16. さいごに

(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 
以下は雑記である。

16-1    成功体験

「成功体験は怖い」という話を身近な所で何度も聞いたことがある。成功体験は過去の成功に囚われて、状況は異なるのに過去の成功事例を自信を持って再び当てはめようとして失敗する。日本にとって日露戦争は、強烈な成功体験だったのだろう。しかも日本海海戦でほぼパーフェクトな勝利を得たため、それが世代を超えて受け継がれることとなった。その戦争の当事者たちよりむしろ後世に産まれた人々の方が、語り継がれた物語によって成功体験が強化されていたかもしれない。

太平洋戦争において日本軍の主要な戦略を占めた艦隊決戦は、日本海海戦の中部太平洋での再来を期待していたように見える。しかし、戦争技術を巡る環境は、第一次世界大戦を契機に3次元での戦いとなり、大きく変わっていた。それに対する理解と対策が全く足りなかったと思う。また技術だけでなく、日露戦争の時は日英同盟があり、その他の国々は日本に好意的か中立に近かった。むしろ国際情勢はロシアの方が不利だった。それが見えない形で日本に有利に影響していた。

ところが太平洋戦争は、まず日本は国際連盟を脱退した上に、中国へ侵略して欧米を敵に回したため、国際情勢としては孤立して四面楚歌の状況だった。それでも艦隊決戦で米国艦隊を打ち破れば、なんとかなるという考えは、客観的に見て果たして適切だったのだろうか?そして艦隊決戦だけに焦点を合わせて、艦隊や航空機などの軍備をそれだけにチューニングした。日露戦争の都合が良い部分だけを取り出して成功体験化したようにも見える。

16-2    備えよ常に

私はボーイスカウトの活動に関わったことがある。ボーイスカウトという制度は20世紀初めにイギリスで生まれた。子供の育成が目的だが、その参考となったものは「スカウト活動」、つまり軍などによる偵察活動である。もちろんボーイスカウトでは、子供たちに軍事活動を教えるわけではない。しかしスカウト活動には、自然の中でのテント張りや自炊を含む野営の仕方、地図を使った行動などの屋外活動や団体行動を通して、人間が生きる上で基本となる活動の部分がある。ボーイスカウトは、子供たちをそれらに触れさせるのが目的である。

なぜボーイスカウトの話をするのかというと、その活動理念の一つに「be prepared」というものがある。これは日本では「備えよ常に」と訳されて、ボーイスカウト活動の標語の一つとして広く共有されている。私はこの標語は「備えよ」の方に重点があると捉えている。つまり、「何か活動を行う際には、事前に十分な準備を行ってから」ということである。実際にボーイスカウトの活動には、指導者たちには実施計画など、事前に十分な準備が毎回求められる。例えば、どこかに出かけて活動する際には必ず下見を行う。毎年行ってよく知っている場所でも必ず下見に行く。何かが変わっている可能性があり、子供たちの安全を確認するためである。

ところが、このガダルカナル島での戦いを見ると、引いては太平洋戦争全般を見ても、準備をほとんどしていない戦いをこちらから始めたように見える。これまで述べてきたように、英米などの複数国を相手に戦いながら南方の資源地帯と本土の両方を守るような方針は、戦前の国防方針や国策要領にはどこにも書かれていない。当然、軍備もそれに対応していない。なぜそのような想定していない戦いをこちらから仕掛けることになったのか?それにはいろんな議論・経緯があろう。

当初の真珠湾奇襲と南方の資源地帯の占領までは、それまでの準備でなんとかなったが、それから先の戦略や軍備、つまり南方資源地帯の防衛や海上護衛戦の準備がなかったために、その甘さを突かれて最後は破綻したともいえる(もちろん戦争を終結させるための自発的な戦略もなかった)。ガダルカナル島での悲惨な戦い(とそれ以降の南方での戦い)も、想定や準備がなかった南方資源地帯の防衛を急遽行うことになったための延長と考えると、この戦いの理由が見えてくるのではないかと思う。

16-3    生還なき転進

「生還なき転進」(著者:蓬生孝、光人社NF文庫)という戦記がある。舞台はニューギニア西部である。この戦記には、敵からの攻撃を受ける場面はない。それどころか敵機も敵艦も出てこないし、銃砲弾を撃ったり受けたりする場面もない。つまり戦闘シーンは一切ない。記されているのはマクノワリからイドレへの移動のために、ひたすらジャングルの中を必死で自活しながら行軍する状況だけである。

これは「イドレ死の行軍」とも呼ばれている。イドレに蓄積してある食糧(澱粉)で自活するために約1万の兵士がジャングルの中を約200 km先のイドレに向かって行軍した。しかし、約3か月かかってわずかな兵士が到着したイドレには、そのような食糧はなく、結局行軍した兵士の内約8800名が、途中であるいは到着後に亡くなった。これは結果として、近代人がいきなりほとんど準備もなく未開のジャングルに放り込まれて、どうやって生き抜くかというサバイバル談になっている。しかし、これは軍命令で動いているので、れっきとした戦記である。有名なインパール作戦では数割の帰還者がいたために、作戦の悲惨さが広まった。しかし、ニューギニアではほとんどが亡くなり、帰還者がわずかだったため、逆に悲惨さが知られていないという話もある。

太平洋戦争中では、ガダルカナル島だけでなく、インパール、ラモウ、フィリピン、そしてニューギニアなどの数多くの地域でこのような飢餓が各地で起こった。しかし、なぜこのようなことが起こったかというと、何度も書くが、それは艦隊決戦のみの軍備と航空戦への無理解のまま、南方資源の確保を目的に英米蘭に対して想定のなかった戦いを突如挑み、資源地帯と本土の防衛のために、適切な戦略・戦備がないままに各地に兵を派遣したからである。結局、航空機と潜水艦による交通遮断によってこれら多くの地域で補給が困難となり、派遣された多くの兵士たちは、ジャングルなどの土地で飢えるか現地自活を強いられた。大半の兵士は戦争どころではなかったのではなかろうか?派手な戦闘に目を奪われがちだが、太平洋戦争は飢えとの戦いが多かったことと、なぜそうなったかを知っておくべきだと思う。

16-4    戦略シミュレーションゲーム

私は一時期、戦略シミュレーションゲームにハマっていた。私の輸送や補給に関する考え方は、その影響を受けている。私がやっていた戦略シミュレーションゲームは、まさに太平洋戦争を模したものだった。このゲームのかなりの部分には、よく知られた戦闘・補給理論が組み込まれていると思っている。

このようなゲームは一部のシューティング系のゲーマーには不評のようだが、経済を含めた戦争の理解には一定の効果があると思っている。例えば、ラバウルで航空戦を展開しようと思えば、まず南方資源地帯から石油を日本本土に運んで精製し、それをラバウルまで輸送しなければ飛行機を飛ばせない。また現地にいくら飛行機や石油があっても、整備や設営の部隊がいなければ、活動は制限されてしまう。

このゲームでは、資源を本土に運んで大量の航空機と搭乗員を養成して現地まで輸送し(それがそう簡単ではない)、多量の航空戦力で敵の航空基地を叩いて無力化し続け、また敵の空襲を多くの迎撃機で防がなければ、基地の航空機や滑走路、部隊は破壊されていく。そうなると、基地は拠点として機能しなくなる。その結果、最後は敵の上陸を許すことになる。

そうならないようにするには、資源、人材養成、生産、移動手段の確保と実際の輸送、そして、それらをどこに集めるのかという戦略が必要になる。しかも、輸送や生産、人材育成には時間がかかる。敵が攻めてきてから行動を起こしても手遅れとなる。私は上記の多くの要素について1か月後にどこに何が到着しておく必要があるか、そしてそのために日本本土で今何をしておく必要があるかを、抜けがないように紙に書き出してゲームをしていた。これは戦略シミュレーションゲームの複雑な面の一部だけを説明している。

もちろん現実の戦争はもっと複雑だろうが、このような戦略シミュレーションゲームでは、少なくとも石油や鉄などの戦争資源を各地から集めて、飛行機や船や陸上部隊(整備隊や設営隊を含む)などの攻撃力を日本本土で養成して、先を見越して必要な場所にそれらを予め輸送して集中させていないと、ゲームではあるが戦争に勝てない。

戦前にも戦術レベルではこのようなものを使った図上演習が軍で行われていたが、戦争全体を模するようなものはなかった。戦前にこういうものがあれば、戦争指導者たちの戦争観は違っていたかもしれない。

16-5    感想

この長い解説をここまで辛抱強く読んでいただいた方々に感謝する。最初に述べたように、私は戦史の専門家ではない。これまで述べてきたことの多くは、既に指摘されてきたことを、新たな文脈で分析を行ったり肉付けしたりしたものである。それはいろんな角度から歴史を見直すという意味で、意義はあると思っている(歴史とはそういうものと思っている)。またFS作戦をラバウル占領に引き続いていやっていれば?のようないくつかの戦略・戦術についての仮定のシミュレーションのようなものにも触れてみた。もちろん、「もしも」のような仮定の話に大きな意義があるとは思えないが、思考の訓練程度にはなるだろう。

ただ、こういった解説には私の思い込みや事実誤認が入っている可能性がある。もしそういったことに気づいたら、遠慮なくコメントをいただきたい。私のマインドは科学者なので、真理の追究にある。自分が書いたものが常に100%正しいとは思っていないので、もし指摘を受ければ、感謝すると共に積極的に修正していきたいと考えている。

これまで述べてきたように、ガダルカナル島という南半球の密林に覆われた孤島、という戦争に不向きな場所で、なぜ補給も満足に行えないままに作戦や戦闘が行われたのか?それは、戦争を起こしてしまったからそうなったのは仕方がない、では済まない問題だと思う。開戦論者たちはこのままだと「じり貧」になるのを避けると言いながら、結果は山本五十六が言う「ドカ貧」になってしまった。戦争指導者たちが、誤った戦争観を持って想定外の戦争を始めたため、その結果、ガダルカナル島だけ見ても、大勢の兵士たちが過酷な環境に置かれて、次々と餓死、病死していった。これは戦略以前の問題である。ある意味で戦争になる前に戦争に負けている。

戦争を肯定しているわけではないが、少なくともこのような戦争になることを見通せなかった戦争指導者たちの責任は大きいと思う。また14-5節の「総力戦とは」で述べた思想統制のようなもの、あるいは繰り返し吹き込まれた過去の成功体験が国民の思考を歪めて、国民が戦争を推進した面があったかもしれない。

ところで、真珠湾攻撃の隊長だった淵田美津雄は、米国人について面白いことを言っている。戦後彼が訪米した際に、キリスト教の影響が強い米国では、少なくとも当時は神に対して謙虚になる気質がどこかにあると彼は感じたようである。それがどこかで人間が傲慢になるストッパーになっていたのかもしれない。ちなみに渕田はその後キリスト教に改宗している。現代では、例えば車の煽り運転を見ても、人間の傲慢さは昔よりはるかに強まっているように感じる。技術が進歩して人間にとっての不便さが少なくなり、多くの事が人間の思い通りになってきている現代を指して、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ハラリは、「ホモデウス(ゼウス神になった人間)」という本のタイトルで示しているし、20世紀のスペインの有名な思想家ホセ・オルテガは人間の「全能感」あるいは「万能感」という言葉で表現している。それが不寛容な時代になっている一因かもしれない。

戦前から日中戦争以降の状況をおかしいと感じていた高級軍人たち、あるいは政治家たちはいた。しかし、彼らは主要な意思決定に加われず(つまり出世できず)、意見を上げても意思決定者たちはそれを取り上げなかった。私はいつの時代も生まれてくる人々の多様性は同じだと思っている。ただし時代によって意思決定者まで上り詰めることができる人々は異なるのだろう。当時、なぜあのような戦争を始めるような判断を下す人々が、意思決定者に上り詰めたのだろうか?そしてなぜそれが可能な国家体制になってしまったのだろうか。そして、それは今では改善されたのだろうか?そこまで掘り下げないと、国家レベルの戦争を含めて、いろんなレベルでいろんな問題が今後起きないとは断言できないと思う。

参照文献はこちら

15. 日本海軍の航空戦への理解

(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 
ソロモン諸島の占領では、ガダルカナル島での航空基地建設が、まず制空権確保のための最優先事項のはずだった。しかし、5月末のガダルカナル島での飛行場適地の発見から飛行場完成まで2か月半かかった(建設は1か月)。また米軍の上陸直後に、日本軍は米軍による飛行場整備の妨害をあまり行わなかった。そのため、日本軍が奪還のための十分な兵力を送る前に、敵に飛行場の利用を許してしまった。ガダルカナル島の攻防はこの時点でほぼ決まったと考えている。これは日本軍の航空機の威力に対する基本的な理解に、大きな問題があったためと思う。ガダルカナル島戦から外れる部分もあるかもしれないが、それを考えてみる。

