6. 一木支隊先遣隊による戦闘

(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

米軍は海兵隊11000名に加えて多少の火砲や軽戦車をガダルカナル島に揚陸しており、島を死守しようとしていた。また、近くのツラギ島付近には6000名が上陸していた。ところが日本軍は、参謀が乗った航空機偵察と現地守備隊からの連絡、輸送船団の早期撤退などから、ガダルカナル島に上陸した米軍兵力は約2000名で、撤退を思案中と推測していた。この日本軍の誤った敵情判断が、その後の作戦の前提となった。

6-1    一木支隊の派遣

南東方面部隊は8月10日に、第17軍と協議のうえ、パラオにあった陸軍の川口支隊(後述)の主力と、トラック島にあった一本支隊、およびグアム島の海軍の横須賀第5特別陸戦隊(横5特)をガダルカナル島へ派遣し、8月25日ころ奪回作戦を開始する方針を決定した [4, p516]。一木支隊とは、一木清直大佐の指揮する第7師団第28連隊約2400名のことで、その頃はトラック島にあった。横5特は、元はミッドウェー島の攻略確保のため5月1日に編成されたもので、安田義達大佐を指揮官として616名で構成されていた。グアム島にいたが、特設巡洋艦「金龍丸」で8月15日にトラック島へ到着する予定だった。

徴用前の金龍丸。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%BE%8D%E4%B8%B8_(%E7%89%B9%E8%A8%AD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:KinryuMaru1938.JPG


一木支隊は、輸送船「ぼすとん丸」と「大福丸」の2隻で、横5特は特設巡洋艦「金龍丸」でガダルカナル島へ送られることになった。この2隻の陸軍輸送船は鈍足(8.5ノット程度)で、到着には時間がかかる見込みだった。そのため支隊を二分し、先遣隊900名だけを駆逐艦6隻に分乗させてトラック島から輸送することになった。一木支隊の残り(約1500名、以下第2梯団と記す)は、当初の船団でガダルカナル島へ向かうことになった。一木支隊への命令は、攻撃不成功の場合には飛行場の使用妨害も想定されていた。そのため、状況に依っては島の一部を保持したまま後続部隊の来着を待つことになっていた。

先遣隊の輸送は第2水雷戦隊が担当だったが、麾下の駆逐艦はあちこちに転用されており、第3艦隊第4駆逐隊と第8艦隊第17駆逐隊の一部をかき集めた混成部隊の駆逐艦6隻の挺身隊(嵐、荻風、浦風、谷風、濱風、陽炎)で、輸送されることとなった。

一木支隊の先遣隊916名は16日朝にトラック島を出発し、18日2200時頃に、ガダルカナル島のタイボ岬(Point Taivu)付近に到着した。上陸したのは一木支隊先遣隊(4個中隊(105名×4)、機関銃中隊(110名と機関銃8丁)、大隊砲小隊(50名と歩兵砲2門)、工兵中隊(150名)、支隊本部(163名)、大隊本部(23名)の合計916名 [7, p297])だった。上陸方法は、ミッドウェー島上陸の際に珊瑚礁から先のために準備していた折畳舟を用いた。ただしこれには動力が無いため、実験した上で3隻をつないで内火艇で引っ張る方法が決定された [7, p293]。折畳舟で上陸するため、速射砲中隊(対戦車砲部隊)は先遣隊に加えられなかった。

折畳舟は、元は河川渡河用の舟艇で、日本軍独特の手頃な上陸手段となったようである。その名の通り折りたたんで駆逐艦で輸送でき、上陸地点で組み立てられる折畳舟は、自走式ではなかったが、場合によっては船外機を取り付けることもできた。これを使ったとは書かれていないが、その後の揚陸物資等を見ると、駆逐艦とこれを組み合わせて、かなりの物資や火器を揚陸できたようである。なお大発を揚陸地点で使うためには、大型船に積載して輸送する方法以外には、駆逐艦で曳航するか自走するしか方法がなかった。

米軍に捕獲された日本軍の折りたたみ舟。コリ岬で捕獲されたもの。船尾部分を取り外すと、ゴム底が折り畳まれ、ボートの側面が圧縮される。 [9]より。


上陸地点が飛行場の東側のタイボ岬になったのは、出発時にガダルカナル島守備隊が飛行場西側に撤退したことを知らなかったことと、地形が西側は山地が海岸まで迫っており、開けた東側の方が敵の背後からの攻撃に有利と判断したことによる [7, p293]。

