2-1 1942年4月段階での日本軍の考え
詳しくは13-2節に既述するが、日本は開戦前にこの戦争をどのようなものにするかについて、大本営政府連絡会議が戦争直前の1941年11月15日に決定した、「対米英蘭蒋戦争終末促進二関スル腹案」が事実上の戦争指導方針となっていた。それは、まず南方資源確保によって長期持久の態勢を固め、欧州戦局の進展による英国の崩壊とこれに伴う米国の戦意喪失によって、戦争終末を図るのが基本方針だった [3, p4]。
これにはさまざまな経緯があったろうが、結果として、この戦争は開戦後に戦争をしながらどのように戦争するかを考える、という場当たり的な形になった。そして、そういう中で南東太平洋方面において出てきたのが以下の2つの作戦である。
2-1-1 ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)
連合艦隊では開戦直前の1941年9月中旬に、海軍大学校で図上演習を実施した。この図上演習は、今後の海軍作戦計画策定上、最も重要なものだった。この図上演習において、南東方面作戦担任の第4艦隊司令長官井上成美は、ラパウル攻略に引き続いて、ラバウルを守るためにニューギニア北岸のラエ、サラモアまで進出した。ところが、連合艦隊の参謀長宇垣纏は、南方進出は当面ラバウル攻略に止めるべきであると意見したが、結論は出なかった [4, p25]。その後、南東方面の作戦について十分な検討を行う時間もなく、攻勢範囲を決めずに開戦となった。
南東太平洋地図(赤字は重要地点)
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もともと海軍としては、開戦前から航空作戦の見地からジャワ、ニューギニア、ソロモン諸島、ギルバート諸島の線に進出して防備を固めようという考えをもっていた。また大本営政府連絡会議も開戦前に戦争集結案の一つとして、豪州を米英から離脱させることを方針を決めていた。海軍軍令部と連合艦隊司令部も豪州が反攻の拠点になることを阻止する必要のあると考えていた [4, p103]。
開戦後、ハワイ作戦とマレー作戦が予想よりも順調に進んだ。1942年1月にはラバウルの占領も問題なく終わった。その頃から、戦争の第2段階の作戦をどうするかが、陸海軍の課題となった。1942年1月に大本営で陸軍と海軍は打ち合わせを行った。その結果、陸海軍共同でニューギニアのラエとサラモア、ポートモレスビーを攻略するMO作戦と、海軍が単独でツラギを攻略することが決まった。戦史叢書は「開戦のころのラパウル防衛のためのラエ、サラモア攻略の構想が、1月下旬にはラパウル防衛と同時に、将来南東方面に対する攻勢の含みをもったツラギ及びポートモレスビー攻略に飛躍していったとみるべきであろう」 [4, p106]と述べている。ただ1月23日に示された作戦方針は、「為シ得レハ陸海軍協同シテ「ポートモレスビー」ヲ攻略ス」であり [5, p40]、ポートモレスビー攻略を必須のものとは捉えていなかった。
海軍によるツラギ攻略は、ポートモレスビー攻略部隊を乗せた船団を、敵の攻撃から守るための哨戒基地の確保が目的だった。この作戦は1月29日に発令され、南洋部隊ではラエとサラモアを3月に、ポートモレスビーを4月に攻略する予定で準備が始まった。
一方で、ポートモレスビー占領の意義は、後述するフィジー・サモア作戦(FS作戦)での「ポートモレスビーはニューカレドニアに繞回突入する旋回軸〈豪州に対する〉にあたり、これを確実にわが手に収めておくことはきわめて必要である [5, p48]」ということになっている(繞回とは回り込む軍事用語)。しかしながら、FS作戦が中止された後も、ポートモレスビーは陸路での攻略が続けられている。これだけだと考えが一貫しない。
3月8日にラエとサラモアを占領したものの、4月に入るとポートモレスビーからのラバウルやラエなどに対する米軍機による空襲は激化した [5, p42]。そのため、FS作戦が中止された後も、「為し得れば」だったポートモレスビー攻略が、そこからのラバウル空襲を防ぐために、後述するSN作戦とともになし崩し的に進められていったと思われる。
ニューギニアは、中央に急峻な山地が走っており、未開の密林に覆われている上に豪州に近く、南岸のポートモレスビーを占領しても、山越えにしても海路にしてもその後の補給は極めて困難である。豪州北東部のタウンズビル付近に航空基地を設けられれば、頻繁な空襲に曝されることになっただろう。また、連合国軍が上陸戦を展開すれば、防衛するのは困難だっただろう。
さらにポートモレスビーは、連合国軍が日本反攻の拠点にするには、山越えするか海岸を遠く迂回せねばならず、不便すぎると思われる。ミッドウェー海戦で空母4隻を失った後も、ポートモレスビー占領と維持がかなりの戦力を投入しても戦略上欠かせない、つまり占領の効果が払う代償と見合う、というほどの利点を感じない。しかしポートモレスビー攻略は、ラバウル防空のための既定路線となって行ったのではないかと思われる。
米軍のガダルカナル島上陸後も、日本軍が同時並行して多大な戦闘資源をラバウルからニューギニア北東岸へつぎ込んだことは、ガダルカナル島奪回を阻害した。それがもしラバウルの防空が目的であったとすれば、「アリューシャンでの戦い」の「11-4 アメリカ軍の航空戦力に対する考え方」で述べた米国による長距離大型爆撃機開発の意図が、見事に当たったともいえる。
2-1-2 ニューカレドニア・フィジー・サモア(FS)作戦
前述したように、戦局が順調に進捗したため、1942年1月10日に大本営政府連絡会議において、「情勢ノ進展二伴フ当面ノ施策二関スル件」が討議された。米国との長期持久戦を想定している大本営海軍部は、ニューカレドニア、フィジー、サモアを攻略(FS作戦と略称、FS作戦は13-3-1節で詳述)して米豪連絡線を遮断し、さらに豪州の要域を占領して豪州を英米から分離させようと企図した [3, p249]。大本営陸軍部は陸軍兵力をあまり要しないため、FS作戦に協力することにした。
ところが13-3節で述べるように、海軍では軍令部と連合艦隊との間で、考えが統一されていなかった。連合艦隊は、1942年4月上旬に第二段作戦をどうするか構想し、山本五十六長官の考えは、短期決戦のためには「常に敵の手痛いところに向かって、猛烈な攻勢を加えねばならぬ」というものだった [6]。そして、そのためにミッドウェー島を攻略し、米国の機動部隊の誘引とその撃破を意図した。
一方で、海軍軍令部は豪州を足がかりにした連合国軍の反攻を危惧しており、そのためには米豪間の輸送路の遮断が必要と考えていた。連合艦隊司令長官山本五十六に押された結果、4月5日に軍令部は、6月にミッドウェー作戦を行って、その後に米豪遮断のためのフィジー・サモア作戦(FS作戦)を実施することにした [4, p356]。そうなると、6月以降に大規模な作戦が続くので、その前の5月にMO作戦とツラギ攻略を片付けてしまうことになった。
FS作戦は5月18日に大命(作戦命令)が発せられた。ところがミッドウェー海戦で空母4隻を失ったため、FS作戦はいったん延期され、7月11日に正式に中止された [7, p165]。
米豪連絡線図(赤鎖線)
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2-2 日本軍によるツラギの占領
2-2-1 それまでのツラギの情勢
ソロモン諸島を巡る歴史は少し複雑である。北部ソロモン諸島とニューギニア北部は、19世紀末にドイツ領となった(そのためビスマルク諸島などドイツ名の地名が残っている)。第一次世界大戦後、これらのドイツ領は豪州の統治下に置かれた。南部ソロモン諸島とニューギニア南部は、19世紀末に北部がドイツ領になったことに対抗して、英国が保護領としたが、第一次世界大戦後に行政管理を豪州に移した。ただ欧州から見ると、ニューギニアの東は地の果てに等しく、それほど関心が高い地域ではなかった。
