ込むのが精一杯だった。そのため、それによる以下の点が戦局に何らかの影響を及ぼした可能性が高い。

  1. 通信機材を一切持ち出せなかった。ラバウルの外南洋部隊司令部では7日にツラギからの緊急通信を数通受けただけで、この日から8月15日までガダルカナル島守備隊と連絡が全く取れなかった。そのため、それまでガダルカナル島の陸上の状況は、上空からの偵察か潜水艦からの視認のみに頼ることとなった。ラバウルの司令部が現地と連絡が取れていれば、斥候隊の組織を指示して、丘陵などから米軍の規模や装備、士気などを探れたかもしれない。
    また、ラバウルの第11航空艦隊司令部は、血眼になって米軍の機動部隊を探していたが位置をつかめなかった。ところが、ガダルカナル島南端のハンター岬の見張所は、上陸日の7日早朝に米軍の機動部隊が東進していることを視認していた。しかしながら、この見張所の無線はガダルカナル島守備隊までしか届かず、同守備隊は無線機を持たずに撤退したため、見張所はどことも連絡が取れなかった。12日に潜水艦「呂33」がハンター岬の見張所と接触するまで、7日の米軍機動部隊に関する情報は、わからなかった。
  2. トラック35台などの輸送手段が米軍に捕獲(鹵獲)された。資材が十分に揚陸できなかった米軍にとって、これは飛行場整備に大きく貢献した。一方で、日本軍はその後輸送船から苦労して物資を海岸に揚陸した際に、内陸への速やかな移送ができなかったため、海岸に積まれたまま空襲などで焼かれる原因の一つとなった。
  3. トラックと同様に、燃料や弾薬、機材を破却する時間がなく、それらがそのまま放置された。これらは米軍に捕獲されて利用された。特にドラム缶400本の燃料(ガソリン)は、当初補給がままならなかった米軍にとって、飛行場整備や航空機活動のための燃料として重用された。食料も持ち出す余裕がなく、大量の食料が倉庫に残された。この食料はその後日本軍を飢餓に導く一因となっただけでなく、物資の揚陸が不十分で食糧不足に陥った米軍にとって、大きな助けとなった。

前日に米軍の上陸がわかっていたら、日本軍の守備隊と設営隊は必要な物資を移送し、不必要なものは破壊措置を講じて、整然と退却できていたかもしれない。上陸時に十分な資材を揚陸できなかった米軍は、しばらくの間、日本軍が残した食糧を食べて、日本軍の燃料を使って飛行場整備を行っていた。日本軍が何も残さず西方に撤退していれば、上陸した米軍は資材不足と食糧不足で窮地に陥っていたかもしれない。

3-1-3    日本軍の通信諜報

通信解析によって大本営海軍部は、7月2日サンディエゴを出港した米輸送船団(全37隻)と7月14日米西岸を出港した輸送船団が、8月上旬豪州東方海域に到着するとの情報を得ていた。結果としてこれはかなり正しいものだった。通信量の増大とその宛先が南東太平洋軍司令長官を含んでいることから、大本営海軍部は、8月4日に各艦隊に対して南太平洋に「有力部隊の出現を思わしめるものがある」と警報を発した [4](宛先に根拠地隊、つまりガダルカナル島守備隊が含まれていたかは不明)。しかし、その目的は東部ニューギニア方面の防備を強化するためと見ていた。そのためなんの対応も取られなかった。ラバウルにある外南洋部隊司令部を含めて、米軍の反攻は従来どおり1943年以降であろうという推測は全く揺らいでいなかった [4]。

3-2    米軍の上陸

 

3-2-1    ツラギ島など

連合国軍は、ガダルカナルを攻撃するXグループ(Xray)とツラギを攻撃するYグループ(Yoke)に分かれて、8月7日朝にツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島、ガダルカナル島などに上陸した。8月7日の上陸当日のガダルカナル島付近の天候は、前日と異なり晴れとなった。この米軍の上陸は、日本軍にとっては全くの奇襲となった。

ツラギ・ガダルカナル島上陸航路図
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ツラギを攻撃する襲撃大隊は、空爆や砲撃の後に、0800時にツラギ島の西部に上陸しようとした。しかし、あやふやと思われた古い地図の通りに西部は珊瑚礁に囲まれており、上陸用舟艇は海岸から30m~100m手前で珊瑚礁に乗り上げて、1隻も海岸に到達できなかった。襲撃大隊は、そこから腰から脇の下までの深さの水をかき分けながら、珊瑚礁で手を血まみれにしながら歩いて上陸した。その後、第5海兵隊がそれに続いた。

しかし、日本軍も舟艇が乗り入れにくい珊瑚礁から上陸してくるとは思っていなかったようで、そこに防御施設はなかった。日本軍による抵抗はほとんどなく、戦闘による死傷者はなかったが、舟艇の中で不慮の放電により1名が感電死した [10]。日本軍が厳重に守っておれば、後のタラワ島での上陸のように、海岸に到達する前に多くの兵士がなぎ倒されたと思われる。続いて第5海兵隊の第2中隊が無抵抗で上陸した。

ツラギ島への侵攻図
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ツラギ島南東部には日本軍の第84警備隊がいた。上陸した米軍部隊は、島の南東端に近づくと、塹壕や洞窟から反撃を受けた。結局、上陸部隊はその日はその場所で野営した。日本軍による夜襲は設置された聴音機で察知され、日本軍の一部は米軍の中隊を分断する所まで進んだものの、撃退されて全て失敗した。翌日1500時頃までには、米軍は手榴弾と爆薬で洞窟を破壊し、迫撃砲の集中砲火により島全体を制圧した。日本側は約200名が戦死し、捕虜は3名だった。残りの約40名の日本兵は泳いでフロリダ島へ逃れた [9]。フロリダ島には日本海軍の監視所が2か所あったが、後に米軍によって掃討された。アメリカ側の損害は戦死36名。負傷54名だった [9]。

ツラギ島の東3 kmにあるガブツ島とタナンボゴ島は小さな双子島で、砂州でつながっている。ここには横浜航空隊(水上機)の基地があった。航空隊司令官の宮崎重敏大佐は、7日朝「敵兵力大、最後ノ一兵迄守ル、武運長久ヲ祈ル」という電文を送った後、通信を断った。


1942年8月7-8日頃、トゥラギ上陸作戦中の輸送船と駆逐艦。USSシカゴ(CA-29)から撮影。
Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.


空挺部隊が上陸したガブツ島とタナンボゴ島では激しい戦闘が行われた。空挺部隊はガブツ島に、それぞれに150名程度が乗った舟艇で3波に分けて上陸した [14]。ガブツ島北西側から回り込んだ上陸用舟艇は、カブツ島北で砂州でつながったタナンボゴ島の丘の砲台から砲撃に曝された。上陸部隊長が要請したタナンボゴ島の丘への空爆と砲撃によって砲台は沈黙したが、一部の上陸用舟艇はガブツ島からも激しい射撃を受けた。

ガブツ島などへの侵攻図
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1942年8月7日、タナンボゴ島の日本軍の施設の火災。左にガブツ島が見える。Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.80-G-19223


上陸予定場所の水上機基地は、海上からの援護砲撃でがれきと化していた。そのため空挺部隊はそこに上陸できず、兵士たちは銃撃をうけながらもその北側にあるコンクリートブロックの桟橋をよじ上って上陸した。第1波は無事に上陸は出来たが、第2波は上陸中に激しい射撃によって数名の海兵隊員が倒され、上陸用舟艇も1隻が沈没した。第3波も激しい抵抗の中で上陸し、十数名が死傷した [14]。

1942年8月7日、艦砲射撃と空母機による爆撃を受けるタナンボゴ島。左下に向かってガブツ島とつながる道が見える。前の写真より潮が引いていると思われる。U.S. Naval History and Heritage Command Photograph