15-1    航空機運用の特殊性

14-1-2節で述べたように、航空機は1930年頃からその性能が急速に発達して威力が増大したが、その運用方法は従来の他科の兵器と比べて大変独特である。攻撃面では、大型爆弾を砲弾より数百倍も遠方の目標に、ある程度の精度をもって投下できるという利点がある。この攻撃の威力は航空機を増やせばいくらでも強化できる。攻撃される側は、陸上では爆弾が投下されれば、基本的に地下に潜るしかその破壊から逃れる術がない。艦船では爆弾等の投下以前に航空機を撃墜・撃破するしかない。ところが航空機の運用には繊細な点が数多くあり、その強力な威力を発揮させるためには、運用の際に以下の点についての配慮が必要となる。

  1. 離着陸のために広くて平坦な飛行場設備(あるいは航空母艦)を必要とする(水上機と飛行艇を除く)。
  2. 連続して飛行できる時間(航続距離)は短く、燃料がなくなる前に着陸しなければ墜落する。
  3. 空中で何らかの破壊を受けると弱い。空中では力学的なバランスをとりながら高速で飛行しているので、何らかの原因で少しでもバランスが崩れると墜落する。また揚力を得るために高速が必要であり、そのためエンジンが止まっても墜落する。
  4.  目的地への到着や帰投のためには、現在位置の確認が極めて重要になるため、上空での現在位置の把握は、地形や天測に頼ることが多くて困難なことが多い。そのため電波を使った航法支援装置などが重要となる。
  5. 航空機は静穏で視界の良い天候の下でしか運用できない。そのため、専門の気象部隊(場合によっては天候観測機)を各地に派遣して、予め気象(視程、雲、気流など)が目的地までの飛行に適しているかの広域での把握が必要となる。
  6. 航空機は3次元を高速で移動する上に、離陸と着陸の際は陸上(あるいは艦上)に接する。そのため、その操縦は特殊であり、離着陸や航法を含む操縦法の習得には多大な時間がかかる。これは座学では身につかないため、操縦者を一度に大量養成することは難しい。操縦者以外の搭乗員も、航法の習得、武器の運用、通信設備の取り扱い、爆撃照準のやり方を必要とし、それらの技術の習得には時間がかかる。例えば高速で移動しながらやはり高速で移動する敵機を銃撃するには、特殊な技術・訓練を要する。
  7.  操縦者は飛行中に極度に疲労する。空中戦になればなおさらのこととなる。飛行中の搭乗員には高度に応じた気圧変化がかかるだけでなく旋回などでは地上の何倍もの重力(遠心力)を受ける。また、風を含む天候の判断、敵機の監視、目標や自機の位置把握などに絶えず注意を払う必要がある。そのための疲労は激しく、操縦士や搭乗員の休養には、特に意を払う必要がある。
  8.  航空機は複雑で繊細な機械であり、特に発動機は整備が難しい(稼働率が低い)。整備不良は墜落に直結する。このことを考慮して、専門の知識を持った整備員の養成が必要となるだけでなく、十分な予備機、予備部品の確保も必要となる。
  9.  航空機は、地上待機中に攻撃を受けると全くの無力である。また機体だけでなく、備蓄された地上の燃料、爆弾、弾丸も敵の攻撃から防ぐ必要がある。滑走路の防備・整備も同様である。その防空のためには専用の設備や地上部隊の協力が欠かせない。
  10. 燃料や爆弾、弾薬の消耗は激しく、機械部品や潤滑油は寿命が短い。そのため、大量・多種の補給が常に必要となる。


航空機は、以上の運用を間違えると墜落(機体と搭乗員の喪失)したり、稼働できなくなったりして戦力とはならない。しかも、これらは飛行のためだけで、航空攻撃の際は地上戦や海戦とは全く異なる運用や技術が必要となる。後述するように、これら全てを理解している航空戦の司令官が日本軍には少なかったと思われる。

15-2    航空戦力の量に対する考え方

日本の航空戦力の製造・運用は、量的には欧米にはるかに及ばなかった。このことは「アリューシャンでの戦い」の最後でも述べた。ここで、その一部を再掲する。

15-2-1    第一次世界大戦の経験

この原因は第一次世界大戦にあると思う。近年、欧米では第一次世界大戦と第二次世界大戦を一つの戦争として考え始められている。それまでの戦争(例えば日露戦争)では、銃砲弾などの消耗品を除いて、戦争開始以前に持っていた軍備で戦い、それで大方の勝負がついた戦争だった。しかし、第一次世界大戦では、それ以前にはなかった新しい兵器を戦争中に大量に生産して、それを戦場で使うことが戦況に大きく影響した。その典型的なものは航空機や戦車である。そしてそれらの量を確保するには、その生産設備をどうやって整備していくか、拡大していくかが重要となる。

航空機を見た場合、第一次世界大戦開始時は兵器としての威力はまったく不明だったが、戦争終了時にはその戦力としての重要性ははっきり確立していた。そのため、第一次世界大戦中に各国が製造した航空機の数は、ドイツが45704機、フランスが52034機、イギリスが55746機、ロシア(途中で講和)が5600機、遅れて参戦したアメリカが13894機である [42, p83]。当時の航空機の構造や材料は第二次世界大戦時とは異なるものの、これは航空機製造のための生産設備を整備し、パイロットの育成を含めて運用体系を確立していたということである。一方で、1918年までに日本が取得(輸入)した航空機は陸軍と海軍と併せて165機となっている [42, p82]。

第一次世界大戦後は平時となって各国の航空機生産は縮小し、航空機は商用利用へと移行した。しかし、当然次の戦争が起これば、それに匹敵する機数が必要になることは容易に想像できる。そして、欧州で次の戦争の兆候が見られた段階で、各国、特にアメリカは戦争に備えて数万機という大量の航空機の生産を計画して、その準備に着手した。しかも欧米の国々は、手直しや再構築は必要だとしても、第一次世界大戦を通してある程度はその大量生産の基盤と経験を既に持っていた。

ところが、第一次世界大戦で本格的に戦っていない日本は(駆逐艦の地中海派遣と青島攻撃のみ)、第一次世界大戦ではわずかな数の航空機を青島攻撃で試験的に使ってみただけで終わっている。戦後、それから航空機を戦力としてどう見なすかという議論が始まった。いくつかの卓見も出たが、当時は航空機の能力も未熟であり、断片的なもので終わったようである。

ひとついえると思うのは、1940年のバトル・オブ・ブリテンの観察である。これはスペイン動乱を除くと、近代的航空機を用いた初の本格的な航空対峙戦となった。米国では、ガダルカナル島で航空戦を指揮したロイ・ガイガー准将などの武官が、その状況をつぶさに観察している。関係は良くなかったが、日本は当時英国と戦争していたわけではなかったので、軍人や専門家を派遣して、ロンドン上空の防空戦を観察するなり、現地での公開情報を集めたり出来ただろう。実際に情報を集めていたとは思うが、その活かし方が、予め航空機に想定されている運用や性能に関することだけで、航空機が持つ戦争に対するポテンシャルを探るという観点が少なかったのではなかろうか。

海軍では海軍軍縮条約の抜け道として、航空機を艦隊決戦の補助戦力にしようとした。それによって開発された空母とその艦載機や陸上攻撃機は、ユニークなものとして評価されて良いと思う。ただ、その開発は艦隊決戦のための航空機単体の性能とそのための運用に終始した感がある。航空機が持つ戦争を変える潜在能力にまでの考えが不十分だったようである。例えば航空機による敵基地攻撃力も検討はされたが、結果的に不十分に終わった。そして平時でもあり、航空機の製造は基本的にオーダーメイドだった。そういう生産基盤しか持っていなかった。

15-2-2    航空機の製造について

戦時には大量の航空機を必要とする。そして前述したように、そのためには生産設備の拡充が必要となる。しかし、航空機の生産は産業の幅広い裾野を持っており、航空機の増産は組み立て工場をたくさん作れば済む問題ではない。金属の原料調達、アルミ精錬のための電力の増産(さもないとゼロサムゲームとなり、他の産業と取り合うことになる)、研磨などの工作機械の増産とその動力の供給、計器などの部品やタイヤなどの周辺部品の生産拡大が必要になる。特にエンジンは最高の技術を結集した特殊精密機械であり、しかも消耗品であるため(一定の使用時間毎に取り替える必要がある)大量に生産する必要がある。そして、組み立て時にはそれらの部品が同時に揃う必要があり、そのためには生産管理手法も不可欠となる。また増産には工員の増加も必要になる。

このように広い産業の裾野を持つ航空機の大幅な増産は、それを計画してから生産が軌道に乗るには少なくとも2~3年はかかる。しかも一部の工作機械は輸入する必要があったが、第二次世界大戦が始まると輸入が止まった(ドイツから調達する予定だったが、独ソ戦の勃発で不可能となった)。そのため、まず工作機械を時間をかけて国産化することから始まった。統帥部は量の問題を徐々に認識して、昭和初期から航空機の補充(増産)計画を立てていた。しかし計画を小出しにしたため、第1次補充、第2次補充、第1次の前倒し補充など、何度も途中で計画を立て直した。そのため生産現場は、生産しながら別な増産対応を何度も求められることになった。

米国では、第二次世界大戦の勃発を受けて、1940年から航空機の数万機の生産やパイロットの数万人にオーダーの育成が始まっていた(アリューシャンでの戦い ~忘れられた戦争~「11-4    アメリカ軍の航空戦力に対する考え方」参照)。日本では戦争が近づいてきて初めて、それまでの航空機生産計画あるいはその増産計画では足りないことがわかった。実績を見てみる。1939年1703機、1940年1633機、1941年2545機となっている [43, p104]。これには練習機も含まれている。戦争に入っても生産量の増加は鈍かった。1942年前半で生産量は月産200機(戦闘機が約100機、陸攻が約50機、その他(艦爆、艦攻、水上機など)が約50機)程度だった(1943年前半で月産400機) [43, p282]。これらの生産された航空機は蓄積されていくのではなく、使用時間に応じた寿命や破損、被害によって、戦時には時間と共にどんどん減っていくのである。それ以上の生産が必要となる。

日本は、航空機の消耗が大きいのを見てあわてて泥縄的に航空機生産を大幅拡大しようとしたが、そのためには前述したように産業の裾野を広げる必要があり、時間を必要とする。各工場、各社、各分野ごとに進められていた生産管理や作業効率化を本格的に推進するため、「日本能率協会」が設立されたのは1942年3月で、その指導が始まるのは同年後半からである。その成果が出始めた1944年末には、米軍の空襲と東南海地震による被害によって、航空機の大量生産が安定して軌道に乗ることは結局なかった。

第一次世界大戦などの航空戦を冷静に分析できていれば、戦時に航空機が大量に必要になることは、開戦前にわかっていたといえる。国産の機体と空冷エンジンの設計技術は1930年半ば頃から世界レベルに達した。それまでは輸入か外国人技師の設計に頼っていたことを考えると、その向上は驚異的ではあった。しかしそれは、航空機産業全体から見ると氷山のわずかな一角だけだった。航空機の多くの部分、例えば通信装置、照準器、搭載機銃、可変ピッチプロペラ(恒速プロペラ)、艤装などの技術はまだかなり遅れていた。燃料に必要な石油化学も同様である。しかも工作機械は輸入物が多く、大量生産技術も未熟だった。

一言液冷エンジンに触れておく。日本は液冷エンジンとしてドイツ製のダイムラーDB604を導入した。このエンジンの性能は良かったが、設計が凝っており製造時に特殊な工作機械による工数が大幅にかかった。この製造が工数的に空冷エンジンの製造の足を引っ張った(つまり液冷エンジンを製造しなければ、性能が安定した空冷エンジンをその数倍製造できた)といわれている。将来的な技術のための布石を打つ試験的な導入であれば良かったが、戦争を前に実戦での利用の可能性も想定した導入は当初から反対もあった。結局このエンジンを採用した航空機の実用化は遅れた上に稼働率は上がらず、最後は空冷エンジンに換装された。結局戦局の重大な時期に航空機の開発を遅らせた上に、空冷エンジンの製造を阻害しただけに終わった。

余談だが、山本五十六は1940年に零戦と陸上攻撃機の1000機単位での整備を進言した [43, p97]。私はこれを、これくらい機数を揃えないと航空戦を戦えない、という彼の意気込みを示したものと受け取っている。山本五十六は、この時期の日本の生産設備から、これだけの機数を揃えるには、設備を拡充するために大幅な時間がかかることを知っていたと思う(1940年までの陸攻の製造実績は年200機未満)。また、搭乗員の育成や整備体制の構築も必要になる。これらの航空機数を定常的に維持することは、航空機購入の予算を取ってくれば直ちに実現できる、というような単純な話ではない。そのため、彼は簡単に実現できるものではないことを承知していたと思っている。