もともとソロモン諸島は、18世紀まで現地住民が独自の文化で生活していた。しかし、19世紀にやってきた一部の白人が違法な奴隷売買のために、強制的に現地住民を拉致したりしていた。それに反発した現地住民は、白人とみると攻撃し、極めて治安が悪かったようである。それを終わらせたのは英国による保護領としての植民地支配だった。英国人は植民地支配のノウハウを持っていたのだろう。彼らは現地住民の意向を重視するとともに、争議の仲裁や飢饉の救済を行った。その善政によって、1930年代には英国に公然と敵対する人々はほとんどいなくなり、また近代文明を見せつけられて、多くの島民は英国に忠誠を誓ったという [8, p16]。
第一次世界大戦後、日本が南洋群島(北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア)を委任統治領とした。また日英同盟が廃止されたことから、白人主義(有色人種の移住を禁止していた)を取っていた豪州と英国は、ソロモン諸島付近における日本の動向に神経を尖らせた。これら地域は人口密度が低くて連絡が悪いため、日本が占領しても容易に気づかない恐れがあった。それが2-6-3節で説明する沿岸監視網の設立につながっていく。
ツラギ島は、ソロモン諸島南端のガダルカナル島の北にあるフロリダ島の南岸に接するように位置するある小島で小さな港があり、豪州によってソロモン諸島の植民地政府の小さな行政府が置かれていた。豪州空軍の水上機基地が置かれ、地理的に珊瑚海の哨戒のための重要な場所だった。
2-2-2 ツラギの占領
上述した方針によって、日本海軍はツラギを占領するために、ポートモレスビー攻略(MO)作戦と並行して、1942年5月3日に敷設艦「沖島」と駆逐艦「菊月」「夕月」、輸送船「高栄丸」「吾妻山丸」などからなるツラギ攻略部隊を派遣した。乗船していた呉鎮守府第3特別陸戦隊は、フロリダ島近くのツラギ島とその周辺に無抵抗で上陸した。在住の英国人や豪州人は、事前の空襲などにより、日本軍の上陸を察知してその前に退避していた。日本軍はツラギ政庁を占領するとともに、すぐ近くのガブツ島とタナンボゴ島に水上機基地の設営を開始した。
ツラギ島などとガダルカナル島位置図
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米国海軍作戦部の通信部(OP-20-G)は、配下にあるハワイのハイポ(HYPO)で通信解析を行っていた。日本軍は暗号通信の際に、地点をアルファベット3字以内で符号化した「特定地点符字」と呼ばれるものを部隊間で広く共用していた。ミッドウェー島を指した「AF」は有名である。米軍は、この符号を読み取ることができれば、例えば複数の受信基地から艦隊や部隊の出発位置を特定し、宛先符号を発信していた発信源がどこに到着したかを解析することによって、その符号が意味する場所を特定できた。
それらの積み重ねや、ポートダーウィン沖で沈没した日本の潜水艦「伊124」から、1月20日に引き揚げた暗号書などを利用して、暗号文の内容をある程度推定することができた(日本はこの潜水艦がどこで沈没したのか把握できていなかった上に、暗号書が米軍によって引き上げられたことも知らなかった)。ハイポは、日本軍の暗号通信から、近日中にポートモレスビー攻略を意図したMO作戦が行われることを正しく推測していた [8]。
2-2-3 米国機動部隊によるツラギへの空襲
米軍は日本軍によるポートモレスビー攻略を阻止するため、フランク・フレッチャー少将が指揮する空母「ヨークタウン」を中心とする第17任務部隊と空母「レキシントン」を中心とする第11任務部隊を珊瑚海に派遣した。それらの任務部隊がちょうど珊瑚海に入った5月3日に、米軍は陸上哨戒機からの連絡と通信傍受から、日本軍がツラギを占領したことを知った。それらの任務部隊(機動部隊)は早速行動を起こした。南で給油中だったレキシントンを残して、ツラギに近かったヨークタウンは、占領翌日の5月4日午前6時半に急降下爆撃機28機、雷撃機12機からなる第1波の攻撃隊をツラギに送った。
ツラギの日本軍は、上陸翌日にさっそく米軍艦載機による奇襲を受けた。ツラギ沖に停泊していた日本軍艦艇は3波にわたって攻撃を受け、駆逐艦「菊月」と掃海艇3隻が撃沈され、敷設艦「沖島」と駆逐艦「夕月」が至近弾と機銃掃射によって小破した(敷設艦「沖島」は11日に潜水艦の雷撃で撃沈された)。これによって、日本軍は珊瑚海に米軍の空母が既にいることを知り、この攻撃は両軍にとって珊瑚海海戦の幕開けを告げるものとなった。5月7日と8日に行われたこの海戦によって、日本軍は海路によるポートモレスビー占領を断念した。
このツラギ空襲について、日本軍はどう思っていたのだろうか?南太平洋にある政庁の一つであり、哨戒のポイントだったかもしれないが、重要な軍事施設もない小島である。そのツラギ島を占領したら、翌日に米軍の機動部隊による反撃を直ちに受けた。南太平洋は広大であり、母港であるハワイからも遙かに離れている。機動部隊がこの付近に何日もただ滞在することは考えられない。つまりツラギ空襲は、日本軍のツラギ占領時に偶然に米軍機動部隊が付近にいたから、とは考えられない。日本軍によるMO作戦を、何らかの手段で米軍が時期と場所を特定して待ち構えていた、と考えるのが普通だろう。
しかし日本軍は、珊瑚海海戦の方に関心が向いたのか、米空母によるツラギ空襲の意味を深く考えなかったようである。この時期のことを記した戦史叢書第80巻大本営海軍部・聯合艦隊<2>と第49巻南東方面海軍作戦<1>には、ツラギ空襲の事実とその後の珊瑚海海戦のことしか記されていない。この米軍による暗号解読の兆候に気づかなかったことと、珊瑚海海戦の戦果を過大視した(米空母2隻撃沈と考えていた)ことが、ミッドウェー海戦の悲劇へとつながっていく。
2-3 日本軍による飛行場建設
日本軍はツラギの空襲を受けて、付近に陸上航空基地設置の必要性を感じていた。ツラギ島は全長4kmと小さく(ガブツ島とタナンボゴ島はもっと小さい)、北に隣接して比較的大きなフロリダ島があったが、そこはほとんど未開で平地がなかった。
フロリダ島周辺を調査していた日本海軍は、5月25日に、フロリダ島から40km南のガダルカナル島北岸のルンガ岬付近に飛行場適地を発見した [4, p375]。ガダルカナルとはスペインの地名である。1568年にスペインがペルーと南太平洋の遠征を行った際に、この島を発見した遠征隊の副官が、故郷の名前をこの島に冠した。この飛行場適地の発見と飛行場の整備の要望は6月2日に大本営へ送られた [4, p376]。また当初は、ミッドウェー海戦後もFS作戦は継続されることになっており、そのための前進航空基地も必要とされた [4, p375]。
ミッドウェー海戦の敗戦によって、最終的にFS作戦は中止されることになったが、MO作戦は陸路で再興されることになり、その間にソロモン諸島とニューギニアに、航空基地を設営することとなった。これがSN作戦(ソロモン諸島、ニューギニア東部における航空基地設営のための作戦)である。ガダルカナル島もその一環で引き続き飛行場が必要とされた。
SN作戦によって、日本海軍は、設営隊をガダルカナル島の飛行場拡張に2隊、ラバウル北方のカビエン飛行場の拡張に1隊、ニューギニア北東部のラエ飛行場(後にブナ飛行場)の設営に1隊、ラバウル飛行場(東・西)の拡張に2隊、の合計6隊もの設営隊を広範囲に展開して基地設営を行った [4, p379]。8月22日にはニューギニア北岸にブナ飛行場が完成して戦闘機隊が進出している。
ガダルカナル島へは、第11設営隊の約 1350名および第13設営隊の1221名が送られた。またラバウルの第8根拠地隊は、ガダルカナル島守備隊として第81警備隊および呉第3特別陸戦隊の計247名も上陸させた。
設営隊の先遣隊と陸戦隊は、6月25日に特設巡洋艦「金龍丸」にてラバウルを出発し、7月1日にガダルカナル島へ上陸した [4, p381]。設営隊本隊を乗せた4隻の輸送船は6月29日にトラック島を出発し、7月6日にガダルカナル島に到着した。その船団は部隊と物資の揚陸を行ってから7月11日に引き揚げた [4, p382]。船団が6日間停泊したことは、物資を満載した船の揚陸期間の一つの目安となろう。引き続き物資の輸送と整理が行われ、滑走路、誘導路、道路、橋梁、通信施設の建設は7月16日から開始された [4, p384]。