一木支隊をわざわざ二つに分けて先遣隊だけ先に送ったと言うことは、拙速を重視して、状況に応じて先遣隊だけで飛行場を確保してしまおう、という意図が強かったと思われる。この「状況に応じて」という考え方は常識的にはわかる。しかし第17軍では、先遣隊に対してそのための組織的な支援や情報提供が計画されているわけではなかった。また、一木支隊先遣隊にはラバウルとの連絡手段として、タイボ岬見張所とガダルカナル島守備隊の2か所を経由する通信方法しかなかった [7, p299]。潜水艦も一木支隊の通信を中継するように手配されていたが、後述する敵空母発見によって、そちらへ向かったため通信を中継できなかった。

このため一木支隊は、第17軍司令部からの情報提供を当てにすることは出来ず、先遣隊は上陸後に自前で状況把握するしかなかった。孤島のジャングル内では、これは容易ではなかっただろう(米軍はジャングル内の状況把握に現地住民の協力を得ていた)。つまり、先遣隊は後続部隊の来着まで攻撃を待つことも許されてはいたが、この単独での状況把握の難しさが事前の楽観的な空気と相まって、無謀な突撃による悲劇の原因になったのではないかと思われる。

6-2    ソビエト連邦からの情報

8月16日に、海軍第1部長がソビエト連邦の武官からとして、次のような情報を提供した [4, p520]。

  • 米国の作戦は、ソロモン諸島での日本軍基地の破壊のみを目的としており、(目的を達したためか)この作戦は打ち切られようとしている。
  • 上記情報は真偽不明だが、上陸部隊はフロリダ島かマライタ島へ舟艇で脱出する可能性がある。

また、この情報と合わせて、その頃通信可能となったガダルカナル島守備隊から、敵の勢力は約2000名程度との報告があった。これらの情報は一木支隊長にも伝えられた。他に情報がなくまた現状と合っていたためか、この情報は、陸軍の一木支隊や第8艦隊に多大な楽観的影響を与えた。飛行場の奪還だけでなく、艦艇の配置やガダルカナル島守備隊への指示など、むしろ敵の退路を断つための手はずが整えられた。

6-3    一木支隊先遣隊の戦闘

6-3-1    斥候隊同士の戦闘

18日夜にガダルカナル島に上陸した一木支隊先遣隊は、そのまま前進を開始したが、行動秘匿のため19日昼間は行軍を停止した。米軍の方は、現地住民の斥候によって東のタイボ岬付近に日本軍が上陸したことを知った。しかしその規模はわからなかった。そのため偵察を兼ねて、海兵隊は中隊をパトロールに出した。

一方で行軍を停止した日本軍は、イル川手前のテナル川に情報所設置のための小部隊と将校斥候を4組派遣した [4, p536]。しかし米軍の資料によると、海兵隊の斥候部隊が日本軍将校4名と兵士30名からなる1つのグループが、戦闘隊形を組まずに海岸近くを西に向かって歩いているのを発見した [9]。この日本軍グループの数倍となる中隊規模の兵力を持つ海兵隊パトロール隊は、正面と内陸側からの2つに分かれて包囲するように待ち伏せて奇襲した。

日本軍は将校4名を含む31名が戦死し、米軍は戦死3名、負傷者3名を出した [10]。戦死者の検分時の日本軍の徽章から、これらの兵士はそれまでの海軍陸戦隊ではなく、大規模な陸軍部隊の一部であることがわかった。また所有物からは通信暗号書が発見された [9]。これによって米軍は、大規模な日本の陸軍部隊が飛行場奪還に向けて東から進撃してきていることを、はっきりと認識した。

日本軍斥候は、暗号書を持っていたり、戦闘隊形を取らずに前進したりしていたことから、米軍を全く警戒していなかったことがわかる。

6-3-2    21日のイル川での戦い

アメリカ側の資料は、彼ら自身が認めているように川の名前に混乱が見られる。アメリカ側の資料には、日本が中川またはイル川としている川を、テナル川またはアリゲータークリークと呼称している場合がある。ここでは米軍が防衛線を敷いていた川(日本側の呼称の中川またはイル川)をイル川と呼ぶ。それより約5km東側に本来のテナル川(日本側の呼称の蛇川)がある。