多くの兵士が上陸地点で足止めを喰らった。その後、一部の部隊が迫撃砲で丘にあった日本軍の射撃陣地を潰したため、ようやく多くの部隊が動けるようになった [10]。夕方までにはガブツ島を制圧した。この戦闘でLVT(水陸両用トラクター)が、重要な役割を果たし始めた。8月8日の正午から翌日の夜まで、LVT 5台が、ガブツと輸送艦との間を往復した。LVTは、船から岸への移動の際には人員、物資、弾薬を運び、帰路では負傷者を救助して戻った。内陸で敵の砲撃で身動きがとれなくなった海兵隊に対して、LVTは簡易ながらも装甲で射撃をはね返しながら2挺の機関銃を使って日本軍の拠点を無力化し、負傷者を拾い上げて避難させた [10]。

機関銃を装備した水陸両用トラクター(LVT)
CMH_Pub_5-3-Guadalcanal- The First Offensive

タナンボゴ島には、夕方になって増援の部隊が闇夜に紛れて上陸しようとしたが、掩護射撃の砲弾が海岸の燃料タンクに命中して、逆に上陸用舟艇を明るく照らし出した。30名が2隻の上陸用舟艇で上陸に成功したものの、残りは上陸用舟艇とともに撤退した。

襲撃大隊は22%、空挺部隊は50-60%の死傷者を出したため、上陸艦隊司令官ターナーは予備の第2海兵隊第2大隊を投入することを決意した [14]。それらの部隊は待機していたガダルカナル島沖からツラギ地域に輸送されて、翌8日朝早くに投入された。

タナンボゴ島には2両の戦車も投入され攻撃に使われたが、1台はキャタピラに鉄の棒を差し込まれて走行不能にされ、油をしみこませた雑巾で火を付けられた [10]。米軍はタナンボゴに橋頭堡を築き、機関銃小隊が上陸して8日1500時にようやく制圧した。

米軍の損害は戦死または行方不明108名、負傷140名だった [9]。ツラギ島周辺では、5月の占領から時間が経って防衛施設が整備されており、また島が狭いため日本軍の兵力密度が比較的高く、激戦になったと思われる。

3-2-2    ガダルカナル島

Xグループの米軍は、まず沿岸に対して艦砲射撃を行った。爆弾がヤシの木を砕き、鋼鉄の破片が大地を激しく切り裂いた。それによってククムに架設されていた波止場は瓦礫と化し、弾薬集積所が大爆発を起こした。それから地上支援の艦載機が機銃掃射を開始した。日本軍の各施設は炎上した。

 

1942年8月7日、ガダルカナルとツラギ上陸作戦で空母「ワスプ(CV-7)」から離陸する準備をするグラマンF4F-4ワイルドキャット戦闘機。https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-10000/80-G-14053.html

ガダルカナル島の上陸部隊は、ツラギへの上陸開始の約1時間半後、0913頃に日本軍正面のルンガ岬を避けて、東のコリ岬とルンガ岬の間で上陸を行った。海上は凪いでおり、輸送艦から上陸用舟艇への海兵隊員の移動は円滑に行われた。彼らは上陸海岸で血みどろの戦いを覚悟するよう警告されていたが、上陸の際に反撃はまったくなかった。

ツラギ・ガダルカナル島上陸航路図(再)

一部の部隊は、島の奥へ進軍したが、部隊の中には輸送船の中の蒸し風呂のような船倉に2週間も閉じこめられていたため、体調を崩している兵士たちもいた。彼らは、重すぎる荷物と余分な弾薬を背負わされ、暑さと蒸し暑さにやられた者も多かった。水も塩錠剤も不足していた。

日本軍宿営地まで進軍した米軍は、3-6-1節に記すように大量の食料、弾薬、装備を完全な状態で発見し、多くの土木資材、電気機器、無線機器を無傷のまま捕獲した。米軍は、波止場、橋、機械工場、大規模な無線施設、製氷所、2つの大規模発電所、空気圧縮機工場などの施設を、ほとんど無傷で手に入れた [10]。


1942年8月7日、上陸初日のガダルカナル侵攻ビーチ沖の水陸両用輸送船と上陸用舟艇Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.


1942年8月7日、ガダルカナル侵攻の初日、LCM上陸用舟艇に移し替えるために吊り上げられたM2A4スチュアート軽戦車。輸送船はUSSアルチバ(AK-23)。Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.

ガダルカナル島のビーチに向かって移動する米海兵隊の水陸両方トラクタ(LVT)。この写真は1942年8月7日から9日にかけてのガダルカナル上陸作戦中に撮影されたものと思われる。背景の輸送艦はプレジデント・ヘイズ (AP-39) 。NH 97749

 

1942年8月7-9日頃のガダルカナル島海岸での上陸用舟艇。NH 97760


海岸での米軍の上陸はまるで訓練のように整然と行われた。しかしそれは部隊だけだった。輸送艦からの物資の揚陸の際に深刻な問題に直面した。物資が海岸に届くようになると、それは空いている海岸に雑然と未整理のまま海岸にうずたかく積み上げられた。物資を内陸に運び込む人員がいなかったため、そのうちに揚陸できる砂浜がなくなり、物資を載せたまま海上で待機する上陸用舟艇も出てきた [15]。

ガダルカナル島上陸時の海岸の混雑
Official U.S. Navy, The Landing in the Solomons


揚陸した後の物資の輸送役割の分担がなされていなかったため、上陸した兵士の一部は、海岸に積み上がる物資を横目にぶらぶらしていた。浜辺で椰子の実を割ったり、海岸で泳いだりする者もいた [15]。しかし、まだ日本軍の反撃があるかもしれず、戦闘員を荷役に割り当てることは出来なかった(海兵隊の一部の部隊は、上陸後に予め想定されていた戦域へ向かった [10])。

また、上陸用舟艇(LCP)の一部には、前方が倒れるランプ(道板)がなく [9]、物資を海岸に揚げる際に、舷側から持ち上げなければならなかった。荷役のための人員が全く足らず、陸上での物資運搬のために、別途輸送艦から船員(水兵)が派遣された [9]。7日の日本軍機による爆撃も、船の退避のために荷揚げを遅らせた。ただ米軍にとって幸いなことに、海岸に裸で集積された物資は、日本機による攻撃を受けなかった。

ガダルカナル作戦で使用された旧式の上陸用舟艇(LCP)には、艦首が固定されたものもあった。ガダルカナル島上陸時に、LCPから舷側を越えて物資を手降ろしている状況。 [9]より


一般に上陸作戦では、コンバットローディングされていても、狭い船倉に積み込まれた多種多様な物資を上陸用舟艇に積み換えて、海上を運搬して海岸から陸揚げした後に仕分けして、必要な物を必要な場所に届けなければならない。これらを短時間で行わないと、物資不足で攻撃が失敗したり、敵からの攻撃で輸送が混乱したり、物資が失われたりすることになる。例えば1943年5月のアッツ島のマッカサル湾での上陸でも似たような混乱が起こった(「アリューシャンでの戦いの 7. 連合国軍のアッツ島上陸」参照)。そこでは、日本軍の航空攻撃は上陸から10日以上経ってからだったにもかかわらず、上陸時の海岸は当面必要のない対空兵器の揚陸で混雑し、前線で戦っていた兵士たちが直ちに必要としている食糧や弾薬の揚陸が、一時停滞したりした。

7日の夜遅くになると物資の揚陸は完全に破綻した。100隻の上陸用舟艇が荷を積んだまま海岸で荷揚げできなくなり、さらに50隻が沖合で接岸を待っていた [10]。2330時に、海岸が多少整理される翌日1000時まで揚陸を中止することが決まった [9]。しかし、翌8日も日本軍機の空襲による退避のため、陸揚げは遅れた。結局後述するように、物資の揚陸は完了しないうちに輸送艦は退去することとなった。つまり、同夜に起こった第一次ソロモン海戦の前に、9日の輸送艦の撤退は決まっていた。

8月9日までにガダルカナル島には10900名、ツラギには6075名の兵士が上陸した。海岸での混乱と早期の輸送艦の退避のため、揚陸できたのは60日分の予定の物資のうちの25日分と、弾薬10単位のうちの4単位、特殊武器、戦車の一部だけだった(後述するように、舟艇不足と早期出航のために船倉に待機したまま上陸できなかった部隊もあった)[4]。