設営隊の装備は、主にスコップ、つるはし、くわ、のこぎり、なた、手押しの土砂運搬車等で、機械化されたものとしては、ロードローラー、ミキサー、トラックなどがあった。一方、守備隊は、8cm高角砲4門、3連装25mm機銃1門、13mm機銃1門、山砲2門、電波探信機を持っていた [4, p384](8cm高角砲は将来予定だったようである)。これらのほとんどは対空用の兵器で、敵の上陸を全く想定していなかったことがわかる。
建設開始から約3週間後の、8月5日には800m×60mの滑走路とその東側 200~300mの埋め立てが概成し、兵舎、無線施設、 戦闘機用掩体(コンクリート製の遮蔽)6か所も完成した。設営隊は、戦闘機の進出可能を報じた [4, p385]。全くの未開の地で、ブルドーザーやスクレイパーなどの機械もなく、わずか3週間で人海戦術によってこれだけの施設を構築した設営隊の苦労は察するものがある。
2-4 ガダルカナル島上陸のための米軍の対応
2-4-1 1942年春までの米軍の体制
ガダルカナル島への反攻に至る米軍の姿勢を理解するには、日本による真珠湾攻撃以降の米国の対日戦への考え方の経緯を理解しておく必要がある。
日本による真珠湾攻撃によって、米国は第二次世界大戦に参戦することになり、欧州と太平洋という国の両側で戦争を抱えることになった。しかし突然参戦することになった米国は、まだ戦争準備の途上だったため、太平洋と大西洋の両側で攻勢を取ることは不可能と考えられた。米国は、1941年3月の英米参謀協定において、仮に日本と戦争になってもドイツ打倒を最優先することで合意していた。開戦後の1941年12月22日からの英国チャーチル首相によるアメリカ訪問でも、ルーズベルトとチャーチルによってその方針は確認された。
そして、太平洋に対する米軍の軍事方針は、「重大な権益の防衛に必要な最小限の兵力だけをドイツに対する作戦から(日本に対して)振り向けるようにする」 [8]であり、それは当面の戦略的守勢を意味した。それに軍の疑問はなかった。しかしそれに基づく政策は、日本からの危機に直接さらされている米国国民には人気がなかった。しかもこの方針には、日本軍に対抗するための「最小限の兵力」についての具体的な議論が全くなかった [8]。
1941年12月に米国艦隊司令長官という独立した専門職が新設され(それまでは兼務)、1942年3月に海軍作戦部長(CNO)を兼ねたアーネスト・キング提督がその職に就任した。対日強硬派の彼は、英国や周囲との軋轢をものともせずにドイツ優先の上記方針を最小解釈し、日本軍に対する早期の反攻を主張した。海上では第一次世界大戦のような戦線の膠着は起こらない。彼は防衛のための二つの基本戦略をまず立てた。それらは、ミッドウェーおよびハワイと北米本土の間の海上交通路と、北米とオーストラリア(豪州)間の海上交通路の二つを日本軍の攻撃から守ることだった。
アーネスト・キング提督
https://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_J._King#/media/File:FADM_Ernest_J._King.jpg
連合国にとって幸いなことに、日本による東への侵攻はマーシャル諸島占領(タラワ、1941年12月)とラバウル占領(1942年1月)まででいったん止まった。2-1-1節で述べたように、海軍はソロモン諸島などの必要性は感じていたが、「同方面は作戦の裏街道としか見ておらず、兵力不足もあって第一段作戦においてはラパウル攻略だけにとどめた」 [4, p103]とある。その後日本は、ラバウル周辺のニューアイルランド島のカビエン、ブーゲンビル島のブイン、ブカ島などの占領と強化に重点を移した。当時ほとんど無防備だった南太平洋諸地域(ソロモン諸島、ニューカレドニア、フィジーなど)は、侵攻されなかった。
2-4-2 1942年4月以降の米軍の体制
1942年3月30日に統合参謀本部は、太平洋における対日反攻作戦遂行のため、大統領の承認を得て、南西太平洋方面と太平洋方面の2つの独立した司令部とその長官を設立した。南西太平洋軍司令長官(SOUWESTPAC)の担当地域には、東経160°以西のフィリピン諸島からインドネシア、ソロモン諸島、オーストラリアなどが含まれた。この南西太平洋地域の司令長官には、陸軍のダグラス・マッカーサーが指名された。それ以外の東経160°より東の広大な太平洋方面を担当する太平洋軍司令長官(CINCPAC)には、海軍のチェスター・ニミッツが任命された [9]。
マッカーサーもニミッツも、その上位組織はワシントンの統合参謀本部だった。その統合参謀本部において、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルは、南西太平洋軍を担当する一員として、そして海軍の米国艦隊司令長官アーネスト・キングは、太平洋軍を担当する一員として行動した。そして、陸軍のマッカーサーと海軍のニミッツに与えられた任務は、地域が異なるだけで事実上同じだった。これは曖昧と言えば曖昧だが、状況に応じて統合参謀本部が資源を集中させて太平洋方面の攻め方を変えることができる柔軟なやり方でもあった。
1942年における統合参謀本部と太平洋方面における構成(なお、当時統合参謀本部はまだ正式な組織とはなっていなかった)
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このような米軍のやり方は、陸軍と海軍が協定を結んでそれぞれが協力して作戦する日本軍のやり方は全く異なった。米軍はその地域で一人の司令官を立てて、その人にその地域の陸軍と海軍の全てを託していた。米軍は空母からなる機動部隊を、陸軍と海軍を統合した対日反攻の切り札と見なしており、機動部隊がマッカーサーかニミッツの元で両者(両軍)の境界を越えて活動する場合は、陸軍と海軍の上位に位置する統合参謀本部が調整することになっていた [9]。
南太平洋の島々は、開戦までは軍事施設のないのどかな地域だった。キングは消極的な戦略的守勢を主張するマーシャルを説得し、南太平洋のサモア、フィジー、ニューカレドニアなどの島々に対して豪州との補給線を防衛するための軍事基地設置に着手した。
ニューカレドニアのヌーメアには、3月12日から陸・海軍部隊の駐留が開始され、航空基地の建設も始まった。陸軍の第37師団がフィジーに派遣され、アメリカル師団がニューカレドニアに派遣された。第1海兵師団の第7海兵隊はサモアに駐留した。そのほかボラボラ島、トンガタブにも派兵された [9]。
また、3月29日にはバヌアツ南部のエファテ島に、5月にはバヌアツ北部のエスピリッツ・サント島に海兵隊建設大隊(シービーズ)が進出し、同時に航空基地の建設も始まった(完成は7月末) [10]。防衛のための戦力として、アイスランドと北アイルランド派遣部隊の一部を抽出して派遣し、また飛行機(戦闘機250機とB-17とB-26などの爆撃機143機)の配備を進めた [8]。
米豪連絡線図 再
ニミッツはこれらの戦力を指揮するために、太平洋軍の下に南太平洋軍司令官(SOPAC)を設立し、その司令長官にロバート・ゴームリーを充てた。そして彼が、ガダルカナル島とツラギ島等の上陸作戦のための機動部隊、上陸部隊、上陸支援艦船、輸送艦船、陸上大型爆撃機、海軍飛行艇などの全てを指揮することになる。ただし、ゴームリーが準備段階を経て南太平洋軍の指揮権を掌握したのは、6月19日だった [9]。
そしてゴームリーは、彼の下で陸軍部隊を指揮するためにミラード・ハーモン少将を任命した。彼は、陸軍航空隊出身の第一次世界大戦時のパイロットであり、1940年のロンドン駐在時にはそこでの防空戦も見聞して航空戦の経験が豊富だった。彼はゴームリーの下で、後にガダルカナル島での航空戦に対して効果的な支援を行った。上陸作戦のための海軍と海兵隊の構成は2-6-1節で述べる。
2-4-3 ツラギ奪回作戦までの経緯