米軍は、イル川の左岸(西岸)に沿って防衛線を敷いていた。そのイル川は海に注ぐ直前に北西行している。そのため、イル川東岸の砂州は北側の海と南側のイル川に挟まれた西に狭く突き出た形になっていた。そして、その西端の河口の砂州が唯一の渡河点となっていた。また西行しているイル川の左岸(南岸)である砂州にも、イル川を隔てて米軍の防衛線があった。第1海兵師団の5個大隊のうち、東側防衛線を2個大隊が守って、1個大隊が予備としてすぐ後ろに配置された。それを野砲隊3個大隊が支援できる形に配置されていた。

 

 一木支隊のイル川での戦いの模式図
(図はクリックすると拡大します。Escキーで戻ります)

一木支隊による攻撃は、20日の2030時頃の照明弾の打ち上げから始まったとされている [10]。最初は散発的な様子見だったが、河口の砂州での渡河を容易とみたのか、翌日の0300時頃から、約200名の日本軍兵士が幅50mにわたって河口を渡って、第2大隊が守っている防衛線を突破しようとた。渡河しやすいそこには、機関銃や37mm砲が重点的に配置してあり、第2大隊は日本軍兵士に集中砲火を浴びせた。しかし、一部の兵士は渡河に成功してイル川左岸を確保した。

右翼を守っていた海兵隊第1大隊の中隊が、直ちに反撃して日本軍を対岸に追い返したため、日本軍の突撃は失敗に終わった。それを見た一木支隊は、70mm歩兵砲を猛射してから中隊規模での正面攻撃を開始した。しかし、この攻撃は、防衛線の機関銃と37mm砲の激しい射撃によって水際で粉砕された。また、米軍は砂州の南を流れるイル川南岸の防衛線から、75mm砲による砲撃戦を展開して、日本軍の火砲を叩いた [10]。

米軍の37mm M3対戦車砲。散弾で日本軍を阻止したと思われる。アッツ島でも日本軍の突撃阻止に用いられた。https:/ww2db.com/image.php?image_id=20859;


明け方には、海兵隊予備の第1大隊が南方のイル川上流で川を渡り、南側と南東側から一木支隊の左翼と後方を包囲するように進撃した。北側は海であるため一木支隊は逃げ場を失い、一木支隊は何度かこの包囲網を突破しようとしたが、米軍に阻止された。また頑強に機関銃陣地を守っていた日本軍兵士に対しては、軽戦車が1500時に川を渡って粉砕した [9]。米軍も地雷と兵器によって1両の戦車を失った。

一木支隊長は1500時頃、軍旗を焼いて自決した。一木支隊は1700時までに上陸地点に残っていた者と逃れた者合わせて128名を除く、777名が戦死した [4, p536]。15名が捕虜となった。日本軍の重機関銃10丁、軽機関銃20丁、擲弾筒20丁、小銃700丁、70mm砲3門、火炎放射器12門(未使用)などが捕獲された。米軍の損害は、戦死34名、戦傷75名だった [10]。

ガダルカナルにおけるアメリカ海兵隊のM3A1軽戦車(1942年)https:/ww2db.com/image.php?image_id=8297

21日1745時に、一木支隊が飛行場付近に到達するもほとんど全滅、という報告がタイボ岬見張所からガダルカナル島守備隊を経由してラバウルの第17軍司令部に伝達された。この通信は、発信者がわからかったため(通信状況が悪くて欠落したか?)真偽不明とされ、攻撃結果の判断は留保された。21日朝のガダルカナル島守備隊からの「飛行場攻撃ハ我軍ニ有利二進展中卜推定ス」という情報も混乱に拍車をかけた。

4日後の25日になって、上記報告の発信者は一木支隊通信将校であり、タイボ岬見張所に連絡を依頼したものであることがわかった [4, p537]。一木支隊の全滅がようやく確認された。発信者の確認になぜ4日もかかったのか不思議である。連合国軍では、沿岸監視員からの通信は、豪州とハワイを経由して30分で米機動部隊へ伝わるのに、自軍の通信の発信者の確認に4日もかかるのが日本軍の実情とすれば、ここにも日本軍の通信不全の特徴が現れているのではないだろうか。

20日からは一木支隊第2梯団の輸送が始まっており、また24日からは、米軍部隊による西方のマタニカウ川付近への威力偵察のような一時的な進出も行われた。日本軍では、一木支隊の状況がはっきりしない間は、対応を取りにくかったのではないかと思われる。