7日から9日にかけて日本軍は航空攻撃を行ったが、目標は艦船であり、海岸に積まれた物資を攻撃しなかった。ラバウルからの距離が遠くて攻撃回数が制限されたので、艦船を優先的に目標にしたのだろう。9日の航空攻撃時には米軍空母は撤退して迎撃はなかったにもかかわらず、後述するようにこの日は輸送船ではなく、損傷して退避中の駆逐艦を攻撃した。10日の攻撃隊は、(全機雷装だったためか)艦船を見なかったために、攻撃せずに引き返している。しかし、やろうと思えば別途少数機での海岸の物資を狙った爆撃は可能だっただろう。

アリューシャンでの戦いの3. アリューシャン作戦(AL作戦)」で述べたように、同年の6月に日本軍がキスカ島に上陸した際には、米軍は直ちに総力を上げて、アラスカからキスカ島への爆撃を何度も行っただけでなく、水上機母艦をアダック島に数日間にわたって配置して、飛行艇による爆撃を繰り返し実施した。上陸時の脆弱な時期に部隊を叩く、という原則を米軍は忠実に実行したが、日本軍の攻撃は艦船の爆撃や雷撃だけが目的であり、陸上部隊や物資を爆撃するという考えは希薄だったようである。

3-2-3    守備隊などの対応

ガダルカナル島の日本軍守備隊と設営隊は、米軍の上陸を全く予期しておらず、当日朝の突然の砲撃と爆撃によって、初めて敵襲を知った。第11設営隊は上陸地点にやや近いところにいたため、激しい砲撃で部隊は混乱した。1000名以上の設営隊員はバラバラととなり、多くはジャングルに逃げ込んだ。彼らの多くは長期間にわたってジャングル内を彷徨ったようである。また、捕虜となった者もいた。

第13設営隊の方は先日の空襲を受けて防空壕を作っており、そこに避難したため、砲爆撃による被害は比較的少なく、砲撃が終わった後、守備隊とともに西方へ急いで退却した。しかし、突然の敵の上陸に退却するのが精一杯で、機器や食糧の運び出しや設備の破壊はできなかった。

ガダルカナル島守備隊は、本部からは海岸は見えなかったが、大規模な砲・爆撃から敵の兵力が相当大きいことを知った。そして斥候の報告から、敵が上陸部隊を伴っていることがわかった。守備隊は飛行場西部で上陸部隊への反撃を企図したが、密林に迷って配置に付けなかった。そのため、西方のマタニカウ川西岸まで退却し、本部と防衛陣地の構築を開始した [4, p499]。 

米軍上陸時の日本軍守備隊などの退避図
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3-2-4    外南洋部隊の反応

ラバウルの外南洋部隊は、8月7日早朝のツラギ島守備隊と横浜航空隊からの緊急通信によって、米軍の上陸を知った。しかし、日本海軍の外南洋部隊は、米軍のこの上陸を強行偵察程度と判断し、またツラギの司令部が敵兵力を誤認しているのではないかと思っていた [4, p441]。外南洋部隊は、これを連合国軍による本格的反攻作戦の第一歩とは捉えなかった。連合国軍の本格反攻は1943年後半という思い込みは根強いものがあった。

ラバウルの外南洋部隊司令部では、重巡洋艦「鳥海」以下の主要鑑艇をもって速やかにソロモン諸島方面に出撃し、敵兵力の撃滅を決意したため、8日夜半から第一次ソロモン海戦が起こることとなる(この詳細については多数の本があるため、ここでは触れない)。

南太平洋ではいくつかの潜水隊の潜水艦が活動していたが、この頃はオーストラリアやニューカレドニアからの帰投時で、ガダルカナル島へは向かえなかった。ただ第13潜水隊の潜水艦「伊121」、潜水艦「伊122」がラバウルにあり、第21潜水隊の潜水艦「呂33」、潜水艦「呂34」がニューギニアで活動していた。外南洋部隊は、これらの潜水艦に対してすみやかにツラギ方面に進出し、敵艦艇を攻撃するよう命令した。しかし、これらが到着した時には、ガダルカナル島方面の輸送艦は退去した後で、艦船を発見しなかった [4, p493]。

また外南洋部隊では、ラバウルにあった海軍陸戦隊など519名による増援隊を編成し、輸送船「明陽丸」と「宗谷」(後の南極観測船)に分乗させて護衛を付けてガダルカナル島へ出発させた。その後、ガダルカナル島の敵兵力が大きいことを知り、外南洋部隊司令部はラバウルへの帰投を指示した。しかし「明陽丸」は、帰投中の翌8日にアメリカの潜水艦S-38に雷撃されて沈没し、兵士など373名が海没した [26]。「宗谷」は無事にラバウルに戻った。しかしながら、守備隊と連絡がとれないため、島のどこへ行けば良いのかがわからなかった面もあったと思われる。第25航戦(第5襲撃部隊)の航空機による対応については後述する。

外南洋部隊司令部では、島の状況について上空からの偵察(12日)と潜水艦による目視偵察(12日:「呂33」、13日:「伊123」(砲撃):13日:「伊122」)を行った。潜水艦からは敵が大兵力で砲兵陣地を構築中であること、水陸両用戦車があること、敵からの反撃は迅速であることが報告されていたが、この報告は重視されなかった [4, p513]。第8艦隊は、ガダルカナル島守備隊との連絡をとるため、16日に駆逐艦「追風」で、横5特の中隊(113名)と機材・食糧を西方のタサファロングへ輸送した。これによって、17日にガダルカナル島守備隊とラバウルとの間の通信が復活した(同守備隊とショートランド間は、見張所の通信機を持ってきて16日に通信が可能となっていた) [7, p302]。

3-2-5    連合艦隊と海軍軍令部の反応

連合艦隊司令部と海軍軍令部では、米軍の上陸を本格的な反攻と見なした。そして、これは敵機動部隊を艦隊決戦で捕捉撃滅する好機であると判断した [4, p446]。主目標は、あくまで敵機動部隊の撃滅だった。そのため、計画していたインド洋方面の通商破壊戦を中止し、連合艦隊司令部をトラック島へ進出させた。また8月8日に、外南洋部隊および内南洋部隊を合わせた軍隊区分として「南東方面部隊」を編成し、その司令長官に第11航空艦隊司令塚原二四三を任命した。そして、その司令部は11航艦司令部があったテニアンからラバウルに進出した。

南東太平洋方面日本軍構成図(8月8日時点)(再)


なお、8月7日時点のラバウルの第5空襲部隊(第25航戦)の航空兵力は以下の通りだった。

  • ラバウル西飛行場:陸攻32(四空)
  • ラバウル東飛行場:零戦24、陸偵2(台南空)、零戦(二号)15、艦爆16(二空)
  • ラバウル水上:97大艇2(横浜空)、2式大艇2(十四空)
  • ツラギ水上:97大艇7、水戦9(横浜空)

上記の航空戦力のほとんどは、当初ニューギニアでの作戦を想定したものだった。そして陸軍川口支隊のガダルカナル島への上陸を支援するために、南東方面部隊は第26航戦の司令部と戦闘機隊(六空)をラバウルに、そして陸攻隊(木更津空と三澤空)をカビエンに進出させることで、これらは8月21日に「第6空襲部隊」となる。

3-2-6    陸軍第17軍の反応

一方、ラバウルにあった陸軍の第17軍は、ニューギニア方面の作戦を展開しようと準備していたが、海軍の飛行場がガダルカナル島に近く概成することを知らなかった。これは第8艦隊司令部が同じラバウルにいる陸軍第17軍に伝えていなかったことにも問題がある(第8艦隊司令部と第17軍司令部は約1km離れていた)。第17軍作戦主任参謀の松本中佐はガダルカナル島のことを聞いていたが、肝心の二見軍参謀長は全く知らなかった [7, p255]。第8艦隊と第17軍司令部は、ニューギニア作戦では緊密に連携していたが、海軍はガダルカナル島については陸軍の作戦には関係ない、と判断していたのかもしれない。


第17軍司令官 百武晴吉。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lieutenant_General_Harukichi_Hyakutake_in_front_of_HQ_Rabaul.jpg