1942年5月3日の日本軍によるツラギ占領は米軍を刺激した。ツラギは英仏共同統治領のエスピリッツ・サント島(バヌアツ)から西に約1000kmの距離にある。これはラバウルとツラギ間の距離とほぼ同じだった。日本軍のツラギ進出を見て、アメリカ海軍のキングは南太平洋の危機を感じた。
対日強硬派のキングは、連合国での欧州優先の方針に従った太平洋での守勢という方針に反して、積極的な対日反攻を強引に企図した。ドイツ打倒優先を主張している英連邦の一つであった豪州本土を反攻の拠点とするより、米豪連絡線に直接脅威となり得るツラギをまず占領して拠点とした方が、米軍による反攻を簡明に進められると判断したのかもしれない。ミッドウェー海戦による海軍力のパワーバランスの変化もそれを後押しした。そして、6月24日に彼は太平洋軍司令長官 (CINCPAC)のニミッツに対して、ソロモン諸島のツラギ島と隣接するタナンボゴ島などの島々の奪取とその占領のための海軍部隊と航空部隊を招集すべしと通告し、翌日にそのツラギ島上陸作戦の開始をおおむね8月1日とつけくわえた [9]。
マレー半島での進軍を見ても日本軍は用意周到であり、米軍は日本軍の南太平洋における侵攻も十分に計画・準備された戦略に基づいたものと見なしていた。占領して2か月近く経った今、ツラギは要塞化されて多数の歴戦の兵士が用意周到に防衛しているかもしれなかった。米軍はそれを正面から上陸して取り返しに行こうというのである。
ツラギと隣接する島々の奪取の支援に必要な、ソロモン諸島の東にあるバヌアツやニューカレドニアの海軍基地と航空基地の施設は、まだほとんど整っていなかった。ましてや侵攻して上陸作戦を行うために必要な膨大な弾薬や物資の準備は、まだ一切行われていなかった。
キングの指示から指定した上陸日まで5週間しかなかった。敵前強襲上陸には多数の兵力と十分な情報と装備、海上と空からの十分な支援戦力が必要である。短期間でこれらを揃えて敵前強襲上陸を決行するというのは、常識的には無謀な指示だった。しかも、南太平洋軍司令長官のゴームリーとって、この時点で司令部はまだ十分に機能し始めていなかった。
この上陸作戦のための大輸送船団がガダルカナル島に近づけば、事前に日本軍の哨戒機に発見されるだろう。そのため奇襲は期待できず、ゴームリーとマッカーサーは、キングに対して時間をかけて十分に準備してからこの強襲上陸作戦を実施したい、という要望を行った。これは正論だった。
しかしキングはこれを拒絶し、拙速でも時間を優先した(しかも米軍は、この時点では日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設しようとしていることを知らなかった)。そして、その代わりにこの上陸作戦を支援する海軍部隊(空母機動部隊)と補給部隊(輸送船などの支援艦船)を増援して強化した。もしキングが、ゴームリーとマッカーサーの要望を容れて上陸作戦が数か月遅らせていれば、ガダルカナル島の日本軍飛行場によって、米軍は全く異なる戦いを強いられたはずである。連合国の基本方針を尊重しなかったキングの強引な判断は、結果としては全く正しかった。この後もキングはマーシャル諸島、サイパン島を指向した対日反攻路線に強烈な主導権を発揮していく。
一方で、南西太平洋部隊を統括していた陸軍のマッカーサーは、担当域内にあるラバウル奪還に向けて、機動部隊の利用を含めた攻撃を画策していた(上述したように、統合参謀本部で調整されれば、マッカーサーによる機動部隊の運用も可能だった)。そのため、キングによるこの地域の作戦には、マッカーサーの上官であるマーシャル陸軍参謀総長との調整が必要だった。マーシャル陸軍参謀総長は、日本軍に対する反攻ための機動部隊を含むツラギ上陸作戦の指揮を、マッカーサーに委ねるつもりだった。しかし、航空機操縦の経験を持つキング(航空徽章を持つ最初の将官の一人)は、陸軍のマッカーサーに虎の子の機動部隊を預ける気はなかった。彼は、ツラギ島上陸の水陸両用作戦は海軍のニミッツの指揮下で行われなければならない、とマーシャルの要望をはね付けた [10]。
結局難航はしたものの、7月2日に調整によって米国陸軍と海軍は、ソロモン諸島とニューギニアを伝ってラバウルを占領するための三段階からなる攻勢作戦を行うことに合意した。そして、第一段階のサンタクルーズ諸島とツラギ、および隣接する拠点の奪取と占領を行う作戦の指揮は、南太平洋軍司令長官のゴームリーが担当することになった。そして、それ以降のソロモン諸島中部とラバウルの奪取はマッカーサーが担当することになった(これは後に蛙飛び作戦に変更され、ラバウルは侵攻されなかった)。この攻勢作戦のため、南太平洋軍司令長官のゴームリーと南西太平洋軍司令長官のマッカーサーの作戦境界線は、東経160度から、ガダルカナル島より1度西の東経159度に変更された。
2-4-4 ガダルカナル島での飛行場建設の発見
米軍は日本軍のニューカレドニア方面へのさらなる西進を阻止し、かつ日本本土への侵攻の足がかりとするため、8月1日を予定してツラギ上陸作戦(ウォッチタワー作戦)を計画した。ところが7月4日の航空偵察で日本軍がガダルカナル島に飛行場を建設中であることを発見した [11]。これは日本軍の設営隊先遣隊による準備状況を見たものと思われる。
しかし、7月1日に先遣隊が着いて数日で、高空からの偵察で飛行場を建設していることがわかるものだろうか?これとは別に、ガダルカナル島に設営部隊が上陸する、という日本軍の暗号通信を、7月5日にハイポが解読したことによるという説もある [12]。その時の暗号はミッドウェー海戦直前に変更されたJN-25(c)だった。また、沿岸監視員の下で働く現地住民が、日本軍の設営隊の上陸とその飛行場建設作業を、それを手伝うふりをしながら監視・報告していたという別な話もある [8] [13]。
ツラギは、当初はMO作戦のための水上機による単なる哨戒基地に過ぎなかった。それでも、そこを基点とする飛行艇による南東太平洋に広がる長大な哨戒線は、米軍にとって目の上のたんこぶだった。しかも、日本軍はさらにガダルカナル島での飛行場の建設を始めた。ここを拠点として空から珊瑚海での輸送船攻撃が行われると、豪州北岸やポートモレスビーとの補給連絡線が途切れる恐れがあった。また南太平洋の拠点であったエスピリッツ・サント島が日本軍爆撃機の攻撃圏内に入ることになり、南太平洋への新たな侵攻の開始とも受け取ることができた。
日本軍による南太平洋へのさらなる侵攻を恐れた米軍は、この飛行場建設を黙って見過ごすことは出来なかった。それまでの米軍の作戦予定はツラギへの上陸・奪回だけだったが、ツラギ上陸作戦にガダルカナル島への上陸が直ちに加えられた [14]。この飛行場建設の発見が、飛行場を巡る戦いが始まる出発点となった。7月10日、ニミッツは、ツラギとガダルカナルの占領に関する「ウォッチタワー作戦」をゴームリーに命令した。残された時間は約1か月しかなかった。
米軍では、この作戦に必要な物資を集めるのに必要な時間の厳しさを、まだ十分に認識していなかった。作戦地域の地図も日本軍に関する情報も十分になかった。マッカーサーはラバウルを無力化する航空戦力を持っておらず、ニューヘブリデス諸島(バヌアツのエスピリッツ・サント島やエファテ島を含む諸島)で使える飛行場は、エファテ島のヴィラだけだった(エスピリッツ・サントの航空基地は7月末に完成する)。上陸時にツラギに接近する日本軍艦船をここから攻撃できる航空戦力は、B-17爆撃機とカタリナ飛行艇だけだった。
米軍ではツラギ上陸作戦だけでも準備作業が輻輳していた。もし飛行場建設の発見がこれより少しでも遅れていれば、ガダルカナル島への上陸を加える作戦の手直しのために、上陸作戦全体が延期されていたかもしれない。そうすれば、反攻開始時にはガダルカナル島の飛行場に多数の日本軍の攻撃機が駐留し、それに伴って守備隊も大幅に増勢されていただろう。ガダルカナル島飛行場には、8月中旬には戦闘機27機、陸攻27機(9月上旬にはそれぞれ45機と60機)の進出が予定されていた [4, p379]。
