13. その後からガダルカナル島撤退までの概要

 (これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

10月からガダルカナル島撤退までの概要だけを簡潔に記しておく。

米軍が守りを固めたことから、ガダルカナル島を奪還するには、米国からの補給線を断ってから、航空撃滅戦によってガダルカナル島の航空戦力を壊滅させて、それから大規模船団で数個師団規模の兵力を送らなければ難しくなった。それは、その後米軍が日本軍が防衛している島嶼に行った戦法でもある。仮にそれに成功しても、その後はガダルカナル島内に戦線が出来て、再び輸送合戦となっただろう。つまり、ガダルカナル島に飛行場がある限り、日本軍にはその奪回のため戦闘を支える輸送は無理だったと思われる。

川口支隊の攻撃失敗の後、大本営はガダルカナル島の状況が容易ならざる事態になっていることを、ようやくはっきりと自覚した。第2師団に加えて第38師団主力の投入を決意し、高速輸送船を用いた正面からの船団輸送を計画した。一方で米軍では増援を受けた海兵隊が、新たな部隊の戦場慣れも兼ねて、島で攻勢に出る試みを始めた。

この攻勢を受けて、日本軍は飛行場攻撃の拠点として好適なマタニカウ川東岸から撤退せざるを得なくなった。日本軍は、鼠輸送によって徐々に兵力を増していったが、十分な食糧の輸送まで手が回らず、既に飢餓や病気が蔓延しつつあった。109日に第17軍司令部がガダルカナル島へ進出した。それによって、軍司令官はようやくガダルカナル島での自軍の実態について知ることになる。

一方で、太平洋艦隊司令長官ニミッツ自身が、930日に防衛が安定してきたガダルカナル島に赴いて、現地を守っている海兵隊司令官ヴァンデグリフトと会談した。ただゴームリーはずっとヌーメアに留まっていた。この会談の結果、新たな陸軍の投入や日本軍の鼠輸送の阻止のための艦隊派遣を検討することとなった。この米軍艦隊派遣によって、10月にガダルカナル島周辺で日米の艦隊によるいくつかの海戦が起こることとなる。

米軍は、1013日にニューカレドニアにいた陸軍アメリカル師団の第164歩兵連隊(2852名)を、物資3200トンとともに輸送艦2隻で送り込んだ [9]。日本軍にとって小うるさい魚雷艇4隻もツラギに曳航されて常駐するようになった。兵力や物資のさらなる充実によって、日本軍によるガダルカナル島の奪還はもっと困難になっていった。

海軍では前述の高速輸送船団による揚陸に合わせて、艦隊によるその護衛と飛行場の艦砲射撃を計画した。1011日にはサボ島沖海戦が起きて飛行場砲撃には失敗したが、水上機母艦2隻と駆逐艦を用いた輸送には成功した。また13日には戦艦「金剛」「榛名」がガダルカナル島飛行場砲撃に成功した。14日には重巡2隻の飛行場砲撃の下で高速輸送船6隻がタサファロング沖に到着した。しかし飛行場はかろうじてまだ稼働していた。米軍も必死の飛行場修復とエスピリッツ・サント基地からの中継での航空攻撃により、日本は3隻の高速輸送船を物資揚陸中に失った。輸送物資の約8割の揚陸に成功したものの、その後の米軍機の攻撃で揚陸した物資のかなりの量が海岸に積まれたまま焼失した。

1018日に南太平洋軍の司令長官は、ゴームリーから闘将ハルゼーに交代した。日本軍は、増援した第2師団を中心とする再度の飛行場攻撃を22日に計画した。しかし、これも甘い見通しによって攻撃日は遅延し、24日となった。しかも攻撃直前に手に入った航空写真での攻勢前面に構築されたように見える米軍防衛陣地への対応判断を巡って、攻撃開始前に右翼隊の川口隊長は罷免された。戦闘は激戦となり、左翼隊長や多くの連隊長や大隊長が戦死して日本軍の攻撃は撃退された。ゴタゴタのあった右翼隊は進出が遅れて戦闘に参加できなかった。しかも「飛行場占領」の誤報のため、突入した軽巡「由良」は爆撃され沈没した。