第17軍の任務は、海軍と協力してのポートモレスビーの攻略だった。そのため7月28日に「東部ニューギニア作戦に関する陸海軍中央協定」を結んでいた。上記中央協定には「陸軍はソロモン群島要地の防衛に関し海軍を援助す」という一項目があった [7, p256]。しかし、第17軍は、どこにあるかわからないガダルカナル島より、ニューギニア作戦で頭がいっぱいだったかもしれない。その証拠に、第17軍はしばらくガダルカナル島を含めてツラギと総称していた。

海軍はガダルカナル島沖の米軍輸送船が20隻以上いることを知って、陸軍に派兵の協力を要請した。第17軍では、ガダルカナル島の米軍への対処が検討された。慎重派の二見軍参謀長は、輸送船の数から米軍の兵力を1個師団程度と見積もったが、松本作戦主任参謀は1個連隊程度と感じたと述べている [7, p257]。既にニューギニアでは戦闘が始まっており、第17軍ではガダルカナル島よりニューギニアへの支援を優先することを決定した。

ちょうどラバウルにはニューギニア作戦用に南海支隊など(歩兵第144連隊と歩兵第41連隊)がいたが、第17軍はこれを予定通りニューギニアへ派遣することにし、ガダルカナル島方面に転用しようとはしなかった。そして、新たに船舶を手配してパラオにある第35旅団を輸送してガダルカナル島の攻撃へ充てることにした。これが後の川口支隊となる。また、さすがにこれでは間に合わないと思ったのか、トラック島にあった一木支隊もガダルカナル島へ派兵することにした。

3-2-7    大本営陸軍部の反応

大本営陸軍部では、ガダルカナル島に海軍が飛行場を建設中であることを、一部の参謀だけが知っていた。大本営陸軍部の関心は、あくまで中国大陸の重慶攻略作戦(51号作戦)であり、その準備に忙殺されていた。陸軍部は、はるか南東太平洋のガダルカナル島への米軍上陸を聞いて、海軍軍令部と協議した結果、東部ニューギニア攻略作戦は予定どおり実施しながら、ガダルカナル島およびツラギを奪回することを決定した [4, p449]。そして8月13日に大本営で陸海軍中央協定を結び、既定計画に基づきモレスビーを攻略しながらソロモン諸島を奪回する方針を決定した。第9章で述べるように、ガダルカナル島奪回は、8月30日までニューギニア作戦の支作戦だった。米軍がガダルカナル島に足がかりを築こうとしている脆弱で重要な約1か月間に、日本軍が行った攻撃は中途半端となり、徹底的な反撃とはならなかった。

3-3    日本軍航空機による反撃

 

3-3-1    8月7日の攻撃

米軍が上陸した当日、第25航戦は、ラバウルからラビ攻撃予定だった零戦17機と一式陸上攻撃機27機を、0753時に爆装のまま急遽ガダルカナル島に向けて出撃させた。これは魚雷への転換時に爆撃を受けることを避けるためだった。確かに1040時に3機のB-17がラバウルに襲来して爆撃を行った [7, p238]。

また0850時に今度は99式艦上爆撃機9機が護衛機無しで発進した。艦爆は航続距離の関係上片道攻撃とし、燃料がもてばブーゲンビル島北端のブカ島滑走路に不時着(ガダルカナル島まで飛べば、ブカ島にたどり着くことは事実上不可能)、やむを得なければショートランド島付近海上に着水を想定していた。99式艦上爆撃機は固定脚なので、脚を出したままの不時着水は決死の覚悟であったろう。艦爆搭乗員救助のためにその付近に駆逐艦「追風」が派遣された [4, p443]。

ラバウルからガダルカナル島までのソロモン諸島付近の図
(図はクリックすると拡大します。Escキーで戻ります)


艦爆隊に護衛がつかなかったのには、2号零戦(零戦32型)の問題がある。この頃、機種改変のために改良型の2号零戦がラバウルにまとまった数配備されていた。ところが、馬力をはじめとした諸性能は向上していたのに、航続距離はそれまでの1号零戦(零戦21型)より短くなっていた。そのため、ラバウルには2号零戦20機があったにも関わらず、ガダルカナル島までの護衛には使えなかった。

なお、ブカ島の滑走路は特に整備を行っていたわけではなく、豪軍が残した小型機用の滑走路を急遽使用することにしたものである。そのために、駆逐艦「秋風」に設営隊員、整備員、燃料などを搭載して急いでブカ島に派遣した [7, p239]。陸攻を護衛した零戦も帰りに5機がブカ島に不時着している。

目標は敵空母だったが、発見できない場合は敵艦船とされた。ソロモン諸島は英連邦領であるため、連合国軍に地の利があった。前述した沿岸監視員によって、ラバウルから出撃した攻撃隊は、0845時にブーゲンビル島上空で把握された。日本軍機がラバウルから出撃したことは、ポートモレスビーとタウズビル経由で、真珠湾の太平洋軍司令部へ転送され、30分後には機動部隊に伝えられた [8]。

日本軍機がガダルカナル島に近づく時刻になると、船団は回避のための散開を始めた。重巡「シカゴ」のレーダーは10分前に約70km手前で日本機の接近を捕らえた [14]。また、地上支援のために散らばって活動していた艦上機(F4F戦闘機とSBDドーントレス急降下爆撃機)は無線で呼び戻されて、迎撃のために上陸艦隊上空に集められた。しかし、雲が邪魔して艦上機からは日本軍攻撃機が見えなかった。米軍艦上機は、巡洋艦「シカゴ」のレーダーによる指示に従って、日本軍機の位置に無線で誘導された [14]。

日本軍機はガダルカナル島上空でアメリカ機動部隊の艦上機62機の迎撃を受けた。日本軍の陸攻は、1020時にツラギ沖で巡洋艦を高高度から爆撃したが戦果はなく、陸上攻撃機5機、零式戦闘機2機を失った [4, p452]。しかし零戦の健闘により、米軍も戦闘機を11機、急降下爆撃機1機を失った [14]。

8月7日の輸送船団に対する航空攻撃の様子。輸送船の船尾に至近弾が爆発している。被害は軽微だった。揚陸を優先したのか、輸送船は動いているようには見えない。白波を立てているのは米軍の上陸用舟艇。 [9]より。


遅れて出撃した9機の艦上爆撃機は、雲によるものか飛行経路によるものかわからないが、沿岸監視員に把握されなかった [14]。沿岸監視員に把握されていれば、戦闘機による待ち伏せによって艦爆隊は全滅していたかもしれない。艦爆隊は1300時頃に到着し、駆逐艦「マグフォード」に爆弾を命中させてこれを大破した [14]。しかし低空まで降下する艦爆隊の被害は大きく、自爆2機、未帰還4機、大破3機となった [27]。この結果から、ショートランド島付近まで帰り着いて着水したのは3機と思われる。これらの日本軍機の攻撃は、米軍の揚陸作業に若干の遅延をもたらした。

なお、ラバウルからは0945時に偵察のために陸攻が1機発進し、それによって米軍の輸送船が、ツラギ沖に13隻、ガダルカナル島沖に17隻いることが確認された [7, p240]。これは上陸した米軍が師団規模であることを推定するのに重要な情報だった。しかし、2日後にこれらの輸送船団は撤退したこともあって、上陸した米軍兵力を過小評価することになる。

3-3-2    8月8日の攻撃

日本軍は、8月8日は5機の哨戒機を出して、ガダルカナル島南方と西方に敵機動部隊を索敵したが、見つけることは出来なかった。しかし、実は米軍の機動部隊はガダルカナル島の南西にいた。この付近は天候が悪く、視程がよくなかった。前述したように、ガダルカナル島南端のハンター岬見張所は、8月7日早朝に敵機動部隊が西から南に向けて航行しているのを発見していた。

この日、ラバウルからは上陸部隊艦船を目標として、陸攻29機(雷装)が零戦の護衛で出撃した [4, p457]。ガダルカナル島付近の米軍輸送船団は、沿岸監視員からの連絡で日本機の襲来を約80分前に知った [14, p67]。日本軍機が近づく時刻になると、船団司令のターナーの指示に従って、輸送船と護衛の艦船は沖に出た。そして1.5km間隔で4列の船団を組み、船団司令からの統一した指示によって13ノットで回避行動をとった [14]。米軍は珊瑚海海戦の教訓から、船団がバラバラに回避すると被害が増大することを学んでおり、輸送船団は護衛艦艇に護られた隊形を整えて、船団司令の指示に基づいて統一的に回避運動を行った。