米軍占領前の建設中のガダルカナル島飛行場(右中央)。米海兵隊がこの島を占領する直前に計画目的で作成された航空写真(合成)。1942年7月31日、水上機母艦カーティス(AV-4)の航空機によって撮影されたとされている。ルンガ岬は左上にあり、ルンガ川がいくつかに枝分かれして流れているのがわかる。https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-97000/NH-97762.html
この第二次世界大戦最初の連合国軍の攻勢は、異常とも思えるほどに拙速で、時には無謀で致命的ともなり得る思いつきの連続だった [15]。米軍から見ると、8月の時点で日本軍は後のタラワ島のように、ツラギ島やガダルカナル島の海岸に強固な防衛陣地を構築しているかもしれず、また後のブインやムンダのように、ガダルカナル島の近くに既に別な航空基地を持っているかもしれなかった。もしそうだったら、この作戦の成否はともかく、上陸部隊の艦船と兵士は甚大な損害を蒙っただろう。
2-5 米軍の上陸作戦(水陸両用作戦)とは
2-5-1 海兵隊の成り立ち
海上から陸上を攻めるというのは昔から大きな利点があった。中世では船は大量の人員を陸上より高速に輸送できた。ありとあらゆる地点を常に防衛することは不可能である。つまり、上陸できそうな地点であれば、どこでもいつでも海上から奇襲することが出来た。そのため、例えば中世のノルマン人などは船を使って沿岸各地を荒らし回ることが出来た。しかし、大航海時代を経て、防衛側の船の大型化・高速化や大砲などの武器の高度化によって、各地を海から奇襲して荒らし回ることはだんだん困難になっていった。
アメリカでは19世紀頃から海兵隊(United States Marine Corps)が作られたものの、その役割は陸軍と大きな違いがあったわけではなく、その組織には常に潰される圧力がかかっていた。ところが、第一次世界大戦でのイギリスのガリポリ上陸作戦の失敗を発端として、再び海上から陸に敵前上陸する近代的な水陸両用作戦(amphibious warfare)という概念が出てきた。ガリポリでの失敗を教訓に、各国で海岸での橋頭堡の確保方法や上陸手段の確保の開発が行われた。
第一次世界大戦によって、日本は南洋のマリアナ、カロリン、マーシャル諸島の委任統治領を得た。もし日米開戦ということになれば、米海軍の艦隊は太平洋を渡らなければならない。ワシントン軍縮条約によってこれらの島嶼には軍事施設の設置が禁止されたものの、それらの諸島が日本領となったことは、グアムとフィリピンに前進基地を持つ米国にとっては、太平洋での軍事的優位性を損なう大きな障害となった。グアムとフィリピンを確保し、そこに戦力を進出させるには、米国はこれらの島嶼に構築されているであろう日本軍の前進基地を奪取しなければならないと考えていた。
第一次世界大戦後すぐにこの点を見抜いていたのは、アメリカ海兵隊のアール・エリス少佐だった。そして彼は、海兵隊の役割として、日本軍が存在する太平洋の島嶼を一つ一つ奪取するための近代的な水陸両用作戦という全く新しい手法を考え出した。彼の考えは海兵隊の作戦計画として承認された。そして、それは陸海軍統合会議が1924年に承認した対日作戦「オレンジ・プラン」の一部ともなった [16]。
2-5-2 水陸両用作戦のための戦法
水陸両用作戦のための戦法は、1935年に作成された「上陸作戦マニュアル暫定案」によると、概要として次のようになっている [16]。
- 指揮権の統一。上陸作戦に参加するすべての部隊は、旗艦に坐乗する海軍攻撃部隊司令官の下で、一つの任務部隊(タスクフォース)として組織される。
- 艦砲による支援射撃。艦砲は対艦船用なので、本来陸上標的の破壊には向いていない。しかし、射撃方法を工夫することによって一時的に上陸作戦の支援に使うことができる。そのために、陸上部隊と艦砲射撃との調整を行う射撃制御部隊(fire control party)を組織する。
- 航空支援。上陸地域の地形、敵の防御、装備、布陣に関する情報を上空から偵察する。また、上陸用舟艇への移乗時の護衛、敵の陸上火砲に対する制圧攻撃、艦砲の着弾観測を行う。これらのため、すべての航空機には、対地、対艦、航空機間で電信・電話が行える無線機を装備する。
- 艦から岸への移動の容易化。上陸用舟艇への移乗の迅速化、そのための乗船や舟艇の輸送の方法、上陸海岸へ向かう舟艇の編成方法などを規定する。
- 橋頭堡の確保。橋頭堡(海岸堡)とは部隊、装備、補給の連続供給を可能にする機能を持った海岸である。海岸に上陸された物資の混雑・混乱を緩和するため、海浜整理班と海岸整理班を設置する。海浜整理班が出発線から水際までの輸送の責任を持ち、海岸整理班が海浜から攻撃部隊までの移動補給の責任を持つ。
- 兵站(補給輸送)。上陸作戦は時間との勝負である。上陸時には、各局面で異なる必要なものが必要時に揃っている必要がある。例えば砲弾や戦闘車両、燃料は最初に必要で、次段階は食料、医薬品、追加の燃料など、予備の資材などは最後となる。このために、輸送艦への積み込み時に揚陸順を考慮した逆の積載(つまり最初に使うものを最後に積載)を行う。これは戦闘補給単位積荷(コンバットローディング)と呼ばれる。これは荷積みの順番の配慮が必要となるだけでなく、貨物の収納場所は輸送艦の安定性にも影響するため、それ専門の輸送補給担当士官が必要となる。
日本軍は、このようなアメリカ海兵隊の島嶼での作戦構想や上陸作戦能力をほとんど知らなかった。戸部良一等による本「失敗の本質」は、米軍が海兵隊を中心として水陸両用作戦を開発していたことを日本軍は全く予期していなかったと述べている [17]。
実は日本軍でも、1928年に「統帥綱領」の中に陸海軍協同での上陸戦を想定した上陸要領を制定していた [18]。それでは、輸送及び上陸は陸軍、その護衛は海軍の役割であり、奇襲と航空撃滅戦を想定していた。それによって、1932年の第一次上海事変での七了口上陸、および1937年の支那事変での杭州湾上陸作戦を成功させていた。これにより、日本軍の上陸作戦能力は世界的に注目されていたといえる。米国では日本軍の上陸戦を参考にして海空陸戦力の密接な協同を反映した「aero-amphibious(航空―水陸両用)作戦」を定義して、研究していた [18]。
米軍の「上陸作戦マニュアル暫定案」との違いは、日本軍では上陸作戦は陸軍主体で海軍はあくまでその護衛であり、両者の指揮権の統一はなされていない。また、上陸後は一気に敵を殲滅することになっており、橋頭堡(継続的な揚陸地点)の確保は想定されていない。さらに上陸部隊や物資の輸送は、概ね民間船の徴用だった。とはいえ、予めの陸上への艦砲射撃や航空部隊の利用など、海兵隊のマニュアルと共通する部分もあった。
2-5-3 水陸両用作戦のための装備
海兵隊では狭い島嶼への上陸を想定して、長年かけて敵前強襲上陸のための装備の研究・準備を行っていた。そして、海兵隊と海軍は上陸作戦専用の艦船の開発を進め、上陸用舟艇を搭載して、上陸作戦用の兵員と物資を輸送する専用の攻撃輸送艦(APA, AKA)を整備していった(この名称の採用は1943年2月以降)。さらに旧式の駆逐艦を改造した輸送駆逐艦(APD)を持っていた。これは速度25ノットで兵員約150名を輸送でき、ニューカレドニアとガダルカナル島間のピストン輸送などに活躍した。
米軍では、上陸作戦のために輸送艦で輸送された兵士や物資を海岸に直接揚陸するために、1924年頃から兵員・車両揚陸艇(LCVP: いわゆる上陸用舟艇。ヒギンズ・ボートとも呼ばれる)を開発した。これは人員や物資を船から海岸に下ろすのに、当初舷側を乗り越えなければならなかった。海兵隊のビクター・クルラックは、上海事変で日本軍が行った上陸作戦を観察し、日本軍の大型発動機艇(大発)が、海岸で船が倒れないようにW字状の船底を持ち、海岸に向かって倒れる道板(歩板)を艇首に備えて大発と海岸との間を直接行き来できる、という報告を送った [19]。これを知った海兵隊は、1941年から上陸用舟艇の船首に同様な道板(ランプ、歩板ともいう)を備えることを始めた [20]。
LCVP上陸用舟艇(ヒギンズ・ボート)の図