1026日には、この日本軍の攻撃に合わせて北上していた米機動部隊と日本軍空母との間に南太平洋海戦が起こった。日本海軍は空母「翔鶴」が小破し、「瑞鳳」が中破したが、米海軍は空母「ホーネット」を失い、「エンタープライズ」が損傷した。この南太平洋海戦によって、稼働する米空母は一時的にいなくなり、日本軍は南太平洋から米空母を排除することに成功した。しかしながら、それでも日本軍はガダルカナル島の米軍航空戦力を削いで制空権を得ることはできなかった。また、長距離大型爆撃機の脅威も無視することは出来なかった。逆に日本軍は航空機と操縦員の消耗戦に引き込まれ、後方での戦備の増強力に劣る日本にとって、それは深刻な問題となった。

11月に入ると米軍の攻勢は激しくなり、マタニカウ川西岸も失う恐れが出てきた。そうなれば、重要な揚陸地点だったタサファロングも危うくなる。この攻撃は、第38師団の兵士の駆逐艦による緊急輸送によりなんとか凌いだ。しかし、兵士が増えると必要な食糧も増えるため、鼠輸送だけでは兵力の維持は不可能だった。もう一度輸送船11隻を用いた船団輸送が計画された。そしてその揚陸を確実にするために、1113日に戦艦「比叡」「霧島」と軽巡1、駆逐艦14の挺身攻撃部隊による飛行場砲撃が計画された。

米軍は暗号解読で日本軍の動きを察知していたが、13日に日本艦隊を迎撃できるガダルカナル島周辺には、重巡2隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻の米国艦隊しかなかった。日本軍の戦艦2隻を含む艦隊に対して、この米国艦隊は勇敢にも日本艦隊に戦闘を挑んだ。米軍は軽巡2隻、駆逐艦4隻が撃沈され、重巡2隻も大破した。日本側の損害は駆逐艦2隻の沈没のみだった。しかし、問題は戦艦「比叡」だった。艦尾に当たった敵弾によって操舵不能となり、同じ場所を周回していた。飛行場砲撃は中止され、夜が明けると米軍機による攻撃が始まった。結局、比叡は自沈した。

この海戦で敵艦隊をほぼ殲滅したことから、翌14日に船団輸送は再開された。日本の輸送船団はガダルカナル島に迫っていたが、飛行場は健在だった。船団はガダルカナル島から航空機による反復攻撃を受けた。しかも空母「エンタープライズ」がガダルカナル島近くまで支援に来ていた。その艦載機もガダルカナル島を中継基地として攻撃に交じることとなった。結局船団は、途中で6隻を失い、1隻が引き返した。残った4隻は航行を続けた。

再び戦艦「霧島」と重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦6隻によって夜間の飛行場砲撃が計画された。まず重巡「摩耶」と「衣笠」が飛行場を砲撃した。重巡の大砲では効果は一部に留まった。続いて戦艦「霧島」がルンガ岬沖に進入して飛行場を砲撃しようとした。ところがガダルカナル島には、米軍の新型戦艦2隻が差し向けられていた。ガダルカナル島を砲撃しようとした戦艦「霧島」は米国戦艦「サウスダコタ」と「ワシントン」の2隻と交戦し、損害を与えたものの、撃沈されてしまった。当然飛行場砲撃も行えなかった。

ガダルカナル島への物資輸送はガダルカナル島攻略の成否を決めるものとなっていた。船団の残った4隻は、悲壮な覚悟でガダルカナル島へ突入して、海岸に乗り上げて擱座した。しかし、夜が明けると敵機だけでなく艦艇を動員した攻撃によって擱座した輸送船に火災が発生し、兵員2000名こそほとんど上陸できたが、揚陸できた物資はわずかだった。結局日本側は輸送船10隻を失った上に、物資輸送に失敗した。日本軍は、この後主力艦のガダルカナル島への派遣を断念した。

この後も、駆逐艦を使った鼠輸送は続けられ、それに伴って海戦も起きたが、体勢を挽回するものではなかった。陸軍は引き続き大部隊の輸送でガダルカナル島奪回を目指したが、もうそれに回す輸送船がなかった。ガダルカナル島奪還がこの戦争の天王山と考えている陸軍参謀本部と、戦争全般の遂行を考えている陸軍省が、船舶の配分量を巡って衝突するという諍いも起きた。ガダルカナル島の奪回は、ニューギニア作戦と並行させて片手間で片付ける、というわずか4か月前の考えとは全く異なる展開となった。