米軍は前日のように高高度からの爆撃を予想したようである。しかし、零戦が米軍の戦闘機を高空に引きつけている間に、陸攻はフロリダ島の東側の山々を越えて、南西方向に向けて高度20 m以下の低高度でガダルカナル島沖の艦船に向かった。しかし、エンタープライズ隊のF4F戦闘機3機だけは、低高度で侵入する攻撃機に気づき、5000 mの高度から急降下して4機の陸攻を撃墜した[61]。陸攻に対する戦闘機の迎撃はこれだけだったようである。

北から進入した陸攻隊は、フロリダ島を越えて編隊を整えてから、南のガダルカナル島北岸に停止して揚陸しているはずの輸送船団への攻撃を想定していたのではなかろうか。ところが、陸攻隊がフロリダ島の山々を低空で越えると、目前の海で4列縦隊で高速で回避行動している輸送船団が突然目に入ったはずである。陸攻隊は目前に現れた船団に、編隊を整える間もなくそれぞれが低空で突っ込んでいったと思われる。北に向かっていた船団は、2回にわたって左30度の転回を行って、北東からの攻撃機を避けたとしている。米軍の報告書によると、日本機は攻撃時に、1列だった編隊が崩れてばらばらになったと報告している [14, p68]。

船団が攻撃隊を視認してから最後の攻撃機が去ってしまうまでの約10分間に、船団を組んだ50隻を超える艦船が、低空の攻撃機に対空砲火を集中させた [14, p68]。陸攻隊は29機中18機未帰還という大損害を受けた(零戦も1機未帰還) [4]。低空で撃墜されたためか、海上に浮いていた機体が相当数あったようである。米軍は13名の日本人搭乗員を救助したが、1名は死亡していた。それ以外にも沈みかけた機体にしがみついて拳銃で抵抗していたグループがいたが、最後は自決した [14, p71]。 

低空で攻撃する1式陸上攻撃機(中央を右に向かっている)
NH 97746 Guadalcanal-Tulagi Operation, August 1942; 

米海軍艦船の対空砲火の中を低空飛行する3機の1式陸上攻撃機
80-G-17066 Guadalcanal-Tulagi Operation, August 1942;


戦果としては、駆逐艦「ジャービス」に魚雷を命中させて大破させたのと、損傷した陸攻1機が輸送艦「ジョージ・エリオット」の甲板に突っ込んで、ガソリンによる火災を発生させた[61]。この炎上した輸送艦は、処分のために駆逐艦「ハル」によって雷撃されたが、すぐには沈まなかった。同船は、同日夜の第一次ソロモン海戦において、日本軍にとって灯台のような役割を果たすことになる。もう1機も巡洋艦「ヴィンセンス」の艦尾に体当たりを企図したが、成功しなかった。結局、魚雷で損害を被ったのは駆逐艦1隻だけだった。

日本軍の魚雷攻撃直後の光景。輸送艦ジョージエリオット(AP-13)が左中央で燃えている。他の2つの煙は海に墜落した攻撃機によるもの。Naval History and Heritage Command Photograph NH 69114

これは重要な戦訓を含んでいたと思われる。日本海軍が艦隊決戦のための漸減作戦として、基地航空部隊による陸上攻撃機を整備した。そかしそれによる雷撃は、漸減作戦にはほとんど寄与しないということを示している。この時、迎撃の米軍戦闘機の多くは上空の零戦に引きつけられていた。輸送船団は護衛艦付きではあったが、それほど速くない13ノット程度で航行していた。攻撃に不利な条件ではなかったにもかかわらず、29機の陸上攻撃機の攻撃で2隻の撃破に止まった上に、陸攻は大被害を受けた。また後述するように、翌9日の大破して単艦で航行していた駆逐艦「ジャービス」への陸攻16機での攻撃でも、2機自爆、1機不時着の被害を受けている。

仮に日本軍が想定したような艦隊決戦が起こったとしても、決戦前の米国艦隊に、陸攻だけで効果的な被害を与えるのは難しかったと思われる。確かにマレー沖海戦では戦艦2隻を撃沈したが、それは戦闘機の護衛がなかった上に、戦艦2隻と駆逐艦3隻だけで航行していた、という特殊な事例だったと見るべきなのだろう(もちろん、他にも様々な偶然要素が絡んでいるが)。

しかし、日本側はこの攻撃で、巡洋艦1隻撃沈、軽巡2隻大火災沈没確実、1隻傾斜大破、駆逐艦1隻轟沈、輸送船9隻撃沈、2隻大火災と報告している。輸送船9隻撃沈の根拠はよくわからないが(墜落した多数の陸攻の煙を見間違えた?)、それ以外は輸送艦「ジョージ・エリオット」と駆逐艦「ジャービス」の模様に関する複数の目撃を、全て合算したようである。これがその後の第一次ソロモン海戦の戦果と合わせて、敵艦船をほとんど撃滅したとして戦況の楽観的な見方となっていく。


黒煙を上げる輸送艦「ジョージ・エリオット」
NH 69118 Guadalcanal - Tulagi Operation;

輸送船団がガダルカナル島沖で停船して揚陸中のところを攻撃できていれば、もっと戦果が上がったと考えるのが自然だろう。停船して物資を揚陸している船が、揚陸を中止して効果的な回避運動を始めるまでには、少なくとも数十分はかかると思われる。もしブーゲンビル島の監視網がなければ、輸送船団は防空のための船団を組んで高速で回避する時間がなく、停船したままで相当な被害を被っていたかもしれない。米軍もこの監視網の存在を高く評価している。この監視網はこの後も密かに存在し続け、ラバウルからガダルカナル島へ向かう攻撃機を通報し続けた。

1942年8月8日、駆逐艦「エレット」から見たソロモン諸島トゥラギ沖に浮かぶ1式陸上攻撃機。https:/ww2db.com/image.php?image_id=70;

1942年8月8日、ツラギ島沖で連合軍上陸部隊艦船への魚雷攻撃中に撃墜された1式陸上攻撃機を見る駆逐艦「エレット」の乗組員たち。80-G-19205 Guadalcanal-Tulagi Operation, 7-9 August 1942;

3-3-3    8月9日と10日の攻撃

8月9日の早朝にラバウルを離陸した陸上偵察機(陸偵)は、ツラギ沖とガダルカナル沖と合わせて、巡洋艦と駆逐艦合わせて8隻、輸送船19隻がいることを報告した。一方で、別な陸攻はツラギの南西180kmに戦艦らしきものが1隻油を流して航行中と報告した。

零戦15機と陸攻16機(雷装)からなる攻撃隊は、後者の「戦艦らしきもの」と報告された方の船を攻撃するように命令され、この船を撃沈した。しかし、これは前日に攻撃を受けてよろよろと退避中の駆逐艦「ジャービス」だった [4, p460]。どうも豪州に向けて単独で退避しようとしたらしい。この攻撃の際に、陸攻隊は駆逐艦の対空砲火で2機が自爆し、1機が不時着した。陸攻隊は輸送艦の方を取り逃がした上に、大破した駆逐艦1隻を撃沈するのに大きな犠牲を払った。「ジャービス」の方も全員が行方不明となり、生存者はいなかった。

炎上するジョージ・F・エリオット(向こう)と損傷したジャービス(手前)。1942年8月8日。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9_(DD-393)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:USS_Jarvis_(DD-393)_and_USS_George_F._Elliott_(AP-13)_hit_off_Guadalcanal_1942.jpg


第5空襲部隊(第25航空戦隊)は、これら攻撃によって輸送船10隻を含む21隻を撃沈破したと報告した [7, p246]。第25航戦では、第一次ソロモン海戦の戦果報告と合わせて、敵艦船をほぼ一掃したと考えていた [4, p461]。8月9日早朝の陸偵の報告がなぜ無視されたのかは不明である。しかも、航空攻撃によって実際に撃沈したのは、駆逐艦と輸送船各1隻に過ぎなかった。