https:/ww2db.com/image.php?image_id=23304;
同じ頃から、米軍は海上から陸上へシームレスに動いて物資を揚陸できる、キャタピラを持った水陸両用トラクター(Landing Vehicle Tracked : LVT)を開発した。これは人員・物資輸送用で、当初は装甲されていなかったが、後に軽戦車のような武装・装甲を施して、太平洋の島々で海岸の日本軍の防御線を突破するのに大活躍することとなった(日本軍には水陸両用戦車に見えたようである)。
南太平洋では、このLVTは意外な点で活躍することとなった。南太平洋の島々は珊瑚礁に囲まれていることが多い。そこは海底が浅くなっており、しかも珊瑚礁は堅い。上陸用舟艇や揚陸艦が珊瑚礁に入ると、岸から数百mの沖合の珊瑚礁で座礁してしまう。そのため珊瑚礁に囲まれた島では、事前に珊瑚礁を破壊した水路を開設するか、珊瑚礁の縁で喫水の浅い船に乗り換える必要があった(喫水の浅い船は外洋の波には弱い)。しかし、そうすればそこを岸から狙い撃ちされてしまう。
ところがツラギの戦闘で、LVTは沖合からそのまま珊瑚礁の上を乗り越えて、陸まで進めることがわかった。これは珊瑚礁に囲まれた島への上陸戦に革命をもたらすようなものだった。この後、米軍は武装や装甲を強化したLVTを大量に製造して、上陸戦に使うようになる。一方、島を守っていた日本軍は、大戦後期まで珊瑚礁で上陸を阻止できると考えていた [21, p33]。島を守っていた日本軍は、ほとんどが全滅するか島から脱出できなかったためか、軍中央では、島嶼での米軍のLVTの威力にほとんど気づかなかったようである。
ガダルカナル島のビーチを移動する米海兵隊のLVT 水陸両用トラクター。これはおそらく1942年8月7日から9日にかけてのガダルカナルへの初上陸の際に撮影されたものとされている。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:LVT%281%29_amphibian_tractor_moves_up_the_beach_on_Guadalcanal_Island,_circa_7-9_August_1942.jpg
また、海上では後部のプロペラを回して航行し、陸上では車輪付きトラックとなるDUKW(ダツク)もあった。これも後の上陸作戦で、海から陸への資材輸送で大活躍することになる。この水陸両用トラクターの原型となった民生用のものは、1937年にライフ誌で報道されていた [20]。しかし、日本の駐在武官や在米公館はそういったものの情報には注意を向けていなかったようである。
初期DUKWの図(米陸軍サービスマニュアルよりhttps:/ww2db.com/image.php?image_id=7916;
また1943年頃からは、海岸へ直接乗り入れて船首を開閉して物資を揚陸できる、大型の擱座着岸型揚陸艦(LST、LSM)が開発された。これは英国で開発されたものだが、米国で大量に建造された。これらの艦船・装備は、上陸作戦を行うたびに戦訓を取り入れて改良され、さまざまな派生型へと発展した。その最初の使用の一つは、1943年8月のキスカ島上陸作戦だったと思われる(日本軍は撤退した後だった)。
一方、日本陸軍では、上陸作戦を想定して、有名な大型発動機艇(大発)の開発だけでなく、上陸用舟艇母船として「神州丸」や「あきつ丸」を建造した。これらは大型発動機艇を船から直接発進させることが出来るなど先進的な機能を持っていた。これらの母船は島嶼の強襲上陸ではなく、大陸で敵のいない地点での上陸を想定していた。これらは、迅速な揚陸を必要としたガダルカナル島への兵員や物資の輸送に使われることもなかった(「神州丸」はバタビア沖海戦で味方魚雷の誤射で大破着底したため、この時期は修理中だった)。
一方で日本海軍は、旧峯風型駆逐艦(旧島風、旧灘風)を輸送用に改造した第1号哨戒艇と第2号哨戒艇を持っていた。これらの艦艇は、輸送能力的にはアメリカの輸送駆逐艦に相当する(これは兵員250名を20ノットで運べる)。しかも、米国の輸送駆逐艦とは異なって、船体に2隻の大発(大型発動機艇)を積んで、船尾からそれらをそのまま発進させることができるようになっていた。他の哨戒艇も大発1隻を搭載できるものがあった。
駆逐艦初代「島風」(哨戒艇に改造する前)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E9%A2%A8_%28%E5%B3%AF%E9%A2%A8%E5%9E%8B%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6%29#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:IJN_Shimakaze_(Minekaze_class)_Taisho_11.jpg
上記の哨戒艇は、沖合で艦から大発への物資や兵員の積み換えの必要がないため、海岸までの迅速な輸送が可能だったのではないかと思われる。第1号哨戒艇と第2号哨戒艇は、横須賀第5特別陸戦隊のトラック島からガダルカナル島への輸送の際に、その護衛などに使われたことはわかっている。しかし、詳しい活動記録が見つからないので(戦闘詳報は1942年4月までしかない)、それらがガダルカナル島への輸送にどの程度役に立ったのかはわからない。
日本海軍でも、第1号哨戒艇のように旧式駆逐艦を輸送用に改造して数多く保持していれば、高速での輸送に威力を発揮したかもしれない。ガダルカナル島戦以降、日本でも米軍を見習って高速の揚陸艦を建造し始めたが、ほとんどが戦局に間に合わなかった。
2-6 ツラギ島とガダルカナル島への上陸作戦計画
2-6-1 攻撃部隊の構成
ガダルカナル島への上陸作戦全体の総指揮は、オークランドにある南太平洋軍司令長官(COMSOPAC)のゴームリーがとった。そして全体の構成は、上陸作戦を支援するリー・ノイズが指揮する支援部隊(TF61:機動部隊)、上陸時の作戦を集中して指揮するリッチモンド・ターナーを司令官とする上陸部隊(TF 62)、そしてエスピリッツ・サント方面から航空支援を行うジョン・マケインが指揮する陸上・水上航空機部隊(TF63)から成った。また、上陸部隊(TF62)と支援部隊(TF61)の現場指揮官として、南太平洋軍副司令官のフレッチャーが空母「サラトガ」に座乗した。そのため、現場の指揮は事実上フレッチャーが執った。
米軍ツラギ・ガダルカナル島上陸部隊構成図
(図はクリックすると拡大します。Escキーで戻ります)
ガダルカナル島上陸作戦を支援するTF61の司令官、フランク・J・フレッチャー。旗艦サラトガに乗艦。(1942年9月17日)
https://ww2db.com/images/5e814cabca124.jpg
そして、ターナーが指揮する上陸部隊(TF 62)は、航空機支援部隊(TF 62.7)、ヴァンデグリフトが指揮する陸上戦闘部隊(TF 62.8)、クラッチレーが指揮する輸送・防衛艦隊(TF 62.6)、掃海艇部隊(TF 62.5)からなった。掃海部隊を除いて、それぞれの部隊はさらにガダルカナル島侵攻部隊とツラギ侵攻部隊に分かれていた。
リッチモンド・K・ターナー
https://en.wikipedia.org/wiki/Richmond_K._Turner#/media/File:Richmond_Kelly_Turner_(cropped).jpg
連合国軍の部隊編成図
(図はクリックすると拡大します。Escキーで戻ります)
陸上戦闘部隊は、第1襲撃大隊(First Raider Battalion)828名、第1空挺部隊(400名)を含む第1海兵師団(First Marine Division)12900名、第2海兵隊(Second Marines:第2海兵師団からの応援連隊)4846名、第3防衛大隊(Third Defense Battalion:高射砲部隊など)972名の合計約19000名からなった [14]。