生産量の話ではないが、もう一つ余談を載せる。一式陸攻の開発時に三菱の本庄技師は、海軍の提示仕様に対して4発機を提案した。しかし、海軍側は用兵についてはこちらで決定すると却下してしまう(佐藤暢彦著「一式陸攻戦史」)。本庄技師の提案は、海軍が提示した航続距離と防弾性能を勘案すると妥当な結論だった。しかし、海軍側にも言い分があったと思う。仮に4発機を開発するとなると工場を拡張して製造して終わりではない。4発機を運用するためには既存の滑走路や誘導路の規格(長さや厚み)や搭載用の諸設備などから変更しなければならない。当時の国力からすると、それは無理だったのだろう(4発機の開発を中島飛行機の方に割り当てようとしたという説もある。それは「深山」となり失敗した)。

航空機のポテンシャルはエンジンで決まる。馬力が一定のままでどこかで無理をすると、必ず別のどこかにそのしわ寄せがいく。海軍の仕様を双発機で実現するために、本庄技師は一式陸攻でインテグラルタンクという防弾のしづらい燃料タンクを採用せざるを得なくなり、実戦での被害が激増することになった。もし一式陸攻を4発機にすることができていれば、B-17爆撃機相当の性能になっていたかもしれない。

15-2-3    操縦者の養成問題

15-1節の6.で述べたように、操縦法の習得には多大な時間がかかる。第二次世界大戦の頃は、欧米では第一次世界大戦時のパイロットがちょうど引退する時期に当たっていた。彼らは戦闘の第一線で活躍するのは無理でも、練習機の操縦程度はできる。前述したように、操縦にはどこかで一対一での訓練が必要になる。第一次世界大戦時の大勢のパイロットが、新規パイロットの養成に当たったことが、大量のパイロットの速成に貢献したようである。第一次世界大戦の航空戦にほとんど参戦していなかった日本には、当時引退した操縦経験者の数が極めて限られていたと思われ、訓練には現役の操縦者が当たっていた。そのため、戦場の操縦者も教官の操縦者も両方とも全く足りなかった。

しかも日本はとにかく少数精鋭主義で、戦前には操縦者を募集しても、実際に操縦者になるのは応募者の数パーセント程度だったと思われる。しかも養成体系も場当たり的で、途中から多数の養成課程が林立した。課程によっては、操縦技術をある程度身につけた後でも、最終的に不適とされた人もかなりの数に上ったようである。「操縦練習生」課程の例を見ると、1500人応募して試験で150人に絞られ、さらに50人は身体検査で落とされた。残った約100人が操縦課程に入るのだが、そこでも選抜されて、最終的には20数名が、戦闘機や攻撃機の操縦者となった例がある [44]。

平時には大量の操縦者は不要だろう。しかし、戦争時に大量の操縦者が必要になることがわかっておれば、操縦技術をある程度身につけた人を不適としても、予備操縦者のような資格で、いつでも再度登用できるようにするなどの仕組みを作れたのではないか?彼らは、輸送機や哨戒機の操縦は問題なく行えたかもしれない(輸送機は操縦者不足で民間航空からの徴用も行われた)。また、慣れてくれば彼らの中から戦闘や攻撃の操縦技術に卓越する人も出てきたかもしれない。

15-3    搭乗者の疲労への対処

航空戦が特殊であることの例として、操縦者の疲労の問題を特に取り上げておく。これは「アリューシャンでの戦い」の「12. 戦争全体の総括とおわりに」にも取り上げたものである(参照文献などはそちらに記載がある)。

特に操縦者にとっては、操縦以外に航法の判断、3次元での常時の警戒、上昇降下時の気圧変化などによる疲労が大きな敵となる。一定程度飛行を重ねると食欲の減退、判断力の低下、気力の低下を招く。これは航空病とも呼ばれる。その対応に、米国ではパイロットへの実線・休養・訓練のサイクルを確立するなどして配慮が行われていた。空中勤務者には、300時間の戦闘飛行後に本国帰還休暇の権利が与えられた。またその中間で、豪州ヘの短期休暇が活用されていた。

日本では、戦前から航空疲労等の実体解明に努めていたが、戦史叢書によると、「その原因・病理・治療法・予防法等について成案を得ないまま、大東亜戦争に突入した」 [45, p459]とある。戦時中の日本軍では操縦者の特殊な環境はほとんど理解されず、操縦者を一般兵士と同様に酷使した。慢性航空疲労のため無気力に陥った者を、卑怯者や精神病者と同一視する風潮も一般には存在した [45, p274]。

そういった航空機運用の特殊性は、軍内であまり理解されていなかったようである。操縦者の疲労や悪天候などのため航空部隊が出撃できない状況を見て、航空兵科以外出身の指揮官が「空中勤務者は精神力が劣っているから再教育をすべきだ」との意見書を出した例もあった。坂井三郎氏の「大空のサムライ」には、本土で訓練している操縦者に支給されていた特別栄養食を支給停止にした主計長を、2座の零戦の後部座席に乗せて、実戦同様の飛行を行って操縦が如何に過酷であるか、ということを納得させた話が記載されている [46, p339]。

航空戦は一瞬の判断の遅れが致命的となる。そのために迅速な判断力とそれを支える体力が要求される。病気や体調不良はこの判断力に影響する。航空戦の特殊さが理解されなかった結果、疲労どころか、搭乗員がマラリアや下痢などの病気になってもそのまま出撃せざるを得なかった [45, p274]。疲労によって、通常では起こさないような判断ミスによって撃墜されたベテランも少なくなかったと思われる。「死ななければ帰してもらえない」 [43, p266]という声があったほどで、搭乗員には悲観的な空気が流れたりした。

日本軍では、1回だけの決戦主義だったせいか、「損害を省みず」という風潮があったように見える。そういう考え方で操縦者も一般兵士同様に使い捨てにした面があるのかもしれない。操縦者よりも戦局を優先した結果、熟練操縦者を酷使してその多くを失い、その代わりに投入した未熟な操縦者は戦闘に習熟する前に撃墜されてさらに戦局が悪くなる、という悪循環に陥った面があると思われる。

15-4    航空対峙戦への理解

「アリューシャンでの戦い」において、飛行場の建設が遅れた理由として当時の海軍の航空戦に対する理解不足を述べた。ガダルカナル島をめぐる戦いにおいても、ガダルカナル島をはじめとする飛行場の建設・整備などの、制空権を巡る航空戦が大きなウェイトを占めていた。この日本軍の航空戦に対する理解不足が、あらゆる場面で通奏低音(音楽において全体を通じて基盤を支える低音のこと)のように響いてくる。そのため、この件について、より一般的に考えてみる。

なお、陸軍の航空機数は日本軍の航空機のほぼ半分を占めていたが、もともと対ソ戦を想定して大陸での使用が想定されており、機体性能だけでなく、運用体制を含めて島嶼での運用には不向きだった。陸軍機は後にラバウルやニューギニアにも配備されたが、緒戦(マレーシア・ビルマ付近)と大戦末期(本土付近)を除いてほとんど活躍できなかった。陸軍は対ソ戦(大陸での戦闘)に過剰適応していたといえるのではないかと思う。ここでは海軍に話を絞る。

日中戦争では、日本軍はゲリラ戦的な爆撃を受けることはあったが、制空権を失うとどうなるかということを思い知らされる深刻な事態は発生しなかった。マレー侵攻作戦では日本は積極的に航空撃滅戦を行ったが、奇襲だったこともあって多くの場合、予想外にうまくいった。それらのためか、日本軍では航空機の真の威力(脅威)に対する理解が希薄だったようである。

日本軍の方から攻めていったアリューシャンのキスカ島などでの戦いを見ても、その戦い方は日本軍の航空戦力に対する認識不足を裏付けている。日本軍は1942年6月に占領したキスカ島とアッツ島に水上機基地は設営したものの、両島に飛行場を作らなかった(アリューシャンでの戦いの「4. 西部アリューシャンの防衛」参照)。米軍は8月28日にアリューシャン列島中部のアダック島へ上陸して飛行場を建設し始めた。ところが日本軍は9月中旬に戦爆連合による空襲を受けるまでそれに気づかなかった。アダック島の飛行場によって、米軍航空機の飛行時間はアラスカからの半分近くになり、戦闘機も随伴するようになってキスカ島上空の米軍の制空権は強化された。さらに翌年2月には、キスカ島からわずか130 kmのアムチトカ島に飛行場を作られた。それによって制空権をほぼ常時握られた結果、キスカ島とアッツ島への日本軍の補給は実質的に途絶した。日本軍は1942年6月に上陸しておきながら、10月に飛行場の建設を決断するまで、そういった航空機の脅威を見通せなかった(結局飛行場建設は、輸送妨害による資材不足により翌年5月の米軍のアッツ島上陸に間に合わなかった)。

ガダルカナル島の戦いでも、日本海軍の6隻の空母からなる機動部隊が健在であれば米軍も容易に近づけなかっただろうが、ミッドウェー海戦の敗退によって、ガダルカナル島などの勢力圏の先端で航空対峙戦(敵味方の航空戦力が連続的な攻防を行う航空戦)が発生する条件が揃っていたという認識が薄かったと思われる。艦船の建造と異なり、量産している航空機の短時間での補給はそれほど難しくない。そのため航空対峙戦において、敵の航空戦力を削いであるいは敵から航空攻撃を防いで作戦範囲の制空権を確保するためには、被害を一回与えるだけではだめである。強力な航空戦力(補給力)を持った基地を(できれば複数)置いて、敵の航空基地を叩き続ける(最終的には補給を断つか占領する)しか方法はなかったと思われる。

しかし日本海軍は、航空戦力による敵艦隊の漸減作戦はあっても、制空権確保のために敵陸上航空基地を叩き続けるという航空対峙戦の発想が十分でなかった。その証拠に、陸上攻撃機はあくまで艦隊決戦の漸減作戦のために開発されたものだった。陸軍の爆撃機は海洋上の遠い島嶼の敵基地を爆撃することを想定されていない。事実上、敵陸上基地を叩くのは海軍の陸上攻撃機が流用されることとなった。しかし陸上攻撃機には本来雷撃が想定されていたため、爆撃専用機には性能(爆弾量など)は及ばなかったと思われる。

航空対峙戦においては、一定量の航空戦力(戦闘機と爆撃機)による先制と集中、及び補給が大きな要素となる。制空権を確保し続けるためには、飛行場を迅速に建設して航空戦力を十分に集中させて補給体制を整えて、付近の敵の航空戦力を先に圧倒し続ける必要があった。航空機の量、補給能力、基地設営能力を見ても、日本軍ではそれが十分に理解されていなかったと思われる。

 

1942年8月28日、ニューヘブリデズ諸島のフィラ港で、航空機輸送艦キティホーク(APV-1)から吊り上げられて護送空母ロングアイランド(ACV-1)に移されるグラマンF4F戦闘機 。この飛行機は、米海兵隊機の第2陣の一部としてガダルカナル島に向かう途中だった。80-G-73394。https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-70000/80-G-73394.html


15-5    航空戦での通信について

各国での無線の発達によって、日本陸海軍でも輸入通信機を参考にして、航空用の無線機の開発が行われるようになった。そして軍用機に広く装備されるようになったのは、海軍では96式、陸軍では94式と呼ばれる形式の無線機からである。これは単座、多座、中型機用に各種あった。おもしろいのは、電話機能は電信機の中の補助機能だった点である(つまり両方の機能を備えていた) [47]。ただし、電話機能の性能が悪かったこともあって、近距離での一部の隊内電話を除いて、ほとんどの通信には電信員による電信が使われたのではないかと思われる。

単座機では無線機を一人で操作するのは大変なので、単座機用の空1号型無線機は電話機能が主で電信機が従だった。ところが電話機の性能が悪い上に、操縦者は全てがモールス信号の教育を受けていたわけではなかったので、一部の操縦者によるモールス信号を使った電信を除いて、単座機では無線通信をほとんど行わなかった。例えば、零戦には96式空1号無線機が装備されていたが、雑音が多くて無線電話としてはほとんど使い物にならなかったため、無線機を取り外していた機体も多かった。

その後も無線電話の出力を上げたり真空管を改良したりして、3式空1号無線機としたが、抜本的な解決には至らなかった。無線電話機の雑音は、結局1945年2月に本土で撃墜した米軍機のアースの取り方を学んでほぼ解決した [47]。つまり、この時点からようやく航空機用の無線電話がまともに使えるようになった。例えば戦闘機「紫電改」を装備し、1945年に入ってから活躍した343空の戦記を読むと、ようやく無線電話による記述が数多く出てくる。

日本軍は開戦直後から南方で数多くの英米機を捕獲や撃墜していた。それらの通信装置の構造を調べれば、本土で米軍機を撃墜する遙か以前に、アースなどによる雑音問題は解決していたかもしれない。ちなみに、米国はアラスカで零戦を捕獲した際に、まっさきに無線器の水晶片を押収して、重要な通信波長を調べている。