翌10日は陸攻21機が出撃したものの米軍輸送船団は撤退しており、ガダルカナル島付近には船を認めなかった(前述したように雷装のためか攻撃を行わなかった)。このため第25航戦は、翌日の航空攻撃をガダルカナル島ではなく、予定通りニューギニア東部のラビ攻撃へ振り向けた。

3-4    航空攻撃と第一次ソロモン海戦の影響

3-4-1    機動部隊の撤退

上述したように、米軍では物資の揚陸は進んでいなかった。しかも7、8両日の日本軍機による航空攻撃を受けて、空母3隻からなる機動部隊TF61は艦載機21機を失った。また3隻の空母は地上支援と迎撃で、1日で704回の艦載機発進と686回の着艦を行っていた [8, p88]。当然甲板上で事故も多発していた。

艦載機の運用のための乗員と機材は限界に達しており、フレッチャーは日本の陸上攻撃機の攻撃圏内で、機動部隊が活動することに神経質になっていた。また機動部隊の位置を知られて、日本軍の空母がこちらに向けて進撃している可能性もあった。そうなれば、攻撃機の護衛のための戦闘機に加えて、艦隊上空の防空の戦闘機も必要であり、これ以上戦闘機を失うことは危険だった。フレッチャーにとって、この状況が続けば空母決戦ができるのか疑問だった。

もともとこの作戦に積極的でなかったフレッチャーは、8日夜に機動部隊をガダルカナル島から退避させることを決意した。翌9日からはガダルカナル島上空の防衛にすっぽり穴が空く形になった。

3-4-2    米軍輸送艦の撤退

フレッチャーの機動部隊撤退の決定を受けて、8日夜に上陸艦隊司令官ターナーは、支援艦隊司令官クラッチレーと上陸部隊司令官バンデクリフトを乗艦である輸送艦「マコーリー」に呼び寄せた。ターナーは、機動部隊の撤退により効果的な防空手段を失うことになるため、翌9日朝0600時に上陸艦隊の艦船を撤退させることを伝えた [9]。これは、もともと減らして船に積みこんだ物資でさえ十分に揚陸できない、という悲劇的な結果を意味していた。

ところが、その会議の最中に起こった第一次ソロモン海戦により、連合国軍の上陸部隊の護衛艦隊は、重巡洋艦4隻(豪州海軍の「ピンセンス」、「キャンベラ」、米国海軍の「アストリア」、「クインシー」)が沈没、重巡洋艦「シカゴ」が大破、駆逐艦2隻(「ラルフ・タルポット」、「パターソン」)が損傷という大打撃を受けた。

連合国軍は、大破した重巡洋艦「キャンベラ」、「アストリア」の処分などのため、上陸部隊艦船は予定の9日0600時に出航できず、遅れて1500時に10隻の輸送船が出航し、残りの艦船も1830時にガダルカナル島沖から退去した [9]。

1942年8月9日午後、ガダルカナル-ツラギ地域から退去する上陸軍の艦船。重巡洋艦「シカゴ(CA-29)」から撮影された。輸送艦「クレセント シティ (AP-40)」が左に見える。「シカゴ」の右舷カタパルトにはカーチスSOCシーガル水上機が見える。https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-230000/80-G-231855.html


輸送艦の船倉には、揚陸物資の半分以上が残ったままだった [9]。また予備だった第2海兵隊の一部(司令部本部や作業班1390名)は上陸する余裕がなく、船内に残ったままエスピリッツ・サント島に連れて行かれた [9]。司令官アーサー大佐を含めて、彼らは10月末にようやくガダルカナル島に上陸することになる [22]。主な建設機材は、ブルドーザー1台を除いてガダルカナル島に揚陸できず、5インチ砲や火器管制レーダーも揚陸されなかった [4, p496]。ただ、揚陸された唯一1台のブルドーザーは、爆撃跡の埋め戻し、滑走路の整地、道路の整備、牽引などに大活躍した [10]。

一方で米軍は、母艦航空戦力による護衛の傘がなくなった上に、船団を護衛していた艦隊の大半を失った。引き揚げた日本艦隊が、上陸部隊を伴って再び海と空から攻めてくる恐れもあった。海と陸から挟み撃ちにされてはかなわない。上陸した兵士を再び船に撤収して部隊を含めて輸送船団を撤収する、という選択肢が米軍にあったかもしれない(兵士だけなら撤収は速い)。しかし海戦後も夜中に物資の揚陸を続けて、兵士を引き揚げることをしなかった。これは日本軍のガダルカナル島での抵抗がほとんどなかったため、上陸した部隊と物資だけで断固として戦う、という米軍の強い決意だったのかもしれない。逆に日本軍は、輸送船が撤収したのを見て米軍が撤退モードに入ったと憶測した。

ともかくもガダルカナル島の米軍兵士は、エスピリッツ・サント島から約1000km離れた孤島に不十分な物資のまま取り残された形になった。ガダルカナル島付近は日本軍の駆逐艦や潜水艦がうろうろしていた。頼みの綱は、飛行場を早く整備して制空権を確保することだった。そうしなれば輸送が途切れ、弾薬がなくなり、さらに飢えることは必定だった。飛行場がなければ、日本軍の大規模な攻勢を持ちこたえられないのは明白だった。逆に日本軍にとっては、まずは飛行場を使用不能にして兵士や武器弾薬を輸送できるかどうかが鍵となった。どちらがガダルカナル島の飛行場を確保するかが、日本軍と米軍の両軍にとって死命を制する競争となった。

3-4-3    第一次ソロモン海戦で輸送艦を攻撃しなかったことについて

第一次ソロモン海戦で、日本艦隊は護衛を失った連合国軍の輸送船団を攻撃しなかった。そのことはさまざまな書物で指摘されている。しかしこの海戦の前に、輸送艦は翌朝に撤退することが既に決まっていた。では第一次ソロモン海戦で輸送船団を攻撃していても効果がなかったか、というとそうではない。

確かに輸送船が被害を受けようが受けまいが、その時点ではガダルカナル島に揚陸された物資の量は、大きくは変わらなかったかもしれない。しかし、海戦後に輸送艦内の物資は海底ではなく船倉にあった。一度持ち帰ったとしても、機会があればまたすぐに持って来ることができる。しかし海底に沈められると、新たにアメリカ国内の各地から同じような物資を集めて港で梱包して、船に積載して数週間かけてウェリントンかヌーメアに輸送し、それからガダルカナル島へ輸送しなければならない。それには早くても1~2か月はかかっただろう。また、もし輸送艦が数多く沈められると、輸送艦不足に陥っていたかもしれない。この時期、後に大量生産されたリバティ型の輸送船はまだなく、連合国軍の輸送艦数は限られていた。

第一次ソロモン海戦で日本艦隊が輸送船団を攻撃しなかった理由について、さまざまな推測が取り沙汰されたが、司令官だった三川軍一は戦後も口を閉ざした。海戦直後に、どうするかについて艦橋で少しは議論があったようだが、彼は戦場離脱を優先した。丸裸になった輸送船団がそのまま揚陸を続けるはずがないという考えもあったかもしれない(事実米軍輸送船団は撤退した)。溺れる犬をも叩くという西洋の文化に対して、強さを見せつけた後はさっと退くという日本の文化的美徳もあったかもしれない。それは昔から武士だけが持っていたというよりは、日本人一般がそれを支持していたようにも見える。比較文化論に深入りするつもりはないが、三川はその時に多くの人が共有していた常識的な判断に従っただけ、と思っていたのかもしれない。

3-5    初期の日本軍の判断

 

3-5-1    南東方面部隊

ラバウルの第8艦隊は、第一次ソロモン海戦の結果として、重巡洋艦8隻、軽巡1隻、駆逐艦6隻を撃沈、撃破として軽巡1隻、駆逐艦2隻を報告した。しかし、8月9日の大本営の発表では、これまでの航空攻撃を含めると、戦艦1隻、甲巡4隻、巡洋艦4隻以上、輸送船10隻以上を撃沈、甲巡3隻、駆逐艦2隻以上、輸送艦1隻以上を撃破としている [4, p495]。その結果、日本側は敵の艦艇のほとんど全てを撃破したと考えていた [4, p461]。