日本軍は、194312月にガダルカナル島から200 kmのムンダに中間航空基地を完成させたが、手遅れだった。ガダルカナル島の強化された米軍の航空戦力に押されて、それらは航空基地としての威力を十分に発揮する前に無力化されてしまった。第9節で述べたように、せめてブイン基地の建設を開始した9月初めからムンダ基地の整備も開始しておれば、少しは情勢が変わったかもしれない。

日本軍は、細々とした鼠輸送(駆逐艦輸送)を続けていたが、それでガダルカナル島の兵員を養うことは出来なかった。食糧不足によって、日に日に餓死者が出ており、戦闘どころではなかった。1231日の大本営御前会議でガダルカナル島から撤退することが決定された。19432月に数次にわたって駆逐艦を用いた撤退が行われ、この時点でガダルカナル島に残っていた将兵16152名の撤退に奇跡的に成功した(撤収人員数には諸説ある)。結局、ガダルカナル島の戦いは、戦死者より戦病死(餓死者を含む)の方がはるかに多いという結果で終わった。

 

参照文献はこちら

 

12. 米軍のガダルカナル島上陸のまとめ

 (これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

12-1    ガダルカナル島上陸直後の日米の判断

真珠湾攻撃による戦艦群の撃滅や蘭印の連合国軍の打破により、1942年3月7日の大本営政府連絡会議は、米国の反撃を1943年に入ってからと判断した。反攻には戦艦が必要であるため、米国は新たな戦艦が揃うまで身動きが取れないだろうという考えから離れられなかったと思われる。この大本営政府連絡会議の判断は軍内で広く共有されていたため、ラバウル付近にあった各部隊は、ニューギニアに気を取られて全く油断していた。米軍のガダルカナル島上陸前後における当時の日本軍の対応の原因は、まずはこの大本営政府連絡会議の判断に尽きると思われる。

一方で、大慌てでツラギ島とガダルカナル島に上陸した米軍であったが、上陸までの作戦で精一杯で、その後のことを考える余裕が十分にはなかった。第一次ソロモン海戦で多くの艦艇を失った上に、この上陸作戦で当面の蓄積物資を出し尽くしていた(多くは退却した輸送船の船倉にあった)。次の行動を起こすためには、後方のヌーメアなどに物資を蓄積する時間が必要だった。そのため、上陸作戦が成功しても直ちに次の行動を起こすことができず、いったん活動が不活発となった。

日本軍から見ると、これは米軍が消極的な対応に陥っているように見え、ガダルカナル島から撤退しようとしているのではないかという推測や、あるいはニューギニア作戦を続行しながらでもガダルカナル島を奪還できる、という間違った判断の一因となった。

日本軍は第一次ソロモン海戦で護衛艦隊に対しては速やかな反撃を行った。しかしながら、日本軍はラバウルの南海支隊をニューギニアへ送る準備を進めており、兵力も輸送船も余裕がなかった。それは米軍から見ると、日本軍のガダルカナル島確保に対する消極的な姿勢に見えた。日本軍内でも一時ガダルカナル島からの撤退論が出たように、米軍でも日本軍が今後ガダルカナル島に対してどう出るかは読めなかった。

米軍では、中央のワシントンとガダルカナル島の現場との認識に溝があった。南太平洋軍司令部は、ガダルカナル島の保持について強い危機感を持っていた。しかし連合国軍は、この後11月のアフリカ北岸への上陸作戦(トーチ作戦)が控えており、ワシントンは南太平洋の孤島であるガダルカナル島だけに関心を抱く余裕がなかった。例えば、米陸軍は南太平洋に既に800機近い航空機を派遣しており、陸軍航空隊司令長官アーノルドは、それ以上の航空戦力を派遣する気はなかった。

この溝は8月末のターナーやマケインなどの司令官のガダルカナル島視察、9月末のニミッツ提督のガダルカナル島視察による現状の把握と、10月の南太平洋軍司令官の悲観的なゴームリーから闘将であるハルゼーへの交代を経て、徐々に埋まっていくことになる。

12-2    輸送の問題

12-2-1    孤島への輸送の困難さ

8月のガダルカナル島での戦闘では、米軍兵力は1個師団弱(5個大隊:約11000名)だった。しかし、日本軍は米軍の規模がわからなかったこともあって、一木支隊1個連隊と海軍陸戦隊(約3000名)を送ろうとし、その先遣部隊としてまず1個大隊規模(約900名)の兵力を送った。