6-3-3    イル川での戦いの問題

一木大佐は、陸軍歩兵学校教官を長年勤めた人で、実兵指揮に練達した部隊長だった [7, p296]。伝統ある銃剣突撃で夜襲をかければ、米軍の撃破は容易であると信じていたようである。一木支隊は、早朝から全滅する午後まで、渡河しやすい河口を遮二無二突破しようとした感がある。イル川河口は浅くて渡河しやすいが、防御もそこを重点に固められていた。一木支隊は、事前の情報から、敵は2000名程度で戦意を失っていると思い込んでいたのだろう。目の前の敵を抜けば、一気に飛行場へ到達できると思ったのかもしれない。

しかし、実際には防備を固めた3個大隊からなる3倍以上の敵を相手に突撃していた(通常は、逆に攻撃側が防衛側の戦力の3倍がセオリーである)。しかも、斥候隊同士が事前に交戦していた以上、奇襲は見込めなかった。また米軍は、防衛線の内側に十分な数の火砲をイル川河口に照準して準備しており、一木支隊はこれらによる砲撃によっても粉砕された可能性がある。

日本軍ではこの攻撃に合わせて、反対側のマタニカウ川西にいたガダルカナル島守備隊も陽動攻撃をかけるとか、ラバウルの航空基地やショートランドの水上機基地から航空攻撃を行うとか、駆逐艦が支援の艦砲射撃を行うなどの連携した動きはなかった。

米軍は、日中戦争を戦い抜いた経験豊富な日本軍兵士を異様なほど警戒しており、入念な迎撃準備を行っていた。日本軍は、フィリピンでは米軍の派遣軍と戦闘しているが(それもバターン半島で苦戦した)、本国軍と戦うのは初めてだった。22日に後続の第2梯団が到着することにもなっていた(最終的に航空攻撃で撃退された)。未知の相手でもあり、一木支隊は事前の情報を当てにし過ぎずに、最初の突撃に失敗した後に少し後退して敵情の把握に努めても良かったのではないだろうか? 日本軍では慎重イコール臆病という風潮があったことも関係しているかもしれない。

イル川は海岸近くを西に向かって流れているが、上流ではすぐに海岸にほぼ直角に内陸の南に向かって曲がる。そしてそのさらに上流はジャングルの丘陵地帯になっていた。そこは進軍もしづらいが、防衛もやりにくかった。例えば、河口での突破が難しいとわかった段階で、後続部隊を待ちながら、時間をかけてそちらの道を探る手もあった。後の川口支隊は、その丘陵地帯側から攻撃を行っている。

上陸作戦から2週間後に上空から撮影された飛行場(中央)とアウステン山(左奥)。手前は一木支隊が全滅したイル川の河口。 [9]より

米軍の通信による連携は2-5-2節で述べたが、上記で示した本「失敗の本質」は、日本軍の統合作戦の欠如として、「陸軍と海軍がバラバラの状態で戦い、空、海戦力を短時間間歇的に投入していた」 [17, p138]と述べている。この不足の原因の一つは、通信能力の欠如や独断専行の気質があると思われる。一木支隊は、第17軍司令部があるラバウルまで直接届く無線機を持っていなかった。第17軍司令部では、ガダルカナルの現地で何が起こっているのかはかなり後にならないとわからない、という状況では、一木支隊に最新の状況を伝えたり、戦闘状況に応じた有機的な支援を行ったりすることは望むべくもなかった。

海軍の特設巡洋艦「金龍丸」は、9000トンで速度も20ノット近く出る。陸軍の一木支隊と海軍の横5特の兵士数は、合わせても3000名程度である。しかし12-2-4節で述べるように、日本軍では陸軍の兵士は陸軍の輸送船で輸送されることになっていた。確かに9000トンの特設巡洋艦に3000名乗せることは定数より多いかもしれない。しかし、船舶が逼迫した大戦後半になると、1船に5000名乗せたりすることは行われている(無茶ではあるが)。もし「金龍丸」と哨戒艇で一木支隊を一度に輸送していれば、飛行場が利用可能になる20日より前にガダルカナル島に到着できたのではないかと思われる(一木支隊など3000名の戦力でどうなっていたかは別な話である)。

参照文献はこちら