8月10日の航空攻撃では、敵艦船は既にガダルカナル島から退去していて、敵艦船を発見できなかった。また潜水部隊も、ガダルカナル島方面に敵水上艦船を発見するすることができなかった。これも日本側の見方を強化した。南東方面部隊は、敵部隊の上陸を許したものの、第一次ソロモン海戦による圧勝と7日~9日の航空攻撃で、敵上陸艦隊を一掃したと判断した [4, p505]。これがその後の誤判断の元となった。

3-5-2    第17軍

第17軍司令部は、一木支隊の編入を受けて、12日から13日にかけて、ガダルカナル島についての状勢判断を行った。第17軍の百武軍司令官と二見参謀長は、ガダルカナル島の敵兵力は7000-8000名ではないかと考えており、そこへの一木支隊(全部で約2500名)の投入を疑問視していた。しかし、参謀の大多数は、敵兵力は大きくなく飛行場が整備される前に速やかに一木支隊を派遣すべきと主張した [7, p290]。二見参謀長は、第11航空艦隊参謀長と懇談した結果、参謀たちの意見に同調するようになり、最終的には一木支隊の派遣へと傾いていった。

第17軍では、ガダルカナル方面に対して、一木支隊(6-1節で説明する)、川口支隊(8-1節で説明する)に加えて横須賀第5特別陸戦隊の協力を仰いで、25日頃までに飛行場を奪還することを決定した。そして、ガダルカナル島奪回はさほど困難な作戦ではないと判断し、ニューギニア方面の作戦を再開した。陸軍はラバウルにあった南海支隊を出航させ、8月18日にバサブアに上陸させた。なお、海軍設営隊はブナの飛行場の建設を再開した(その後南海支隊はニューギニア山脈を徒歩で越えてポートモレスビーが望める場所まで進出したが、補給が途絶えて撤退し、米豪軍の反撃でほとんど全滅した)。

3-5-3    連合艦隊と大本営

連合艦隊司令部も、敵艦の全部と輸送船の半数を撃沈破して、大勢はおおむね決したものとみていた [4, p508]。大本営は敵兵力を1個師団の約15000名とみていたが、特に大本営陸軍部は、物資の揚陸時間が短かったので、敵は攻略に失敗して撤退したものと勝手に判断した。そして大本営陸軍部は、この勝利の間にソロモン諸島とニューギニアを迅速に攻略してしまうことを決めて、そのための部隊の手配を行った [4, p509]。

3-5-4    その後の状況と判断

海軍の南東方面部隊では、ガダルカナル島守備隊と連絡が取れず、島の敵情はわからなかった。連合艦隊司令部は偵察を指示した [4, p508]。それを受けて、11日に零戦6機によってガダルカナル島の低空での強硬偵察が行われた(陸攻はラビ攻撃を行った)。その結果、海岸に上陸用舟艇約50隻が活動中で、ルンガ川岬付近に物資が集積されていることがわかった(上陸地点付近の物資をルンガ岬へ移送していたと思われる)。これら物資への攻撃は行われなかった。

翌12日に今度は一式陸上攻撃機(陸攻)3機によって偵察が行われた(ついでに爆撃も行われた)。この偵察には第8根拠地隊主席参謀松永敬介中佐が搭乗して偵察を行った。その結果、「敵主力は既に撤退せるか、撤退しつつある感じなり」という報告を行い、その報告はそのまま上層部へ送られた。この報告によって大本営の見方は楽観的になった [4, p511]。

さらに6-2節で述べるように、ラバウルの各部隊は、16日にはソ連大使館からの情報として、大本営から米軍海兵隊はガダルカナル島からの脱出しようとしているという情報を受けた。また、通信が復活したガダルカナル島守備隊からの連絡から、同島の米軍は約2000名という情報を受けた [4, p520]。これらは一木支隊長に伝達さるとともに、日本軍全体が残敵掃討ムードとなった。このガダルカナル島の米軍に対する甘い判断が、その後の作戦に致命的な影響を与えていく。

ポートモレスビー攻略を主としガダルカナル島を従とする日本軍の方針は、連合国軍の反攻を完全に見誤っていた。地理上そこから攻めに出にくいポートモレスビーは、連合国軍にとって豪州を守るための前進基地に過ぎず、むしろ海上による輸送が便利なガダルカナル島を対日反攻の拠点にしようとしていた(11月になってようやくこのことを認識した大本営は、この地域を統括する第8方面軍を新設することになる)。

結局ガダルカナル島方面には、最初は一木支隊の一部(大隊規模)を投入し、次に川口支隊(連隊規模)を投入し、次に第2師団や第38師団を投入し、最後には方面軍を創設することになった。それらは戦力の逐次投入となり、全てが後手となった。たかが小火(ぼや)と甘く見ていた火災は、時間と共に大火災となった。

この問題を深掘りすると、陸軍と海軍のこの戦争に関する戦争観の違いとも関連している。陸軍は日本より西側を見ており、伊独と提携する作戦によってまず英国を屈服させたいと考えていた [5, p366]。そのため、陸軍は上記のように中国大陸で大規模な重慶作戦(51号作戦、後の5号作戦)を優先して計画しており、太平洋での作戦を最小限にしたかった(フィリピンを制圧した以上、それ以降の米国への対応は海軍に任せていたようにも見える)。一方で海軍(連合艦隊)は、島の奪還を陸軍に任せて、この機会を利用して米海軍の機動部隊を艦隊決戦によって痛撃して、早く講和に持って行きたいと考えていたようである。

3-5-5    米軍戦力の判断根拠への疑問

12日の一式陸上攻撃機(陸攻)を使った偵察は、米軍上陸後の唯一の直接的な情報となったが、いくつか疑問がある。

まず、この第11航艦の陸攻を用いた偵察に、どうして第8根拠地隊主席参謀だけが搭乗したのだろうか?敵輸送船の数などから、明らかに根拠地隊や特別陸戦隊だけの手に負える状況ではない。8日には南東方面部隊が編成され、陸軍第17軍も動き出そうとしている。それらの参謀がこの偵察飛行に加わってもおかしくなかったと思われる。

次に、戦史叢書に書かれている偵察結果は、搭乗者の感想だけである。偵察に写真撮影を行った、あるいは撮影した写真を元に分析した旨の記述はない。偵察に航空写真を使わなかったのだろうか?日本軍はそれまでの侵攻時に、航空写真をたびたび利用しているのに、ここだけそれを用いた記述がない。念のために偵察者を搭乗させることはあるかもしれないが、通常の偵察は航空写真を用いるのではなかろうか?もし陸攻にそういった装備がなければ、ラバウルには陸偵もあった。陸攻の窓から見えた範囲は極めて狭い限られたものだっただろうし(通常真下は見えない)、上がってきた偵察結果は個人による主観的な感想と思われる。

航空写真を撮って帰着後に各司令部で客観的に分析していれば、兵士数や物資の量、滑走路の整備状況、米軍の防衛線の状況などから、敵の規模や意図などの情報が得られたかもしれない。もしこの時に航空写真を撮らなかったとすれば、なぜこの重要な局面で航空写真を使わなかったのか謎である。

このため、敵兵力が正確にわからない状況下で、飛行場が整備される前に拙速に攻めるか、それとも十分な兵力を集めた上で一気に攻めるのか、の判断があいまいになった。その結果が、まずは一木支隊先遣隊(大隊規模)の派遣という形になったと思われる。また、飛行場が完成する前に占拠しなければならない、という観念的な理解は広く共有されていたと思うが、その後の経過を見ると、情報の取得を含めて飛行場確保の重大性の認識が十分ではなかったと思われる。

3-6    上陸以降の海兵隊の状況


3-6-1    上陸直後

海兵隊では、8月7日の朝にまず歩兵部隊と砲兵隊が上陸すると、部隊は2手に分かれて、昼前には前進を始めた。1隊は海岸沿いを西にククムまで進んだ。もう1隊は内陸を南西に進んで、テナル川に仮橋をかけて越えて、それから北西に進んで飛行場を目指した。しかし、地図や飲料水の不足から前進は遅かった。海岸沿いの部隊は翌日イル川を渡り、1500時にはククム郊外の丘にいた日本軍の小部隊を制圧した。一方内陸に進んだ部隊は、1600時にはルンガ岬内陸の飛行場を占拠した [9]。