その頃、欧州の東部戦線では、9月1日にスターリングラードにドイツ軍が突入するなど、独ソの各数十師団の合計で百万名以上が戦っていた。それに比べると、ガダルカナル島での戦闘規模は著しく小さい。しかし、この規模は戦闘の重要性を表しているわけではなく、むしろ日米ともに根拠地から極めて遠く離れた南洋の孤島に、兵力を送ることが如何に困難であるかを示している。つまり、この地域の戦闘を制限して規模を決めていたものは、まずは海上輸送の距離と島への揚陸である。

そのため、8月の米軍のガダルカナル島上陸以降、日米の勝敗は輸送によって決したといっても過言ではない。8月末までは米軍は小型で旧式(ただし高速)の輸送駆逐艦による輸送が主体だったが、徐々に本格的な輸送艦による輸送に成功した。それでも9月7日のように、米軍の輸送艦2隻が到着はしたものの、日本軍の航空攻撃によって揚陸を諦めて引き返すこともあった。米軍は最初の上陸時に11000名の兵士をガダルカナル島に上陸させたためか、その後9月中旬まではその維持のための補給物資や兵器・工兵隊の輸送が主だった。そして、兵士の増援については、9月18日の第7海兵隊4000名の増援の成功で、ようやく一息ついた。これでツラギからの移動を含めてガダルカナル島を19000名の兵士が守ることになった。

12-2-2    米軍の揚陸方法

米軍が送った輸送船団のいくつかは、ガダルカナル島へ向かう途中で日本軍哨戒機に発見された。しかしこの船団の攻撃に向かった航空機の攻撃隊の多くは、悪天候による視程低下などのために、輸送船団を発見・攻撃できなかった。船団攻撃のために夜間にルンガ岬沖に進出した日本の駆逐艦(一部巡洋艦)の多くも、そこで米軍の輸送艦を発見できなかった。9月中旬までに、ガダルカナル島付近で撃沈された米軍輸送艦は、輸送駆逐艦を除くと8月8日の航空攻撃による輸送艦「ジョージ・エリオット」以外にはない。

ルンガ岬付近は海岸地形が単調で開けており、夜間でも天候が良ければ輸送船を視認できたと思われる。しかし、ルンガ岬沖の夜間攻撃に出撃した日本軍艦船は、ルンガ岬で揚陸していた米軍輸送艦を発見できなかった。実は米軍では、ルンガ岬に物資を輸送する場合は、輸送艦は制海・制空権のある日中にのみ荷揚げを行うよう指示されていた。荷揚げが終わらない場合は、夜間に海峡を東に退却し、夜明けにルンガ岬に戻って揚陸を再開することになっていた [9]。そのため、夜間にルンガ岬沖に侵入して輸送船を攻撃しようとした日本軍艦船は、夜間も活動を行っていた輸送駆逐艦以外には、米軍の輸送艦を発見・攻撃することが出来なかった。

そして、米軍ではそれまでの教訓を元に、9月29日にガダルカナル島への輸送のやり方を明確に定義した。それは、1日で揚陸できるように、1隻当たりの積み荷を3000トンに制限した。ただし、ガダルカナル沖で荷物を揚陸する場合は日中だけ荷揚げを行うが、比較的安全なツラギで荷揚げする艦船は、連続的に荷揚げを行えた [9]。

一方で、日本軍は日没頃にガダルカナル島の300 km圏内に入り、荷下ろししてから日出前に300 km圏外に出なければならなかった。このため、駆逐艦が揚陸にかける時間は長くても2~3時間程度しかなかったと思われる。しかも、上述したように月明期には輸送できなかった。これらから補給物資の揚陸量が制限された。

12-2-3    日本軍潜水艦による攻撃

輸送艦に対する日本の航空攻撃は、天候に阻まれてしばしば失敗している。艦艇による攻撃は上記の通りである。それでは、潜水艦はどうだっただろうか?日本軍の潜水艦は、8月7日の米軍上陸時に、艦船攻撃のためにガダルカナル島付近に派遣された。しかし、到着したのが敵艦船の撤退後だったので、ガダルカナル島付近では敵艦船を見なかった。それでそれらの潜水艦は、3-2-4節で述べたように陸地の偵察を行った後、撤収してしまったようである。また、8月20日にエスピリッツ・サント方面で敵機動部隊が発見されると、第7潜水部隊を始めほとんどがそちらへと向かった。