複座機の通信機も、必ずしも動作が安定しない場合があった。例えば第二次ソロモン海戦の戦訓委員会では、空母「翔鶴」の艦爆指揮官機の受信機が不良であり、また空母「瑞鶴」の艦爆指揮官機は誤受信して、その結果敵空母を逃したと述べている [4, p571]。通信機全般に性能の安定性に斑があったということであろう。原因は真空管などの部品の品質にあるのか回路時自体にあるのか不明だが、日本の通信機器の性能が米軍より劣っていたことは事実である。

欧米諸国が1939年の第二次世界大戦当初から航空無線電話を実用化していたのに対して、日本で無線電話の開発が遅れたのは、アース(接地)や真空管などの技術面の後れもあるが、通信に対する文化の違いも大きかったと思われる。それには運用面での必要性の切実性が欠けていたことも影響しているかもしれない。

日本の戦闘機は単機または小隊単位(3機または4機)で、操縦者が目視をベースにした自己の判断だけで戦っていた。ミッドウェー海戦で防空を担当していた零戦パイロットの原田要は、「(艦隊上空の)直衛隊を指揮する総指揮官がいてくれたら」と述べている。通信機器も事実上電信機しかなく、空戦に入ると使えなかったし、故障も多かったとも述べている [44, p200]。米軍では空戦が始まると戦闘指導員(指揮官機かもしれない)のような役割の機が空戦域から外れて全体を俯瞰して、各機に電話で空戦の指示を行っていた。優秀な零戦乗りで有名だった坂井三郎氏は、そのような空戦域から外れた敵機を狙って撃墜していたが、米国がこのような組織的空戦を行っていたことについては、戦後に知ったと述べている [48, p107]。

ガダルカナル島への上陸時の航空機の利用を見ると、米艦隊の情報を集めた防空指揮官からの、無線電話による状況に応じた航空機に対する統一的な指揮(場所を指定した敵機迎撃や地上攻撃)と比べると、日本軍機の集団としての戦法は各自の判断しかなく、米軍と雲泥の差があった。当然これは日本軍の航空優勢が失われていく一因ともなった。そして、これによる劣勢はマリアナ海戦やフィリピンでの戦いでさらに輪をかけることになる。ただし米軍では、当初は空中戦になると大勢のパイロットが夢中になって無線で話し始めるので、無線電話の輻輳(指揮官からの通信ができなくなる)に手を焼いていた。これは運用の問題である。

15-6    電波誘導兵器について

15-1節で、航空機運用の特殊性について述べた。そこで述べたように、航空機の航行が難しい一つは、飛んでいる自機の高度や位置の把握である。何度も飛んだ航路で地形を頭に叩き込んでおけば、地形から位置を割り出すことが出来るかもしれない。しかし、常に晴れて地上が見えるとは限らないし、初めての地域を飛ぶこともある。また夜間や海上を飛ぶこともある。しかも、飛行機の航路は風に流される。高度も電波高度計ではなく気圧高度計を用いれば、場所の違いや時間による気圧の変化の影響を受けることがある。着陸や雷撃の際には、正確な高度の把握が出来なければ支障となる場合があるだろう。

まず操縦者が気にすることは、無事に戻れるかである。この不安と戦うプレッシャーは、特に海上では相当なはずである。この不安を軽減するのが帰投方位測定器である。真珠湾攻撃時に飛行隊長だった渕田中佐機には、クルシーと呼ばれる米国製の帰投方位測定器が搭載されていた。日本でも零式帰投方位測定器、一式帰投方位測定器が開発されて、戦闘機や艦上爆撃機、攻撃機に制式採用されていた。しかし、あまりその利用の記述を見ない。一般には、部隊の所在を秘援するため厳重な無線封止が必要であり、無線帰投装置に頼ることは慎まねばならなかったこともあったようである [43, p188]。一方で、機の位置を見失って移動先の飛行場が見つからず、不時着したりそうなりかけたという記述もある(もちろん、生還したからこそ記録が残っている)。特に搭乗員の質が低下した大戦後半には、天候の影響などで海上で機位を失って帰り着けず、行方不明になった単座機も多かったと思われる(機位だけでなく、操縦者の質、機材の質、整備の質、通信・誘導装置の質などいろんな要素が絡んでいると思われる)。

そして次に、攻撃目標に正確に到着できるかどうかにとって必要なものは、電波誘導装置である。欧州戦線では多飛行場からの多数機(数百機)による一か所の正確な目標爆撃を行うため、1942年初めから電波誘導装置とそれを用いた戦法が開発されて使用されていた。英国ではG-BOXや「オーボエ」と呼ばれる電波誘導装置を開発したり、それを搭載したパスファインダーと呼ばれる誘導機を用いたりした。ドイツもそれに相当する電波兵器の開発を行っており、相互に競争していた。1942年のガダルカナル戦の時期の話である。それは、その後、大戦後期にはH2Sと呼ばれる地上地形投影装置や航空機への敵味方識別装置の搭載などに発展していく。

それに対して、日本軍では無線帰投装置(小型機)や無線方位測定儀(中型機以上)があったが、それら以外の電波誘導に類する装置の実用化はほとんど進んでいなかった。日本軍の航空機は、飛行位置の推定には推測航法(飛んだ方向と時間で位置を割り出す手法)を基本とし、時に天測を利用していた [43, p185]。推測航法では、時刻と場所によって変わる風を正確に推測して補正しないと誤差が発生する。しかし、飛行しながら風向風速を正確に推測するのは容易ではない(洋上では波しぶきの量と向きなどを見たようである)。

陸上の目的地への到着には、近づけば地形や目的地が見えることが多く、それで良かったかもしれない。しかし海洋上で敵位置を正確に特定するのに天測を用いたとすれば、哨戒機や偵察機に搭載された時計の精度には限界があったかもしれない(時刻と位置との関係は後述する)。さらに、出発前に時刻を合わせたと思われる母艦の時計も本当に正確だったかどうかもわからない(航海では多少の時刻誤差があっても大きな問題とはなかったはずである)。例えばマリアナ海戦などを見てもわかるように、哨戒機や偵察機から報告された敵位置が、実際の位置と相当なずれがある場合があった。この原因はわからないが、風による航路の誤差や時刻の誤差による影響がなかったとは言い切れないと思われる。

人間の感覚は錯覚を起こし、雲中では上下さえわからなくなる場合があるという。自機の方位・速度と風向風速による偏差を計算しながら長距離を飛行するのは、相当に大変だったはずである。それが攻撃の精度を落とし、搭乗員の損失にもつながったかもしれない。日本軍は、少なくとも電波誘導装置を用いた航空戦に対しては、近代戦とは呼べない人間の感覚を頼って戦っていたといえる。

余談になるかもしれないが、クロノメータの話をしておく。戦争に限らず、天測によって位置を確認する話を聞いたことがある人も多いだろう。GPSなどない時代、海上を哨戒中に敵艦などを発見した場合には、天測はその正確な位置を特定するために必要な作業となる。ところが天測をしても、緯度は北極星でわかっても、経度を特定することは簡単ではない。それは天体の位置が時刻とともに変わるため、正確な位置を出すためには正確な時刻が必要となるためである。これは大航海時代から自船の経度を知るための重要な懸案だった。西洋では経度を把握するため、航海中にずれないクロノメータという特殊な精密時計が発明された。

ところが、戦前の日本にはこのクロノメータを作る技術がなく、全て輸入していた。そして第二次世界大戦が始まると、クロノメータを輸入できなくなった。あわててその開発に乗り出したのだが、それを主導したのは中央気象台だった(各地の気象や地象の正確な発現時刻の特定に必要だった)。いくつか試作品の開発には成功したが、とうとう終戦まで量産できなかった。結局、軍でも数少ない輸入したクロノメータを使うか、時刻のずれが少ない精密時計を製作して代用していたのではないかと思われる。しかし、代用品の精度はクロノメータには及ばなかったはずである。

戦前から日本放送協会は国内向けに1日2回時報をラジオ放送していた。それでなくても軍の大型の通信所から時報を大出力の電波で定期的に流せば、クロノメータがなくても良さそうなものだが、そういう記述を見たことがない。電波がない時代ならばいざ知らず、なぜ敢えてクロノメータを開発しようとしたのか?海軍の時計は正確だったのか?その辺の事情をご存じの方があれば、教えていただきたい。


15-7    日本軍の対空兵器の貧弱さ

日本海軍の高角砲の主力であった89式12.7cm高角砲は主に重巡洋艦や水上機母艦などの大型艦に搭載されていたが、単位時間当たりの少ない発射弾数や旋回速度では弾幕を張れず、効果は低かった。高角砲(高射砲)の場合は、感で撃っても3次元で飛び回る航空機にはまず当たらない。敵機の周辺で砲弾が炸裂するように、敵機の位置や速度から将来の高度、距離を予測しなければならない。それは射撃指揮装置の役割となる。しかし、89式高角砲は射撃指揮装置と直接つながっていないなど、対空防御システム全体としてみても問題があったようである。

高射砲として比較的性能が良い98式10cm高角砲は、1942年から新型の「秋月」型駆逐艦に主砲として搭載されていた。これは欧米の高角砲レベルの性能を誇ったようだが、故障が多かったという報告もある。「秋月」型以前の多くの日本軍駆逐艦に搭載されていた主砲(3年式12.7cm砲)は平射砲で、基本的に対空用には使えなかった。

一方で、米海軍の主な駆逐艦の主砲(Mk-12 5インチ砲)は高角砲になっていて、対空用にも使えた(発射弾数は4~5秒に1発。日本の89式12.7cm高角砲は10秒に1発程度)。Mk-37 射撃指揮装置もレーダー連動だった。多くの駆逐艦の主砲が対空用に使えたことは日本の駆逐艦と大きく異なっている。3-2-2節に米軍高射砲の弾幕の中を突撃する陸攻の写真を示したが、空中の多数の煙は高射砲弾の爆発を示している(当然、これ以外に機銃弾も飛んでいるはずである)。これは、米艦隊の高射砲の数と性能を示していると思われる。

 米軍の対空兵器の優秀さは、8月9日の米国駆逐艦「ジャービス」への陸攻での攻撃でも現れている。8月7日の攻撃で大破した「ジャービス」は、9日に油を引きながら単艦で豪州へ退避しようとしていた。同艦は損傷していて単艦だったにもかかわらず、9日に陸攻16機で攻撃された際に、陸攻に自爆2機、不時着1機の損害を与えた(最終的には撃沈された)。このクラスの米軍の対空兵器は、1943年以降VT信管(近接信管:発信器からの反射波によって命中しなくても機体の付近で爆発する)の採用で威力が飛躍的に増大した。

 日本の駆逐艦などに多用された96式25mm機銃は、給弾は15発入りのマガジン方式だった。これでは5~6秒ごとにマガジンを取り替えて給弾が必要となる。これの有効射程は1500 m程度だった。これだと高度2000m程度で様子をうかがう敵機を撃墜できない。これらの対空機銃では、弾道に直角に高速で移動(周回)する航空機に対して、高速で被弾回避の転舵をする艦上から弾を命中させるのは、至難の業だっただろう(射撃指揮装置が追随できなかったという話もある)。

日本軍25mm三連装高射機関砲。1942年10月、ガダルカナル海外で撮影。https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/USMC-51000/USMC-51806.html

 

 ガダルカナル島への輸送で、日本の船舶は米機に徹底的にやられた。駆逐艦「荻風」や「睦月」(「月」がついているが「秋月」型ではない)はB-17による爆撃によって被爆している。撃沈された特設巡洋艦「金龍丸」の兵装は、3年式14cm砲4門、93式13mm連装機銃2基の装備だった。3年式14cm砲は対空用ではない。93式13mm機銃の有効射程は約1000mである。しかも、照準は手動な上に給弾はマガジン式のため、4秒以上の連続射撃はできなかった。多くの輸送船は高角砲を設置する改修を行う暇がなく(場合によっては船体の補強が必要)、数門の対空機銃の装備だけだったと思われる。よほどの熟練した射手でないと命中させることは難しかっただろう。

ガダルカナル島での戦いで、日本の輸送船と「秋月」型以外の駆逐艦は、事実上敵機が1000m程度まで近づかない限り、敵機に対して防御のしようがなかったと思われる。ただアリューシャンでの戦いで記述したように、輸送船に陸軍の88式7cm野戦高射砲を仮設して、乗船していた陸軍高射砲部隊が敵爆撃機の撃破に成功した例もある。もしそういう形をもっと取ることが出来ていれば、輸送船の空襲による被害を軽減できていたかもしれない。

日本海軍には、2-4 km先の航空機を撃破できる口径40~80mm程度の高射砲(高角砲)がなかった。口径10 cm以上の高角砲は、単位時間当たりの発射弾数が少ないので、弾幕を張りにくく、小口径の高角砲(40-80 mm程度)の性能を兼ねることが出来ない。小口径の高角砲がなかったことが、米機が日本軍の艦船に接近しやすくしていた面があったと思われる。欧米では第二次世界大戦直前頃から、優秀なスウェーデン製のボフォース40mm砲を導入し始めたが、当時開戦前だった日本がなぜ導入しなかったは不明である。開戦後に英軍から捕獲した同砲のコピーの開発を陸軍が始めたが、終戦までに間に合わなかった。