襲撃大隊とは、本来特殊作戦に従事することを意図していたが、事実上精強な歩兵として扱われた。ガダルカナル島上陸作戦の場合は、第1海兵師団に編入されて使用され、エドソン中佐が指揮する第1襲撃大隊(以降、襲撃大隊と記す)は、後にムカデ高地を巡って日本軍と死闘を演じることとなる(そのためムカデ高地は、米国ではEdson's Ridgeとも呼ばれている)。
日本軍もそうだが、戦時の軍隊の呼称は難しい。まず海兵師団(Marine Division)の下に海兵隊(Marine)があり、これは大隊規模(battalion)と思われる。しかし連隊(regiment)が組織されることもある(兵科に依るのかもしれない)。そして各部隊には本来構成に対して、増援があったり欠部隊があったりする。砲兵隊は第1海兵師団の第11砲兵隊が配置された。ガダルカナル島上陸作戦の場合は、第1海兵師団が主力となったが、他師団から増援も行われ、第2海兵師団からジョン・アーサー大佐が指揮する第2海兵隊が増援された。この部隊は、歩兵以外に第10砲兵隊第3砲兵大隊(75mm榴弾砲)、工兵、設営隊、水陸両用トラクター、戦車、医療チームを含んでいた。
実際の上陸は、ガダルカナル島、フロリダ島、ガブツ島、タナンボゴ島に分かれて行われたので、各大隊やそれから抽出された戦闘チームが、それぞれの上陸に際して細切れにして使われている部分がある。
第1海兵師団の歩兵は3168人で、師団司令部中隊と師団武器中隊と3個歩兵大隊で構成されていた。標準的には、各大隊(933名)は司令部中隊(89名)、武器中隊(273名)、小銃中隊3個(183名)で編成されていた。また各歩兵大隊には、砲兵隊(2581名)として75mm榴弾砲大隊が付属した(第11砲兵隊からの第2砲兵大隊と第3砲兵大隊、第2海兵師団第10砲兵隊からの第3砲兵大隊が各歩兵大隊に配属された)。それらに加えて、師団には全般支援として105mm榴弾砲1個大隊があった。これらの砲兵隊が大活躍することになる。さらに軽戦車大隊、対空・対戦車砲の特殊武器大隊、空挺部隊によって補強されていた。戦闘部隊以外に、建設大隊(2,452名: 工兵隊・設営隊(シービーズ))、サービス部隊(後方部隊)として自動車輸送大隊、水陸両用トラクター大隊、医療大隊が同行した [22]。
ツラギ島周辺は、上陸中または上陸直後に激しい戦闘が予想された。一方、ガダルカナル島への上陸は、日本軍から即座に反撃を受けることを避けて、東方のルンガ岬とコリ岬の間の海岸に上陸して橋頭堡(物資揚陸拠点)を確保することになっていた。
そのため、ヴァンデグリフトが指揮する陸上戦闘部隊(TF 62.8)の内、ツラギ上陸グループは、師団長補佐ウィリアム・H・ルパータス准将が指揮し、襲撃大隊、空挺部隊、第2海兵隊からなった。 これらの部隊は当時最もよく訓練された部隊で、ツラギでの戦闘に耐えられると考えられた。前述したようにこの襲撃大隊と空挺部隊は、後にガダルカナル島に移送されて、川口支隊と凄惨な戦いを演じることになる。ガダルカナル島上陸グループはヴァンデグリフトが直率し、第1海兵師団の残りの部隊と司令部等からなった。
アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将(米海兵隊); アレクサンダー・A・ヴァンデグリフト少将(米海兵隊)、第一海兵師団司令官 1942年8月から12月頃、ガダルカナルの師団司令部テントの野戦机にて。
キングがニミッツにツラギ上陸作戦を指示したとき、第1海兵師団の兵士は、真珠湾攻撃の直後に入隊した者ばかりで、水陸両用作戦の訓練をほとんどか全く受けていなかった [8]。ヴァンデグリフトは、当初同師団にはまだ数か月間訓練できる時間的余裕があると考えていた。また、この戦力だけでは不足すると考えられたため、ヌデニ上陸作戦用だった第2海兵隊などを予備としてサンディエゴから派遣することになっていた。米軍は、ツラギの推定兵力1850名に加えて、ガダルカナル島に5275名からなる強力な日本軍がいると推定した [14]。
しかし、日本軍の実際の防衛は、ガダルカナル島守備隊が247名、ツラギ島警備隊が350名、ガブツ島とタナンボゴ島にはツラギ島から分派された警備隊50名がいるだけだった。それ以外に、ガダルカナル島には設営隊が2570名、ガブツ島とタナンボゴ島には横浜海軍航空隊(横浜空)本隊342名、設営隊144名がいたが、地上戦力としてはほとんど期待できなかった [4]。
ガダルカナル島付近の日本軍部隊配置図。東見張所はタイボ岬にある。
(図はクリックすると拡大します。Escキーで戻ります)
2-6-2 地図などの情報
上陸戦を戦うには、上陸場所の地形や敵戦力の配備に関する地図が必須である。ヴァンデグリフトが1942年6月26日に作戦命令を受けたとき、彼と幕僚は目的地域や敵の戦力と配置について、ごく一般的で大ざっぱな知識しか持っていなかった。ほとんどの熱帯地域がそうであるように、陸域地図と海図に乏しく、あっても数十年前の時代遅れのものだった。 ガダルカナル島やツラギ島周辺の正確で完全な地図は1枚も存在しなかった。
第1海兵師団の情報士官フランク・B・ゲッツゲ中佐は、まずかつてガダルカナルやツラギを訪れたり住んだりしたことのある貿易商や栽培業者などを探し出した。彼らの多くはオーストラリアに住んでいることがわかった。そして、一組の航空写真から地図を作って第1海兵師団に届けるよう手配した。しかし、この地図は膨大な輸送物資の中に紛れてしまい、海兵隊に届くことはなかった [9]。
結局上陸時には、ゲッツゲ中佐がオーストラリアで入手した海岸地図が書き写されて使われた。この地図では、内陸部はおおまかな川と山しかわからなかった。結局、上陸後に日本軍から捕獲したいくつかの斜めから撮影した写真が、作戦開始段階における唯一の内陸地形の情報源となった [9]。
次に有用な情報源は航空写真だった。この飛行は7月17日にニューギニアのポートモレスビーからB-17爆撃機を使って、ガダルカナル島への写真撮影のための飛行が行われた。しかし、ガダルカナル島の上陸地点付近に近づくとツラギの水上戦闘機の迎撃を受けて、機体を傾けて回避したりしたため、写真撮影どころではなかった。結局ヴァンデグリフトは、目視によってルンガ岬付近の海岸に日本軍の要塞はなく、海岸は上陸に適していることを口頭で説明されただけだった [9]。
2-6-3 沿岸監視員による情報
ツラギ島のすぐ近くのフロリダ島やガダルカナル島には、沿岸監視員が秘密裏に残っていた。沿岸監視員については、12-4-1節で詳しく説明する。彼らは、配下の現地住民に日本軍の作業を手伝う振りをさせて、日本軍の作業の進捗を見張っていた [13]。その沿岸監視員からは、いろいろな貴重な報告がもたらされた。日本軍がツラギに司令部を設置していること、近隣のガブツとタナンボゴに防御陣地を占領・設置していること、設営部隊がガダルカナル飛行場建設を行っていることがわかった。なお米軍は、上陸直前に現地住民を避難させた。日本軍は突然消えた現地住民を不思議に思ったという。しかし、それが米軍の上陸と関係していたことに気付いた者はいなかった [13]。
沿岸監視員はソロモン諸島の各地に配属されていた。ラバウルとガダルカナル島との間に位置するブーゲンビル島にも沿岸監視員が配置されており、ガダルカナル島攻撃に上空を飛行する日本軍の航空機の監視に大きな貢献をした。ガダルカナル島付近の艦船のレーダーだと、探知できるのは日本機による攻撃の約10分前となる。それでは、迎撃機が飛び立っても高度を稼ぐ時間はなかった。また、停船して揚陸している船舶にとって、揚陸を中止して退避航行を開始する時間として十分ではなかった。ブーゲンビル島からガダルカナル島までの飛行は2時間近くかかるので、ブーゲンビル島の監視員からの情報によって、米軍は余裕を持って日本軍機の攻撃に対処できた。米軍が日本軍の航空攻撃に対処できたのは彼らのおかげといっても言い過ぎではないだろう。また日本軍機の帰りの機数も数えて報告することで、日本軍機の損害の把握も行った。米軍は彼らの活動を激賞している。