日本軍の陣地跡には、様々なものが破壊されずに放置されていた。それらには宿営所、波止場、機械工場、無線施設、製氷工場、2基の発電所、魚雷用圧縮空気工場、格納庫、掩体壕、レーダー2基などの施設と、75mm砲、25mm対空機銃、37mm対戦車砲、機関銃、小銃などの武器、トラック(そのうち35台は使用可能だった)、ロードローラー、自動車、ホッパー車などの車、戦闘機隊の進駐に備えたガソリン、および米、乾パン、麺類、缶詰、酒類などの食料があった [9]。それらの一部は利用できたにもかかわらず、上陸時の艦砲射撃と海兵隊員によって、破壊されていたものもあった。

 

日本軍が遺棄したトラック。 [9]より

日本軍が遺棄した92式75mm大隊砲。 [9]より


ガダルカナル島で日本軍が遺棄したロードローラー。 [9]より

押収されたガダルカナル島の日本軍の製氷工場
https:/ww2db.com/image.php?image_id=26046;


米軍は、揚陸した食糧は20日分しかなかったが、日本軍が残した食糧でさらに10日間凌げそうだった。変わった捕獲物としては、椰子の木に登るためのスパイクや狙撃時のカムフラージュ用の蓑、サイレンがあった。サイレンは海兵隊へ向けた日本軍機の空襲警報に使われた。

また数多くの日記も手に入った。これは後に日本軍兵士の心理を分析するための貴重な資料となった [9]。(ちなみに、欧米の軍隊では情報漏れを避けるため、兵士が日記を付けることを禁止しているところが多かった。)

米軍は、上陸が終わると防衛線の構築工事を始めた。しかし、わずかな有刺鉄線を除いて、斧やのこぎり、シャベルなどの工具や土嚢は船に積まれたままニューカレドニアへ向かっていた。物資を十分に陸揚げできなかった米軍は、日本軍のシャベルを使って日本の米袋に砂を詰め、土嚢とした。

ガダルカナル島飛行場周辺の防御陣地を構築する海兵隊員たち。80-G-27194


日本軍による逆上陸に備えて、北側の海岸はイル川の河口からククムまでの約10kmにわたって砲台と防衛線が築かれた。右翼(東側)は海岸に向けて西に蛇行しているイル川の南岸に沿って、防衛線をやや内陸に配置した。防衛線には、機関銃や37mm砲が配置された。これは後の一木支隊の攻撃時に威力を発揮した。左翼(西側)はククムから内陸に入った南の丘まで防衛線が構築された。戦闘部隊に限らず、工兵隊、設営隊、水陸両用トラクター大隊などでも、小銃を持つ者は誰でも任務に就いた。

8月12日には、第3防衛大隊によって90mm砲4門からなる高射砲が設置された。しかし、レーダーと連動した自動射撃制御装置を装備していたのは1門だけで、残りは目視照準であるため命中精度は低かった [9]。それでも日本機の爆撃高度は高度7500m近くまで上がって爆撃精度は落ちた [15]。しかしながら、そのため逆に爆弾の散布範囲が広がり、逆に安全な場所が少なくなった。

ガダルカナル島の第3防衛大隊の90mmM2高射砲https://ww2db.com/image.php?image_id=18385


問題は南側だった。南側はジャングルと入り組んだ尾根で、視界が極端に制限された。南側全体に配備する兵力はなく、入り組んだ地形は部隊間の連絡を阻んだ。南側にはいくつかの拠点に工兵やトラクタ大隊が配置された。野戦75mm砲の砲兵陣地は内陸に設置されたが、いつでも海岸に移動できるようにされた。そのほかに各所に迫撃砲も配備された [9]。この配備は9月18日に増援の第7海兵連隊がガダルカナル島に到着するまでの基本となった。


ガダルカナル島でマタニカウ川沿いの日本軍を砲撃する米軍の野戦75mm砲。 [9]より

上陸後しばらくの米軍の防衛陣と野戦砲兵陣地の配置図
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3-6-2    12日夜のマタニカウ川西での戦闘

8月9日と10日に米軍斥候隊とマタニカウ川西岸に撤退したガダルカナル島守備隊との間に小規模な衝突があった。飛行場周辺に防衛線を張った米軍は、日本軍が撤退した西方の状況を確認しておく必要があり、斥候隊を出すことになった。斥候隊は日本軍守備隊の後ろのクルツ岬の西方に上陸用舟艇で上陸することになった。

ツラギ島などとガダルカナル島位置図(再)

その際に、日本軍の捕虜から日本軍の一部が投降したがっているという情報を得た。確かに第11設営隊員の多くがまだジャングル内を彷徨っていた。また、12日のパトロールから日本軍の白旗が見えたという報告があった(これは白旗ではなく日章旗だった可能性があるとされる) [10]。これらから、斥候隊は、「早めに出発して、クルツ岬のさらに西に海から上陸し、周囲を十分偵察してから野営する」という当初の計画を、時間を遅くして夜半に軍医や通訳を入れた少人数(25名)で出発することにした。米軍では、日本軍が少人数にわかれてジャングル内を彷徨っており、ほとんど抵抗はないと思ったようである(実際にガダルカナル島守備隊では設営隊約1000名との連絡がとれていなかった [7, p300])。

25名の斥候隊は、12日2200時頃にクルツ岬東に上陸用舟艇で上陸した。彼らは司令部からクルツ岬の東方とマタニカウ川の間には日本軍が布陣していると警告を受けていたにも関わらず、夜間で位置を間違えたのか日本軍が陣を敷いているクルツ岬の東方とマタニカウ川の間に上陸した [10]。

彼らは上陸後に日本軍による銃や機関銃の猛烈な射撃を受けて、3名を除いて全滅した。斥候隊が敵と遭遇したという知らせを受けて、2つの中隊が舟艇で救援に向かった。彼らは当初の予定通りクルツ岬の西に上陸し、それから東に向かった。軽微な抵抗を受けたものの、どちらの中隊も斥候隊の痕跡も見つけることが出来なかった。

応援に出た1隊は13日に舟艇で戻り、もう1隊は内陸に入って徒歩で14日に防衛線まで戻った [10]。これによって、マタニカウ川を越えた西の領域に、日本軍がそれなりに強力に布陣していることが確認された。この舟艇で日本軍の防備の手薄な地域に海上から上陸するという米軍のやり方は、ガダルカナル島で何度も繰り返されることになる。

マタニカウ川のすぐ西の領域に日本軍がそれなりに布陣していることがわかったことから、米軍ではこれを攻撃し撃破することが計画された。第5海兵隊の3個中隊で攻撃し、B中隊は河口から西に、L中隊はマタニカウ川の上流を渡って日本軍を南から、I中隊は舟艇でマタニカウ川の西方数kmにあるコクンボナ村付近に上陸した後、日本軍を挟み撃ちにすることになった [10]。

8月19日に攻撃が開始された。B中隊による攻撃は対岸から激しい砲火に遭いマタニカウ川を西に渡ることが出来なかったが、この攻撃は、L中隊のマタニカウ川上流から攻撃の陽動となった。I中隊は舟艇で海上を機動中に日本軍の艦艇3隻から砲撃を受けたが、被害はなかった。この艦艇は一木支隊を護衛してきた駆逐艦「嵐」「萩風」「陽炎」と思われる。当時制海権は日本軍にあり、この時「陽炎」はツラギに対して1時間にわたって艦砲射撃を加えている。これらの艦隊はその後B-17の攻撃を受けて、「荻風」が命中弾を受けてトラック島に回航された [7, p303]。

I中隊は上陸してコクンボナ付近を攻撃した後、海上に撤退した。日本軍は米軍の上陸用舟艇3隻を捕獲した [4, p533]が、マタニカウ川西岸に布陣していた日本軍は、激しい砲撃を受けていったん西方に退却した。日本軍の死者は65名だったが、米軍の被害は死者4名、負傷者11名だった [10]。これが、ガダルカナル島での米軍と日本軍との陸上での初めての本格的な戦闘となった。

8月19日の米軍による西方攻撃
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参照文献はこちら