実質的に機銃しかなかった日本軍の駆逐艦や輸送船では、攻撃できたのは敵機が約1 km以内に接近してからだった。しかも命中精度は射手の技量に依存していた。大戦後半になると、安心して近づけることがわかったのか、日本軍の艦船を比較的近くから撮影した米軍機からの航空写真が多くある。

1943年3月のビスマルク海戦(ダンピールでの海戦)で、米軍のB-25爆撃機が至近距離で撮影した日本軍の駆逐艦
https://ww2db.com/images/battle_solomons80.jpg

また、日本艦船の対空兵器の貧弱さに気づいた米軍は、大戦後半には双発爆撃機B-25の機首にブローニング12.7mm機銃8丁を搭載して、襲撃機として利用した(C型、D型)。これらから発射される毎分約4800発の弾丸の威力はすさまじく、駆潜艇や海防艦、輸送船などの甲板は薄いので、容易にこれを貫通できた。まず対空機銃を沈黙させた上で、船体を掃射して穴を開けることで機銃だけで撃沈した。この方法は爆弾を命中させる必要がなく、遠くからの効率的な船舶の掃討につながった(戦闘機でも6丁の機銃で行われた)。

15-8    司令官の航空戦への理解

15-1節の航空機運用の特性を踏まえた上で、航空攻撃にはその場での状況に応じた効果的な攻撃法と運用方法を選択する必要があった。これは他兵科から見ると極めて独特かつ特殊だった。ところが、日本軍の司令官クラスは、ほとんど航空戦の経験がなく、航空戦の理念や上記特性の一部を理解していたとしても、これらの特性を十分に体得して航空機を運用できた人は、はなはだ少なかったのではないかと思われる。

15-8-1    米軍の場合

アイゼンハワーやキングなどの軍首脳は、実は操縦経験を持っていた。また第一次世界大戦に参戦した米軍には、アリューシャンでの戦いで活躍したアラスカ軍司令官のバックナー(その後沖縄戦で戦死)、南太平洋軍司令官ゴームリーを補佐したハーモン将軍など、第一次世界大戦時のパイロットが司令官クラスとして育っていた。また、太平洋の各地で水陸両用作戦を指揮した海軍のリッチモンド・ターナーも元パイロットであり、航空隊を指揮した経験もあった。彼らは水陸両用作戦で航空機の特性を理解した上で指揮していたと思われる。さらに米国海軍は、航空部隊の指揮官と空母の艦長を航空分野出身の士官のみから選出していた。ウィリアム・ハルゼーは52歳で操縦免許を取得してから空母サラトガの司令官となっている [49]。

またパイロット養成に関して、海軍パイロットのパイオニアの一人だったヘンリー・タワーズは、1942年10月太平洋航空軍司令官になると、第一次世界大戦で活躍した数多くの予備役のパイロットを、新人パイロットの育成にあたらせる体系的なプログラムを確立した。これが大量のパイロットの迅速な育成を可能にした。第一次世界大戦の航空戦に本格的に参戦しなかった日本では、操縦者を養成できるような退役した操縦経験者は、極めて少なかったと思われる。

15-8-2    日本軍の場合

一方日本軍では、航空戦隊の司令官クラスが若かった頃は、航空機は兵器とはほとんど見なされておらず、航空機に対する知識があったとしても、時代遅れのものだったと思われる。急速に威力が増大した航空機の実態に関して、従来の戦車などの武器との用法の違いがよくわからず、航空機独自の戦い方のノウハウがなかったとしてもおかしくない。また急速に発展した航空機が持つ威力を、若い頃の航空機との違いをよく理解できずに、過小評価していたかもしれない。

そのためか、陸戦や海戦では戦術家として有能な司令官でも、航空機をうまく活用できるとは限らなかった。ましてや多くの司令官クラスは、従来の陸上や海上での戦法や武器の使用方法を、そのまま空中に当てはめて考えていた人も多かったと思われる。陸軍で航空機の専門家だった南方総軍参謀の谷川一男大佐は、「地上軍は航空の複雑な機構と運用を理解する幕僚組織を有していない」と述べている [50, p180]。これはつまり、地上軍は航空戦を従来の地上戦の延長のような理解で見ていたことを示している。

この頃海軍には、若い頃から操縦に携わり、各地の戦場を飛び回って航空戦に熟知した中佐クラスがいた。源田実、淵田美津雄、内藤雄などがそうだが、飛行隊長や参謀にはなっても司令官になるには日本軍の制度では早すぎた。その結果、航空戦に無理解な司令官によって、航空戦力を無為にすりつぶすやり方で航空機の作戦や運用が行われたこともあったのではないかと思われる。

軍用航空機の操縦者には優れた操縦技術が求められる。その習得には時間と手間と費用がかかる。おそらく、それまでこれほど養成に手間のかかる兵種というのはなかっただろう。操縦者は、1銭5厘のの葉書でいくらでも徴兵できる一般兵士とは、ある意味で対局の立場にある。そして上述した疲労の問題もそうである。極めて特殊な技能を有していた搭乗員の損失による影響を、航空戦の司令官を含む戦争指導者たちはどの程度理解していたのだろうか?そして、その養成は一朝一夕には出来なかった。開戦後に操縦者の大量養成を開始するが、機材も指導者も、そして時間も全く足りなかった。その遅れが日本の航空戦に対する認識を物語っていると思う。

また、15-2節とも関連するが、多数の航空機のまとまった運用も日本は出来なかった。これは通信の問題とも関連しているかもしれない。日本では、意思疎通を図りながら効果的な航空攻撃を行えるのは、多くても30機程度が限界だったようである。例外は真珠湾攻撃であるが、これはこの攻撃だけに特化して訓練した、例外的な特殊任務部隊と考えれば辻褄が合う。その後もこの部隊でトンコマリ空襲など行ったが、搭乗員の異動などで、徐々に組織的な連携は崩れていったようである(それを真珠湾攻撃隊長だった淵田中佐は嘆いている)。つまり、日本は個々に磨いた技術を重視はしても、それを組織的に連携する、あるいは継続させるための一般的な仕組みを構築して、それを発展させる理念が薄かったのではないかと思っている。

多数機によるまとまった航空攻撃が難しかった典型的な例の一つは、ラバウルからの「い」号作戦である。例えば1943年 4月7日のX攻撃(ガダルカナル島)では、合計で戦闘機157機と急降下爆撃機67機が、制空2隊(21機と27機)、攻撃4隊(47機、44機、47機、41機)に分かれて出撃した [51, p112]。

敵機の偵察によって奇襲は望めず、この程度の機数の制空隊では、制空隊は自軍の数以上の戦闘機の迎撃を受け、敵機による攻撃機への迎撃を封じることはできなかった。その結果、各攻撃隊(戦爆連合)は敵機の迎撃を受けた。当然、対空砲火も熾烈だった。第1次~第2次攻撃での攻各隊の被害は2~5機、第3次攻撃は7機に上った。敵機の妨害もあり、その場で目標を絞れなかった面もあった。しかしその場での連携が円滑に行えれば、各隊の攻撃目標や方法を適切に振り分けたり指示したりして、もう少し改善できた余地があったかもしれない。ガダルカナル島周辺には35隻の船舶がいたが、これだけの規模で攻撃を行った割には、戦果は駆逐艦1、油槽船1、掃海艇1の撃沈と、他に若干の損傷艦があっただけだった [51, p114-115]。

日本海軍では航空分野を指導経験した司令官クラスとして、塚原二四三、大西瀧治郎、草鹿竜之介、山口多聞などがいたが、操縦経験を持っていたのは大西瀧治郎だけだった。しかも彼らの若い頃とは航空戦は全く別物となっており、対米戦ではわずか数年前の日中戦争時の経験さえ通用しなくなっていた。開戦後航空部隊が急拡大しかつ被害が増加するにつれて、不足してきた航空部隊の指揮官クラスに、あちらこちらから航空戦の経験がない無い指揮官を集めて来ざるを得なかったかもしれない。そうだとすると、航空戦の実態にそぐわない運用がなされたとしてもおかしくない。

実戦における航空戦の実態を知って1942年後半に策定されたとされる日本海軍の「海戦要務令続篇(航空戦の部)草案」には、戦訓所見案として次が挙げられている [52, p73]。

(イ)航空隊指令 特ニ有能ノ士ニシテ飛行機部隊ノ直接指揮可能ノ人物ヲ充當スベキコト
これは航空攻撃による戦果があまりにも上がらないために加えられたのではなかろうか。

15-9    戦闘機とは?

15-9-1    戦闘機の役割

航空戦へ理解の最後に、私見として太平洋戦争での戦闘機の役割について述べてみたい。敵の戦力(艦船、大砲、兵士、陣地、補給物資)を破壊するのは攻撃機の役割である。戦闘機の主な目的は、その攻撃機の護衛である。たとえ戦闘機が敵戦闘機を全機撃墜しても、味方攻撃機が攻撃に失敗すれば、攻撃の目的は達成されない。英国や米国では、特に大戦後期には戦闘機の性能の向上により、戦闘機の役割に戦闘爆撃機(ロケット弾や爆弾を装着しての地上支援)も含まれたが、それはまた別な話である(日本やソビエト連邦は襲撃機として別機種だった)。

突き詰めて考えると、戦闘機の目的の成否は、敵迎撃機を排除して味方攻撃機が敵の攻撃と反対に敵爆撃機の迎撃による味方の防衛に成功したかどうかによる。戦闘機による戦闘は、攻撃機や基地を守るための手段であり、目的からすると広い意味での(攻撃機や基地の)護衛機という名称が相応しい。(護衛の派生手段として、敵戦闘機をおびき出して掃討する場合もある。)

しかし、個人的には「戦闘機」という名称が一人歩きしたのではないかという感想を持っている。つまり、敵機と戦闘して撃墜するか撃破することが、(明示的でなくても)戦闘機の目的となっていたのではないか、ということである。例えば零戦のデビュー戦での敵機の大半を撃墜という華々しい戦果の宣伝も、そういう戦闘機の成果を強化したかもしれない。それは間接的に味方攻撃機を護衛することにもなるが、敵機の撃墜・撃破だけが護衛のための手段ではない。要は、敵機が味方攻撃機の攻撃に失敗するか近づくことができなければ、戦闘機の目的は達成される。それに戦闘機に限らず敵航空機は、そもそも空中ではなく地上にいる間に破壊するというのが本来の理想である。

しかし戦記を読むと、個人の撃墜数のカウントは戒められているものの、どうしても敵機の撃墜や撃破に空戦の重点が置かれているように見える(もちろん、自分への攻撃をかわす場合も数多くあっただろう)。もしそうであれば、それは日頃の航空隊での教育や訓練方法の結果なのだろう。そして、零戦の20mm機関砲などの武装の採用もそれを目的にしているように見える。そのため、戦闘機の機銃(機関砲)について考えてみる。

15-9-2    戦闘機と機銃

戦闘機が用いる武器は最終的には機銃であり、それを用いた攻撃をやりやすいように飛行性能がある。いってみれば戦闘機は「空飛ぶ機銃」である。しかし開発や装備に関して見ると、戦前の日本では戦闘機の飛行性能と比べて、機銃の国産化や性能へのこだわりをそれほど感じない。飛行機そのものの開発とは異なり、開戦当初は機銃のほとんどは欧米製のライセンス生産か、その若干の改造程度で、数も各機銃2門程度だった。

私は銃に触ったことはないが、物理学科出身なので弾道の理論はわかる。航空機では飛行による翼の振動や弾丸発射時の振動が機銃に加わる。そのため、航空機による銃撃は、狙撃のように一発必中はほぼ不可能であり、機関銃から発射される弾丸の弾道は、上記の振動と重力落下によって、ある範囲に散布するはずである。するとその散布面積は到達までの時間の2乗で増える。逆に言うと、仮に照準が正しかったとしても、発射速度が2割遅くなると、弾道の散布面積の増加から命中率は約6割に落ちる。しかも、これは静穏な環境で航空機に旋回などによるGがかかっていない場合の話である。これから、航空機の目標に対する銃撃は公算射撃にならざるを得ないことがわかる。そのためか、欧米の戦闘機は、米国での6門の機銃や英国での機種によっては12門の機銃を装備することにより、多機銃による弾幕を張ることに重点が置かれていた。

零戦が搭載した20mm機関砲弾は榴弾なので、戦闘機相手だと数発でも当たれば撃墜できただろう。しかしそれは弾が当たればの話である。零戦21型が搭載した初速の遅い20mm機関砲(1型1号銃:スイスエリコン社製:初速600m/s)2門では、敵機にかなり近づかなければ命中しなかっただろう(坂井三郎氏は初速の早い7.7mm機銃の方を高く評価している [48, p118])。しかも1型1号銃の携帯弾数60発では弾丸を数秒で撃ち尽くすので、必中を期すために敵機に100m以下まで近づいたのではないかと思われる。