ガダルカナル島の日本軍守備隊は、8月下旬の早い段階から、日本軍機による空襲の直前になると飛行場から航空機が空中に退避し、空襲が終わると戻ってくることを報告していた [4, p588]。しかし、ラバウルの日本軍は、1943年になるまで、沿岸監視員の存在に気づかなかった。それだけではなく、日本軍は、地理などに詳しい現地の人々を、地理などを聞き出すのに利用しようという考えがほとんどなかったように見える。例えば、一木支隊先遣隊は米軍の情報を聞き出そうとして、現地住民の警官(元英軍兵士だったのだが)を尋問して殺そうとした。日本軍は死んだと思って放置したが、彼は大けがをしたまま米軍陣地に逃げ込んでいる [22]。
2-6-4 上陸用資材の搭載
海兵隊では、戦闘に必要な物資を上陸地点へ輸送する前に大きな問題が生じていた。それは海兵師団用の上陸資材が、米国本土から積み出された際に、通常の貨物として積載されていたことだった。上陸作戦で揚陸を行うためには2-5節で述べたように、コンバットローディングに積み替えなければならない。このために、船積みされた資材をニュージーランドのウェリントンでいったん全て下ろし、中を開けて物資全てを分類し、コンバットローディング用に詰め直してから、再び上陸戦用の優先順位に従って輸送艦に積載し直さなくてはならなかった。
19000名から成る兵士用の戦闘・補給物資の量は膨大だった。ところが、ウェリントンの埠頭の設備は貧弱で、倉庫もなかった。悪天候が続いたため、輸送船から積み直しのために下ろされた物資は雨ざらしとなり、一部の物資は使用不能となった。また、ウェリントンでは港湾労働者の組合が強く、労働争議も頻発した。その結果、港湾労働者は警察から退去を命じられた。結局、物資の船からの荷下ろしと荷揚げそして詰め直しのほとんどを、海兵隊員が行うことになった。特に遅れて7月11日に到着した後続部隊は、この作業を出航する7月22日までに行うことになった。そのために8時間交代の24時間体制でこの作業が行われた [9]。
しかもガダルカナル島までの船舶の量が限られていたため、本来であれば食糧などの物資が90日分用意されるはずが、60日分に減らされ、弾薬は10日分に減らされた。各自の携帯物も1個までと制限された。これらのウェリントンでの作業遅延のため、7月17日に上陸日は延期され、上陸日は8月7日と決定された。しかも後述するように、輸送艦は第一次ソロモン海戦によって早々と退却したため、これらの減らした物資でさえ十分には揚陸できなかった。
1942年7月20日、ニュージーランドのウェリントンの埠頭で、艦船への積み込みを待つ米海兵隊の水陸両用トラクター(LVT)。背景の左の船はUSSマコーリー(AP-10)。2-6-5 上陸部隊と護衛艦隊
米軍の上陸作戦の中核となる機動部隊(TF61)は、空母3隻(「サラトガ」、「エンタープライズ」、「ワスプ」)、戦艦1隻(「ノースカロライナ」)、重巡洋艦5隻(「ミネアポリス」、「ニューオーリンズ」、「ポートランド」、「サフランシスコ」、「ソルトレイクシティ」)、対空巡洋艦1隻(「アトランタ」)、駆逐艦16隻、給油艦5隻で構成された。
ターナーが指揮する上陸艦隊とその支援部隊(TF62)は、重巡洋艦6隻(「クインシー」、「ヴィンセンス」、「アストリア」、「オーストラリア」、「キャンベラ」、「シカゴ」)、軽巡洋艦2隻(「サンジュアン」、「ホバート」)、駆逐艦15隻、掃海艦5隻、兵員・物資輸送艦19隻、輸送駆逐艦4隻からなった [10]。輸送艦は、すべて沖で小型の上陸用舟艇に物資を載せ替えてから海岸に移送して揚陸するタイプで、直接海岸に乗り付けて揚陸できるLSTのような船舶はまだなかった。
これらの艦隊に加えて、マケインが指揮する陸上・水上航空部隊(第63任務部隊)として、海軍機166機、陸軍機95機、ニュージーランド軍機30機がヌーメア、フィジーから哨戒などで協力することになっていた。
2-6-6 海兵師団と上陸訓練
上陸作戦の各部隊は、各地に分散しているため、一度集まって作戦の全容の確認と意思疎通を行っておく必要があった。また、部隊兵士もほとんどが上陸訓練を受けたことがないため、上陸作戦を行う前に、リハーサルとなる上陸訓練を行う必要があった。
作戦を秘匿するため、7月26日にフィジーの南600kmの地点で各部隊は集合した。27日午後にフレッチャーは、独断専行で各任務部隊の司令官を空母「サラトガ」に集めて、この作戦に関する初めての打ち合わせを行った。南太平洋軍司令部からは、ゴームリー司令長官ではなく、キャラハン参謀長が参加した。そこでいくつかの大きな問題点が明らかになった。
最も重要な問題点は次の点だった。上陸部隊を指揮するヴァンデグリフトは、全ての物資を陸揚げするのに4日間は必要であり、その期間は空母機による輸送艦の護衛がつくと思っていた。一方で、フレッチャーは、日本機の攻撃圏内での機動部隊の運用は、あくまでヒット・エンド・ランであり、空母機による上陸部隊艦船の護衛はせいぜい2日間と考えていた。この場を仲裁する立場であったゴームリーは、ヌーメアで雑用に忙殺されていた。当のフレッチャーはこの作戦の成功に最初から否定的だった。
緊迫した議論の後フレッチャーは譲歩し、3日間護衛することとなった [8]。ただし [15]では、フレッチャーは2日間の航空掩護しかしないと述べて、会議を打ち切ったことになっている。フレッチャーは以前から一貫してこの作戦に反対しており、 [15]はニミッツがどうしてフレッチャーを、この作戦の副指揮官にしたのか疑問視している。
上陸作戦のリハーサルは7月28日から30日にかけて、フィジー諸島のコロ島で、空母艦載機の参加を得て行われた。ただし、無線封止の必要性から、地上部隊と航空支援部隊との調整はできなかった。そのため上陸訓練では爆撃精度は粗く、支援艦船からの砲撃は不正確だった。また部隊全員の上陸訓練は舟艇不足で行えず、また完全装備の海兵隊員を満載した上陸用舟艇は喫水が下がったため、浅瀬に乗り上げてスクリューを損傷した [8]。これはツラギで珊瑚礁のために現実のものとなる。リハーサルは成功したとは全く言えなかった。
7月31日の夜が更ける頃、上陸作戦(ウォッチタワー作戦)の各部隊は、錨を上げてコロ島から目的地のツラギ島とガダルカナル島へ向けて秘密裏に出航した。80隻を超える大艦隊であり、このような大規模な作戦行動を行うのは、連合国軍ではこれが開戦後初めてだった。
1942年7月24日、ガダルカナルとツラギへの侵攻準備中の空母「エンタープライズ」。写っている搭載機は急降下爆撃機SDB-3。上陸用舟艇(LCP(L))が付近で行動している。
2-7 連合国軍反攻の兆候に対する日本軍の見方
政府と大本営は3月7日の大本営政府連絡会議において、真珠湾攻撃の成功によって、米国の反撃が始まるのは、新しく戦艦などの戦備が整う1943年後半以降と判断していた [23, p350]。これがまず大きな誤判断となった。一方大本営海軍部では、通信解析から8月に入って連合国軍が南太平洋で活動を活発化させていることを把握していたが、大本営政府連絡会議の判断もあって、連合国軍は東部ニューギニアの防備を強化しているものと判断していた [4]。
しかし、米軍は、機動部隊でもって2月1日にはマーシャル諸島、ギルバート諸島を空襲し、2月20日にはラバウル空襲を企て(迎撃に遭って途中で反転)、2月24日にはウェーク島を空襲し、3月4日には南鳥島を空襲し、3月10日にはラエ・サラモア沖に集結した日本軍の艦船を空襲した。その上で4月18日にドーリトル東京空襲を行い、5月4日には占領直後のツラギを空襲した。これらは矢継ぎ早のヒット・エンド・ランであったが、米軍が持つ積極果敢な攻撃意欲がわかる。日本軍はこれらの攻撃から、米軍の積極的な反攻意図を読み取ることができなかった。
アメリカの反撃が始まるのは1943年後半以降という大本営の判断は、ミッドウェー海戦後の海軍のパワーバランスの変化を受けても変わらなかった。この判断は日本軍の末端の部隊にまで伝わっていたと思われる。そのため、1942年夏という時期に、米軍が日本軍占領地を奪回するための反攻に出てくるとは、誰も予想していなかった。
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