空戦では数秒で状況がめまぐるしく変化する。弾を命中させるために敵機との間を詰めようとすると、その間に別な敵機に襲われる可能性が高くなる。敵機に接近しようとして、逆に撃墜された戦闘機は少なくなかったかもしれない。同機関砲は弾倉方式だったので、携行弾数は増やしても最大100発が限度だった。初速750m/sでベルト給弾式(~250発)の2号4型銃の生産が始まるのは1943年秋からである。

もし攻撃機の護衛という目的を最重要と考えるならば、まず遠くから敵機の周辺に弾幕射撃を行って、味方攻撃機を襲撃しようとする敵機を威嚇するという方法もあったと思われる。たとえ命中しなくても自分が狙われていることがわかれば、攻撃を諦める敵機もあっただろう。それでも敵機が味方機への攻撃を止めなければ、その時はもっと接近して撃破なり撃墜するというのがセオリーなのではないか?これがうまくいっていれば、戦闘機を含む味方機の被害を軽減でき、自機も攻撃を受ける機会が減ったかもしれない。

零戦に20mm機関砲を装備したことを英断だったとしている本もある。しかし私は、7.7mm機銃の後継として、零戦がいきなり20mm機関砲(1型1号銃)を採用したのは飛躍しすぎだったのではないかと思っている。12.7mm機銃の方が、破壊力と速度がバランスしている上に携行弾数も多く(ブローニング系12.7mm機銃は360発)、例えばこれを6丁とまではいかなくとも4丁でも装備しておれば、発射速度の増大による命中精度の向上、携行弾数の増加、それによる遠くからの弾幕射撃などによって自機の被害が減って護衛効果も上がったかもしれない。

しかも12.7mm機銃は、その開発と生産が遅れた。米ブローニングM2機関銃をコピーしたホ-103が制式採用されたのは1941年だったが、主に陸軍で使用された。そのホ-103用の弾丸であるマ弾(榴弾)は、日本独自のアイデアとして評価して良いと思う。ただ、当初は生産が追いつかないため、陸軍の一式戦闘機一型乙では、弾道が異なる7.7mm機銃と12.7mm機銃を1丁ずつ同一機体に搭載する、という珍妙なことも起きた。

また艦攻、艦爆、水上機の後部座席の旋回機銃も、多くは大戦後半まで7.7mm機銃1丁だけだった。これは、航空機発注者や設計者の武装に対する認識の問題もあるのかもしれない。これらが2丁あるいは12.7mm機銃だったら、威力がかなり増大していたのではないかと思う。それは敵機への威嚇の増大にもなっただろう。

ここで飛行機から離れた余談になるが、日本軍の思想を表していると思うので、38式歩兵銃の話をしたい。38式歩兵銃は日本軍歩兵が太平洋戦争を通して使った主力の小銃である。約30年位前であろうか、大阪でタクシーに乗ったときに、運転手が私の同乗者である年配の同僚に向かって、戦争の話を始めた。運転手は日中戦争に従軍していたとのことだった。その際に、「中国軍が市街戦で使っていた短機関銃は性能が良かったですなあ」という話とともに、当時使っていた38式歩兵銃の撃ち方の話をしてくれた。その撃ち方は、「闇夜に霜の降るごとく」引き金を引くように習ったそうである。これはおそらく静かにそっと息を殺して引き金を引け、と言うことだろうと思う。

この話からもわかるように、38式歩兵銃の基本は狙撃銃である。おそらく弾道性能は良かったのだろう。しかし、当時から見て大きな欠点があった。それは1度弾丸を発射すると、銃を下ろして銃身の底に付いている槓杆を引く操作(ボトルアクション)によって、使い終わった薬莢を排出するとともに次弾を装填しなければならなかった。すると槓杆を引くたびに姿勢が崩れるので、1発撃つと毎回ゼロから照準し直さなければならない。また単位時間当たりの発射頻度も低くなる。そのため、多数の銃弾のどれかで仕留めるというよりは、予め照準した目標を一発必中で仕留めるための狙撃銃となる。

ところが、米軍兵士の多くはM1ガーランドというセミオートマチックの自動小銃を採用していた。トミーガンのように引き金を引き続けるだけで自動連射できるフルオートのものもあったが、主力のM1ガーランドは、連射はできなくても、弾丸を発射するとそのガス圧で弾倉から次の弾丸が自動的に装填されて、引き金を引くだけで次の弾を発射できた。この利点は、単位時間当たりの弾丸発射数が多くなることと、同じ姿勢で続けて撃てるため照準の修正が容易なことである。つまり何発か撃つ間に、結果を見て弾丸をだんだん標的に近づけることが出来る。

開けた平原や丘陵での会戦どちらが有利かは言わずもがなである。米軍の沖縄戦の記録に、米軍部隊数人が尾根に出た途端に、同数くらいの日本軍部隊と鉢合わせして、咄嗟にその大半を倒したという話があった。発見はおそらくどちらも同時で、小銃操作の違いが結果に出たのではないだろうか?大戦末期には日本軍にも自動小銃を開発したが、兵士にはほとんど行き渡っていなかった。

38式歩兵銃という狙撃銃を歩兵が長年使い続けてきたのも、一撃必殺という日本軍の体質だったのかもしれない。次節とも関連するかもしれないが、相手の懐に飛び込んで一撃で仕留めるという日本武術の美学を、20mm機関砲の採用によって航空戦においても当てはめようとした匂いを感じるのは私だけだろうか。

15-9-3    戦闘機と格闘戦

話を戻すと、日本の戦闘機の戦法は、旋回性能重視の格闘戦(旋回戦)に特化していた。次節で述べるように、出現当時の零戦の性能は格闘戦では世界一だっただろう。しかし、戦闘機の目的を攻撃機の護衛と考えるならば、格闘戦にこだわる必要はなかった。一連射の弾幕によって相手を威嚇することができれば、一撃離脱でも多くの場合に目的を達することが出来たのではないかと思われる。当時の零戦は旋回性能だけでなく速度、上昇性能も優れていた。威嚇だけで撃墜しなかった敵戦闘機が、もし後ろに回り込んで自分を撃墜しようとしてきても、早期に発見できれば回避できることも多かったのではと考えている。

もちろん、彼我の位置、高度、燃料の量などによって航空機が発揮できる性能は変わる。敵機との位置も状況も時々刻々と変わるため、空中戦ではいろんなことが起こる。そのため、格闘戦が不要といっているわけではない。零戦は1対1で敵機の後ろの至近距離から20mm弾を送り込める状況に持って行ければ良いが、敵機も零戦の旋回性能を警戒する。経験を積んだベテランを除いて、敵機との空戦中に敵機の背後の至近距離にまで自機を持って行くまでの判断や操縦は、逆に難しかったのではないかと思う。実戦に慣れない操縦者にとって、一撃離脱戦法の方が、まず習得しやすかったのではなかろうか?

15-9-4    零戦を用いた迎撃について

日本海軍の零式艦上戦闘機(零戦)は、1940年から中国大陸で使用された。その圧倒的な空戦力と長大な航続力は、中国にいた米国の義勇軍などでは知られていたが、米国本土では、その能力は知られていなかったか全く疑問視されていた。

日米開戦後、米国は零戦の性能に驚かされることになる。例えば台湾の高雄からフィリピンのクラーク飛行場までは、往復で1800 km以上あった。開戦劈頭のフィリピン爆撃において、零戦がこの爆撃機を護衛した。この航続距離は、当時の単座戦闘機の航続力では常識的に考えられず、戦後でもこの護衛は空母からの戦闘機で行われたと信じていた人もいたほどだった。また旋回戦(格闘戦)においても、零戦はその性能を極限まで追求しており、操縦者の優秀さもあって、その能力は圧倒的だった。米軍は零戦との1対1での戦闘を禁じた。

このように1000馬力級の制空戦闘機としては、零戦はその航続距離と運動性能によって世界に類を見ない素晴らしい戦闘機だった。航空機性能のポテンシャルはエンジン馬力によって決まる。逆に見ると、その素晴らしい性能を限られた馬力で発揮するためには、機体強度や防弾を犠牲にしなければならなかった(前述した一式陸攻もそうだった)。それは、例えば古から騎兵が、重騎兵と軽騎兵に分化してそれぞれが時代とともに競い合って発展してきたように、重戦闘機による武装と防御を重視するか軽戦闘機による軽快性を重視するかは、その時代の技術に応じた一つの選択である。

いずれにしても、その使用には長所を活かして短所を曝すようなことは避ける必要がある。零戦の防弾は弱い。零戦の長所は、銃がない敵戦闘機の後ろに回り込めることにある。だから零戦は、敵戦闘機を排除して制空権を確保する制空戦闘機だったと思っている。しかし太平洋戦争において、零戦は万能戦闘機として無理して使われたのではないだろうか?例えば重爆撃機の迎撃や地上銃撃などは、性能を無視した使用に見える(例えば、アラスカで捕獲された零戦は、地上銃撃時に被弾したと考えられている)。零戦は、銃火を浴びながらも必殺の銃弾を送り込めるようには作られていない。

そのことは開発時に意識はされていたようである。迎撃については専用の(局地)戦闘機「雷電」が開発されていた。これは14試局地戦闘機なので12試艦戦だった零戦の2年後に実用化されてもおかしくなかったと思われる。これが予定通り完成しておれば、1942年にはラバウルでの重爆撃機の迎撃に威力を発揮したかもしれない。しかし、(他の多くの機種もそうだが)「雷電」の完成が遅れたために、零戦がやむを得ず後ろに機銃がある爆撃機や攻撃機の迎撃に使われ、その結果犠牲が増えたのかもしれない。つまり格闘戦に特化した戦闘機を万能に使ったことことが、その消耗と犠牲を増やしたのではないだろうか(零戦と同じような一式戦「隼」でも、その戦闘隊長で有名だった加藤健夫は爆撃機の迎撃で戦死している)。

15-9-5    米国の艦上戦闘機

開戦初期において、零戦が戦った米国海軍戦闘機はほとんどがF4F戦闘機だった。その意味で、両戦闘機は好敵手と評しても良いと思う。ガダルカナル島の初期の戦闘においても、零戦と戦った米国の主力戦闘機はF4F戦闘機だった。

零戦の性能に驚愕した米軍は、その秘密を探ろうとした。6月5日の「AL作戦」におけるダッチハーバー空襲で、1機の零戦がアクタン島に不時着し、操縦者は死亡した。この零戦を米軍が7月にほぼ無傷で手に入れたことにより、その長所と短所が明るみになった。つまりその航続距離や旋回・上昇性能は、機体強度や防弾を犠牲にした軽量化によって達成されていたことがわかった。しかし、捕獲した零戦を使ったテスト飛行が開始されたのは9月後半であり、ガダルカナル島攻防の前半では、まだ零戦の性能は十分にはわかっていなかったと思われる。

開戦早々に零戦に1対1では対抗できないことを悟った米軍は、早くから2機で1機の零戦を攻撃するシステムを編み出していた。それは考案者名をとってサッチウィーブと呼ばれた。この連携戦法は、機上で無線電話が使えたからこそできた。もし日本にも優秀な無線電話があれば、逆に複数機で連絡を取り合ってそれを回避できたかもしれない。しかし、12-3節で通信の問題に触れたように、当時単座機用の実用的な無線電話機は日本にはなかった。

米海軍のF4F戦闘機は、カタログ上の飛行性能では、急降下制限速度以外の多くの点で零戦に劣っていた。しかし、上記のシステムで戦う戦法と強靱な機体と優秀な6丁の機銃(ブローニングM2機関銃)により、この時期でもガダルカナル島上空で零戦に十分に対抗できていたのではないかと思われる。



編隊飛行するF4F(1943年)
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/usn/usn-42000/usn-42969-f4f-wildcat.html


一方、日本側には長時間の飛行後に、帰りの燃料を積んだ重い機体で戦闘しなければならない、というハンディキャップがあった。ガダルカナル島の海兵隊飛行隊(カクタス航空隊)では多くのエースが誕生したが、彼らの戦果は零戦だけが対象ではもちろんなく、また実際よりかなり戦果が過大視されていた。しかし、零戦のベテラン操縦者がガダルカナル島上空で撃墜されて、徐々に減っていったのは事実である。そうして徐々に操縦者の質は低下していくと、零戦の利点より弱点の方が目立つようになり、さらに犠牲が増えていった。

一方F4Fは、F6F出現後もF4F-FM2にマイナーチェンジされ(日本機相手に多数の機銃は不要と4丁に減らされた)、急速養成された大量のパイロットとともに、護衛空母の艦載機としてそのまま終戦まで第一線で使われ続けた。総合的な基本性能は決して悪くなかったことがわかる。

米国は、航空機の総合性能という面では、日本より余裕を持たせた設計によりバランスが良かったのではないかと感じている。後継機のF6F戦闘機もそうだが、日本の零戦のようにある性能だけに特化せず、馬力に対して各種性能がバランス良く余裕を持って配分されていた。そのため、制空にも迎撃にもある程度使えたのではないか?装備した多数の強力な機銃と日本の爆撃機の防御力が弱かったこともそれを助けた。

F4F戦闘機の後継機であるF6F戦闘機は、零戦の性能に対抗して設計された航空機ではない。捕獲した零戦の試験飛行によってその性能がわかったのは1942年9月で、その頃にはF6F戦闘機の生産は既に始まっていた。F6F戦闘機は2000馬力級への向上もあって(零戦21型は950馬力、発展型の零戦32型は1130馬力)、バランスが良いまま性能が一層向上していたようである。坂井三郎氏の硫黄島での戦記を読むと、F6F戦闘機は零戦とほぼ対等に旋回戦(ドッグファイト)も戦えたようである [46, p349]。日本では2000馬力級のエンジンの実用化が遅れて(これは国力の問題のように見えるため、技術陣だけを責めるのは酷と思われる)、航空戦における劣勢が加速した。

また米国艦戦としての性能として、翼の折りたたみも特筆しておきたい。空母戦では自艦の防空と攻撃隊の護衛という2つの目的のための多くの戦闘機を必要とする。翼の折りたたみは、空母という狭い空間にどれだけ戦闘機を搭載できるかを決める重要な要素である。F4F戦闘機は翼の展開のしやすさも考慮してか、翼を根元から「後ろ」に折りたためるように工夫されていた(脚を胴体に収納したこともそれを助けた)。零戦21型の翼の先端が少し折れるのとは大違いである。零戦は翼の中程から折りたたむと強度の関係で重量が増加するので、それを避けたのかもしれないが、ここでも日米の艦上戦闘機の量(数)と質のどちらを重視するかという考え方の違いが如実に表れている。米艦載機の翼の折りたたみの巧妙さには、折りたたむことが得意な日本人としては一本取られたような気がしている。


1942年10月2日、米空母「チャージャー」のハンガーデッキに格納されたF4Fの様子。
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/NH-55000/NH-55072.html

 

 参照文献はこちら

次は「16. さいごに







14. なぜガダルカナル島で?~戦前の防衛方針~

  (これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

ガダルカナル島での戦いは、太平洋戦争での典型的な戦闘の一つとして取り上げられることが多い。しかし、激しい戦いが起こったガダルカナル島は、日本から5000 km以上遠く離れた南半球にあり、しかもほとんど現地住民しかいない密林に覆われた島である。そこは海軍が国防方針として艦隊決戦を想定していた中部太平洋からも遠く離れている。

また、日本が太平洋戦争に突入した理由の一つに、米国の全面禁輸によって、石油などの南方での資源確保があった。しかし、石油などの資源のほとんどは、太平洋「西端」の蘭領インドネシアや英領マレーシアにある。ガダルカナル島は、そこから東に遙か数千キロメートルも離れた所にある。日本本土や南方油田地帯からはるか遠くの南半球にあり、戦いが始まるまでほとんどの人が名前も知らなかった島が、なぜ激しい戦場になったのだろうか?あくまで私見だが、それを考えてみたい。

14-1    第一次世界大戦後の戦法革命

第一次世界大戦後に、戦い方に関して2つの大きな革命が起きた。一つ目は、各種動力の燃料として石油が普及してきたことと、航空機が重要な兵器になったことである。それが戦争の手法に大きな影響を与え、それが最終的にはガダルカナル島での戦いにつながっていったと考えている。

14-1-1    エネルギー革命

石油自身は20世紀以前にも小規模に利用されることはあった。しかし石油は石炭と異なり、掘り出しただけでは使えない。石油の利用が普及するには、原油を精製するための技術と、それからの精製物(ガソリン、灯油、重油など)を利用する技術が並行して広く普及する必要があった。石油が大量に使われ始めたのは1920年代以降である。

これ以降、さまざまな動力の燃料として石油が広く使われ始め、内燃機関の小型化、運用の容易化、連続運転の長時間化を可能にした。また艦船を例に取ると、重油は石炭よりもエネルギー密度が高いため、船内の燃料貯蔵庫を小さくでき、かつ航続距離を延伸することができた。また石炭の積み込みやボイラーへの石炭の投入に必要な船員を大幅に削減することができた。といっても船舶燃料の重油化が一気にすすんだわけではない。製油所や給油施設の新設、移送のためのタンカーの建造が必要となる。また石油を精製すれば重油だけが出来るわけではなく、同時に出来るガソリン、軽油などの利用と歩調を合わせる必要があった。そのため、船舶機関の重油化は徐々に進んだ。

第一次世界大戦を契機に艦船だけでなく、戦闘の補給物資の移動も、鉄道や馬からトラックや弾薬輸送車などの石油を用いた動力に徐々に切り替えられた。しかし、戦後にまず大きな影響を受けたのは艦船だろう。日本海軍においては、第一次世界大戦後の艦船動力の多くは石炭が主で、重油は従だった。海軍の既存の大型艦の動力が、重油専燃のボイラーに換装し始めるのは、昭和に入ってからである。これは戦争の際の石油依存度を高めることとなった。

機関燃料の重油化よる艦船速度の向上と、無給油(あるいは海上給油)での航続距離の延伸により、太平洋を一気の横断が可能になった敵艦隊の迎撃戦略に変更が必要となった。それが日本軍によるハワイ空襲や米軍による日本本土のドゥーリトル空襲にも関連している。そして、この艦船の燃料の重油化は、攻勢作戦を容易にし守勢作戦を不利にする、と理解された。これが海軍軍縮条約の破棄の一因ともなった。

そして、次に述べる航空機もガソリンを動力としている。このため軍艦の燃料の重油化は、次に示す航空機と合わせて、戦争と石油との関係を切っても切れないものにしてしまった。そして、その石油のほとんどを米国から輸入している日本は、万一米国との戦争になった場合に米国とどう戦うのか、という大きな命題を抱えることとなった。

14-1-2    航空機の発達

戦法の変化の二つ目は、第一次世界大戦をきっかけとする航空機の発達である。そして航空機は、1930年頃からその性能が飛躍的に増大し始めた。航空機は全金属製単葉のモノコック構造になり、恒速(可変ピッチ)プロペラと大馬力エンジンを装備することによって性能が飛躍的に向上した。つまり、速度、航続距離、機体強度、搭載量が急速に向上し、攻撃力や防御能力の大幅な向上が可能になった。これによって、その前の時代の木製複葉羽布張りのものと比べて、その能力は全く別物になったといっても良いと思う。

特にエンジンの数や馬力を増やすと、それによる重量の増加より搭載量をはるかに増やすことが可能になる。それが大型爆撃機や戦闘機の攻撃能力と防御能力の大幅向上につながった。そして、航空機が多数の大型爆弾を積んで数百km先に精度良く落とせるようになったことで、航空機を超長距離砲として見ることが出来るようになった。当初はよたよた飛んでくる爆撃機を地上から撃ち落とせると考えていたら、あっという間に高度2000 ~ 3000 m以上を時速200 km~300 kmで飛んで(大戦末期には高度1万m以上を時速500 km以上で飛んだ)、地上からの撃墜は困難となった。そのため、逆にレーダー照準の高射砲やVT信管(近接信管)が発達することとなった。

そして、この性能が向上した航空機を兵器としてどのようにして使うかが各国で問題となった。そして、日本海軍では後述する艦隊決戦での補助戦力として整備する方向に進んだ。ただ、兵器として格段に進歩し始めた航空機は、石油(ガソリン)が唯一の燃料だった。そして、その精製された石油製品を輸入に頼っていた日本では、石油化学の発達が遅れた。そして開戦後の大規模な石油プラントが稼働し始めた頃に、南方からの原油の還送(日本への輸送)が途絶した。石油化学の遅れは航空機用ガソリンのハイオクタン化の遅れにもなり、大馬力エンジンによる性能向上の足かせの一つになった。なお英米では、1940年にオクタン価100のガソリンの供給を開始している。日本は大戦末期にその製造の実用化に成功したが、たちまち精油所は爆撃されて製造は終わってしまった。

14-2    戦前の国防方針との関係


14-2-1    帝国国防方針とその第3次改定(1936年)

日本は1907年から帝国国防方針を策定していた。その帝国国防方針とは、手続きとしては陸海軍統帥部で起案し、統帥権独立のもと政府や国会とは無関係に天皇に奏上したものだった [37, p119]。つまり国防方針という物々しい名前が付いていて、大元帥(天皇)の裁可も受けているが、天皇の補弼の(助言を行う)任を負っている政府が議論・決定した国としての総合的な防衛構想を明らかにするものではなかった。

海軍は大艦巨砲主義による艦隊決戦を国防方針の柱に置いた。それは日露戦争における日本海海戦で確立されたものである。海軍は日露戦争後に米国を仮想敵国とし、もし米国が艦隊を押し立てて攻めてきた場合には、これを艦隊決戦で撃滅することを国防方針の主軸に据えた。それに必要なのは大口径砲を持った戦艦だった。第一次世界大戦直後の1918年6月の帝国国防方針の第一次改定までは、その方針は当時の情勢を勘案したものとして総じて妥当なものだった。

帝国国防方針の第2次改定は、1922年のワシントン海軍軍縮条約締結に伴うもので、当然必要なものだった。しかし、その後のロンドン軍縮条約を含めて海軍軍縮条約は、日本の実情・地勢等に適応した軍備を自主的に持つことを妨げており、国防上危険とされた。それが1937年のロンドン軍縮条約の延長破棄につながった。しかも海軍内に艦隊派と条約派という分断をもたらした。しかし海軍の一部は軍縮条約を相手のことを考えずに、自分たちの国防方針に合致するかどうかだけを見ていたように感じる。14-2-6節で述べるように、海軍は建艦競争は起きないと勝手に判断していた。しかし、そもそもワシントン軍縮条約がなぜ始まったのかを冷静に分析できていれば、軍縮条約が必須であることを理解できたのではないだろうか。

軍縮条約の破棄を目論んでいた海軍は、1931年の帝国国防方針の第2次改定の「第一次補充計画」と1934年の「第二次補充計画」を、来たるべき無条約時代に備える形にした。そして日本はワシントン軍縮条約の破棄を通告し、1937年には補助艦の建造を制限したロンドン軍縮条約も失効し、無条約時代に突入することとなる。

日本は、無条約時代に備えて1936年6月に「帝国国防方針第3次改定」を行った。そして米国を第1仮想敵国とする海軍は、大和型戦艦と航空隊増勢を含む「昭和12年度海軍補充計画」を立てた [37, p122]。しかし、それらの上位の国策がなかったせいもあって、それらの改定と補充計画は、海軍では14-1節の情勢の変化に対応する抜本的な対応とはならず、米国海軍の増勢に引きずられた艦隊決戦のための戦術と戦力の改定に終わった。

14-2-2    艦隊決戦論の是非

海軍の国防方針は、多くの書籍が指摘しているとおり艦隊決戦だった。この対米に対する艦隊決戦とは、東洋のアメリカ艦隊を撃破してルソン島・グアム島を攻略し、本国から来航する米国艦隊主力を、中部太平洋で迎撃するのを初期の目的とした。それ以後の作戦は、陸海軍で臨機に策定するとされた [38, p133]。つまり、日本にやってくる米国艦隊を、潜水艦、基地航空部隊で漸減し、最後に西太平洋で全艦隊を集中して、1回の艦隊決戦で米国艦隊を再起不能にまで撃滅するという日本海海戦の再来だった [37, p108]。日本海軍は、米戦艦の射程外の遠距離から攻撃できる大和型戦艦の建造や米艦隊を雷撃するための陸上攻撃機を開発するなどしてほぼ全ての海軍力をこの戦いに合わせて最適化した。

この大和型の主砲で米国戦艦をその射程外から攻撃する(アウトレンジ攻撃)という発想はよく理解できない。敵戦艦の主砲が届かない40 km近く離れての砲撃戦を想定していたのかもしれない。しかし、それでは着弾までに1分以上かかる。敵戦艦が30ノットで航行していれば1分先の照準は約1 km先となる。発砲を見た敵艦は当然針路を変えるだろう。しかも高仰角で撃つので、2次元でのスポットで当てなければならない。後は1 km先の砲弾落下地点に敵艦がいるかどうかという確率論となるが、そうなれば事実上命中はまれだっただろう。それは約20 km離れて行われた重巡同士のアッツ島沖海戦やスラバヤ沖海戦の一部の結果でも実証されている。砲撃戦は、砲弾がほぼ水平に近い弾道を描く距離15 km程度以下でないと、砲弾が命中する確率はかなり下がると思われる(これは物理学的に計算すれば誰でも到達できる結論である)。

話を戻す。制度設計という言葉があるが、当時の海軍軍備の制度設計は、上記の形の艦隊決戦だけに基づいて行われていた。この(特に戦艦を中心とした)艦隊決戦だけに戦闘形態を特化した考え方は、他の戦い方の自由度を奪い、結果として過剰適応となった。連合艦隊は航空戦力の威力を認識していたものの、それもかなりの力点を艦隊決戦時の使用に置いていた。海軍全体としてみると、開戦後も戦艦中心の艦隊編成になっていたのは、多くの書物が指摘しているとおりである。

ちなみにガダルカナル島での戦いでも、海軍の目的は、日本軍の動きに呼応して出てきた米国機動部隊に対する艦隊決戦での撃滅だった。輸送船の護衛よりも艦隊決戦を優先させた結果、海戦では多少の戦術的勝利を得られても、ほとんどの場合は輸送の目的を果たせなかった。

米国では国防方針である「レインボープラン」の中で、艦隊決戦によって日本艦隊を壊滅させ、最後は日本付近を海上封鎖することが想定されていた(ただしその前に太平洋中部諸島にいる日本軍を排除する必要があった)。そのため、米国でも戦艦主戦論を唱える海軍高官が多くいた。しかし、彼らは日本による真珠湾奇襲(とマレー沖海戦)によって航空戦力の威力を見せつけられた上に、頼みとしていた戦艦は真珠湾で沈められてしまった。米国の戦艦主戦論者たちは、名実ともに身動きが取れなくなった。それによって否応なく航空機主戦論者たちが主導権を握った面があると思われる。

イアン・トールが「太平洋の試練-真珠湾からミッドウェイまで(p290)」で述べているように、海軍高官の戦艦主戦論者たちが、(足の遅い)戦艦を連れて行けと主張できなかったことが、高速の空母を主体とした機動部隊が、1942年前半のあちこちへのヒット・エンド・ランを可能にした面がある。もし真珠湾攻撃時に、演習か何かの理由で戦艦が出払っていたとすると、全く異なる(ひょっとすると日本軍の国防方針に近い)戦争になっていたのかもしれない。

一方で、航空戦力の威力を見せつけた日本海軍の方は、相変わらず戦艦主戦論だった。それが、多くの戦艦を失った米国は1943年まで本格的反攻を行えない、という判断にもつながった。真珠湾攻撃によって、長年の懸案だった米国戦艦による脅威がなくなったという安堵感はわからなくもないが、強力な航空戦力で米国の戦艦を沈めておきながら戦艦主戦論を用いる、という非対称的な論法も垣間見える。日本の航空戦に対する考え方は第14-4章でもっと議論する。

14-2-3    帝国国防方針の限界

国防方針の位置づけは14-2-1節で述べたが、軍が作成する国防方針とは別にもっと上位の国策(政治)としての国防構想が別途必要だっただろう。戦史叢書でも(軍が作成した)帝国国防方針を「政治目的と関連づけた作戦の限度線、ならびに政治的収束要領を示すことができない。これでは、作戦はみずからの軍事判断に基づき、際限なく拡がる特性がある」 [37, p122]と結論している。

そして米国と戦うとなると、そのほとんどを米国から輸入している石油をどうするのか、が問題となる。しかし、帝国国防方針の第3次改定以降の防衛方針には、石油をどうするのか?という肝心の問題には、その備蓄を増やす程度の対応策しか考えていない。それは艦隊決戦とも関連しており、現実的かどうかは別として、米国とは「石油の備蓄がある間に決着をつけるための短期的な決戦兵力を整備する」という考えとつながっていた [37, p118]。

仮想敵国とはあくまで仮想であり、必ずしも現実の戦争を想定する必要はないかもしれない。仮想敵国に対する戦備方針は、ある想定された世界情勢(例えば世界各国を味方に付けて米国とのみ戦う)に基づく艦隊決戦のような狭義のものでも良かったのだろう。しかし、その方針による戦備は、想定された情勢以外では機能しない。つまり国防方針にない戦いはしないという決意が必要だったと思われる(でなければ、何のための国防方針なのかわからない)。

14-2-4    仮想敵国の多国化

国防方針の第3次改定の頃、日本では当時の国際情勢から単一国との戦争を想定するか複数国との同時戦争を想定するか、あるいは長期戦を想定するか短期戦を想定するかが問題となっていた。陸軍は米ソ中英の国益の対立から戦争が生起することを考えれば、数か国を相手にする長期戦になると考えていた。一方で、海軍は対米一国に対する艦隊決戦のための軍備を整えており、日本の国力・国情からして対一国戦・短期決戦にしか対応できないと考えていた [39, p200]。ただし、想定敵国は外交にも関する問題なので、統帥部が考案した国防方針だけで決定できるものではないとも考えていた。

中国大陸を巡る英国との関係悪化のために、「帝国国防方針第3次改定」で初めて仮想敵国に英国が加わった [37, p118]。しかしそれは、在東洋艦隊及び来援する艦隊を撃破するとともにその作戦根拠地を覆滅するほかは、具体的内容については触れていない [37, p122]。この時点では、あくまで英国艦隊が攻めてきた場合の話で、やはり日本近海での英国艦隊との決戦を想定していた。英国の仮想敵国化は、武力による積極的南進による衝突や南方の防衛を意識したものではなかった。

また、仮想敵国に英国が加わると、英連邦の一つであった豪州への対応も必要になると思われる。しかし、日本近海での短期決戦だけを想定していたためか、豪州への対応を検討した形跡はない。しかし開戦後に南方資源地帯を確保してみると、豪州からの脅威を考慮せざるを得なくなり、これがこの戦争の行方に大きく影響してくることになる。

14-2-5    「国策の基準」(1936年)

軍縮条約脱退と欧米の情勢の変化を受けて、海軍制度調査会は、1936年に「国策の基準」を作成した。陸軍もほぼこれと同時に別途独自に「国防国策大綱」を作成した。これらは、1936年8月7日に内閣の五相会議で決定され、政府が認めたものとなった。また廣田内閣も別途「帝国外交方針」を策定して内奏した。これではそれぞれの省の対外方針が林立して、国家が組織の体をなしていないようにも見える。

この海軍の「国策の基準」において、「海軍軍備ハ米国海軍ニ対シ西太平洋ノ制海権ヲ確保スルニ足ル兵カヲ整備充実ス」となっている。そして資源類に関しては、ようやく「国防及産業二要スル重要ナル資源竝ニ原料ニ対スル自給自足方策ノ確立ヲ促進ス」となった(例えば [37, p123])。これは、南方への平和進出を軸としたものであった。武力進出とは書かれていないものの、資源確保という方針は、短期決戦以外の選択肢を模索し始めたようにも見える。これは日中戦争が始まる前であったことに注目しておく必要があると思う。

問題はここから先である。もしこの「国策の基準」にあるように、(平和裡にしても)南方での資源獲得を促進するならば、もしそうなった場合の準備も必要となる。南方の資源を確保するとすれば、その後の南方の資源地帯を守る軍隊や艦隊、そこからの輸送を護衛する艦隊、南方の資源地帯を守る基地とそこへの補給、そして、どうやってそこを守るのかという政略・戦略の検討が必要となるだろう。ところが、1936年の「国策の基準」では、それらの検討が行われた形跡がない。つまりこの時点では、自給自足方策の確立を促進する方針を何れ検討する必要がある、とただ漠然と述べただけのものだったようである。(仮想敵国だったとはいえ)実際に米国と戦争するとは思ってもいない当時の情勢では、それでも良かったのかもしれない。

14-2-6    軍縮条約脱退後

14-2-1節で述べたように、軍縮条約の破棄を目論んでいた日本はワシントン軍縮条約の破棄を通告し、1937年には補助艦の建造を制限したロンドン軍縮条約も失効し、無条約時代に突入した。海軍は、日米建艦競争は生起しないと勝手に楽観していた [38, p132]。一方で米国は、1934年に無条約時代を見越したヴィンソン・トランメル法とその後の法案で海軍大増強計画を立てた。建艦競争は起きないと見込んでいた日本海軍の目論見は全く外れた。日本海軍は、まさか大和型戦艦さえあれば米国艦隊は対抗できない、と思ったわけではないとは思うが。

欧州での怪しい雲行きによって、無条約時代になると特に米国の膨大な建艦能力は野に解き放たれることとなった。米国では、第二次ヴィンソン案と第三次ヴィンソン案及びスターク案(両洋艦隊案)という途方もない建艦計画が順次米国議会を通過した。1939年の日本海軍の「昭和十四年度海軍軍備充実計画」(通称④計画)では、その米国艦隊に対抗するための艦隊決戦に関心を向けた。米海軍の巨大な建艦計画に驚いて、海軍では艦隊決戦用の戦備をどうするかで手一杯だった。この時点でも、南方の資源地帯とそこからの輸送を防衛するための軍備の計画はなかった。そして、この④計画が実質的に開戦時の軍備となった。

このように対米軍備の方は一応ではあるが対応策を考えていた。しかし石油については、米国から輸入しながらその石油を使って日中戦争を戦っていたにも関わらず、備蓄以外の具体的対応はなかった。日本が米国の石油で中国と戦っていることは米国内でも大きな問題となっており、石油などを何らかの外交戦略に使ってくることは十分に考えられた。実際に、モラル・エンバーゴーや日米通商条約破棄などで貿易は徐々に制限されていった。しかし石油備蓄以外の具体的検討はなく(いくつかあった日中講和案は何れも潰えた)、そういう状況の中で米国の石油を使って中国と戦い続けた。1939年には石油の米国依存度は90%だった(戦史叢書91巻。P383)。

日本は戦争に必須の石油の輸入を万一止められた場合にどうするのか、という大きな命題を抱えていたが、当時の石油に関する危機感はほとんど伝わってこない。日本の軍部は、米国が石油を禁輸することはないと根拠なく信じていたのだろうか、戦争に訴えれば短期間で解決すると考えていたのだろうか?それとも、「そうなっては困ることは考えない(見たくないものは見えない)」という脳科学の生理(確証性バイアス)に素直に従っていただけなのかもしれない。

14-2-7    戦争直前(1940年頃)

    (米国の貿易圧力)
1937年に日中戦争が起こると、戦争当事国に石油の輸出を認めていない米国からの石油禁輸を恐れて、日本はこれは戦争ではないと主張した(そのため事変と称した)。しかし1940年9月に、日本が中国への支援物資流入を防ぐという名目北部仏印に進駐すると、米国は鉄鋼とくず鉄の日本への輸出を停止し、石油も輸出統制品に加えた(全面禁油ではなかった)。日本では米国からの石油の輸入に不安を感じて、その頃からインドネシアの石油の輸入交渉をオランダと始めた。しかし、米国や英国の後ろ盾によって、オランダは日本の要求に応じなかった。その頃から、「蘭印(インドネシア)」を占領すればそこから石油を日本内地に還送ができるし、ドイツがおそらく戦争に勝利するので、日本は長期戦に耐えられるという考え方が浮上してきた [38, p174]。

    (南方への軍事進出)
海軍は1940年頃から対英米戦を意識し始めた。1940年8月28日の海軍の「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱に関する覚」では、米国が石油の全面禁輸を行った場合には南方に武力行使することが掲げられた。また、1941年4月17日の大本営陸海軍部による「対南方施策要綱」には、「英米蘭等の対日禁輪により帝国の自存ら脅威せられたる場合、之か打開の方策なきに於ては帝国は自存自衛の為武力を行使す」と規定した [40, p461]。海軍では永野修軍令部総長が、陸軍では田中新一参謀本部第一部長が、対米戦を強く主張した [40, p463]。とはいえ、海軍軍備は④計画のままだった。

1941年6月に海軍省・軍令部の課長レベルが、もし戦争になった場合の石油の推移の検討を行った。その結果、南方資源地域を入手すれば「作戦上相当の自信をもって対処できる」との結論となった [38, p175]。つまり海軍では、南方資源の武力確保をこの頃から「具体的」に検討するようになった。開戦のわずか半年前である。それでも、検討は南方の資源地帯の占領までで、それ以降の防衛をどうするかなどは考えられていない。

海軍では戦争になれば持久戦となるとして、「持久戦の準備が整わなければ戦争をしない」と言いながら、短期決戦を基本方針とするといった矛盾した思考によっていた [39, p200]。それが、開戦後の持久戦を想定した海軍軍令部と短期決戦を目指した連合艦隊、という考え方の違いにも現れている。そして、もし持久戦となれば、中部太平洋での決戦を準備しながら、豪州からの攻撃を含めた南方資源地帯の防衛とそこからの海上輸送保護が必要となる。それにも関わらず、南方資源地帯の確保後の具体的計画や準備がほとんどないままに、太平洋戦争へと突入していった。

    (作戦実務者たちの考え)
米国が石油全面禁輸を行う直前の1941年7月29日に、陸・海軍統帥部の作戦及び戦争指導の事務当局である服部卓四郎中佐、富岡定俊大佐、有末次大佐、大野竹二大佐らが水交社において懇談した。この内容を櫛田陸軍中佐が業務日誌に残している [40, p465]。この内容は、戦争の実務を担当する当時の軍高官らの戦争になった場合の考えを知るのに貴重である。