その後潜水部隊は、8月23日と24日に再びガダルカナル島方面へ進出するように指示された。8月下旬、ソロモン諸島周辺海域には第1潜水部隊(伊9、伊15、伊17、伊19、伊26、伊31、伊33)、第3潜水部隊(伊10、伊174、伊175)及び第7潜水部隊(伊121、伊122、伊123、呂34)が作戦中だった [29, p62](伊174は27日に第7潜水部隊に編入された)。このうち、第7潜水部隊が26日頃からルンガ岬で敵艦船攻撃の配備についた。残りはサンクリストバル島方面に散って、31日に空母「エンタープライズ」の雷撃に成功している。

南東太平洋地図(赤字は重要地点)(再)

ルンガ岬付近に配備された第7潜水部隊は、敵を発見しなかったため監視区域を変更した。しかし、その監視地域は伊「123」、呂「34」を除いて、なぜか南緯10度(ルンガ岬は南緯9.5度、東経160度)より南になっている(「呂34」はエスペランス岬より西) [29, p64]。しかも、ルンガ岬に入るためのガダルカナル島東の海峡に配備された潜水艦「伊123」は、米掃海駆逐艦によって8月29日に撃沈された。つまり、ルンガ岬に入る海峡に入った艦船を攻撃する潜水艦は、29日以降いなかったと思われる。

8月31日に潜水艦「伊11」はガダルカナル島の南東で貨物船を雷撃して撃沈を報告したが、連合国軍にはそれに類する記録はない。第7潜水部隊は補給のために9月1日に第3潜水部隊(伊172、伊174、伊175)と交代した。

9月に入ると、ガダルカナル島東の海峡(ガダルカナル島、サンクリストバル島、マライタ島に囲まれた海域)においては、潜水艦「伊174」、「伊175」が、夜間に相次いでガダルカナル島に出入する敵船団を発見した [29, p124]。米軍船団は、早朝からガダルカナル島に揚陸するため、この海峡の通過は深夜となった。当時この海域では夜間にしばしばスコールがあり、低視程のために潜水艦による発見は近距離となった。潜水部隊は、避退潜航が精一杯で攻撃の機会は得られなかったとある [29, p125]。この時期にルンガ岬沖には、停泊中の船舶を攻撃する潜水艦はなぜか配備されていない。しかし、9月末になるとルンガ沖で輸送船「アルヘナ」が潜水艦「伊16」に雷撃されて大破し、11月には揚陸中の輸送船「アチルバ」が、やはり潜水艦「伊16」に雷撃されている。

日本海軍は、8月20日ころから米機動部隊がいそうなエスピリッツ・サント方面の海域には、15隻以上の潜水艦を散開線に投入していた。これらの潜水艦はたびたび米機動部隊を発見していたが、雷撃に成功したのは、31日の空母「サラトガ」の大破だけだった。戦史叢書(第098巻 潜水艦史)では、戦果が少なかったことを、散開線の変更がやたらと多すぎたこと、潜水艦の性能が艦毎に異なっていたため斉一の展開が出来なかったこと、命令系統が連合艦隊と部隊司令官、潜水艦隊司令からとまちまちで一元化されていなかったことを挙げている。しかもガダルカナル島への輸送阻止のためにガダルカナル島東方に投入されたのは、第3潜水部隊の3隻だけだった。

潜水部隊作戦経過図(9月6日~15日)(再)

米海軍は輸送船の護衛に機動部隊を投入していた。空母「ワスプ」を9月15日に雷撃で失ったものの、それによって日本の潜水艦を引きつけ、11-1節で示したようにガダルカナル島への増援輸送には成功したといえるのかもしれない。

12-2-4    船舶輸送の問題

米軍のガダルカナル島への輸送に使われた輸送艦(後の攻撃輸送艦)の多くは、8000-15000トン級で、速度も14-16ノット出すことができた。対空武装を持ち揚陸用の装備・設備も持っていた(この時期、直接岸に乗り上げて船首から車両や物資を下ろせる揚陸艦LSTなどはまだなかった)。

ガダルカナル島への米軍上陸を聞いて、日本陸軍はまずトラック島にいた大隊規模の兵力を輸送船で送ろうとした。しかし、その時たまたまかもしれないが、使えた日本の輸送船の速度は遅かった。トラック島にあった陸軍一木支隊第2梯団は、8月16日朝に陸軍徴用船「ぼすとん丸」と「大福丸」でガダルカナル島へ出発した。この船団は、巡洋艦「神通」と第34号、第35号哨戒艇に護衛されていたが、その速力は8.5ノットだった。

そして海軍は、グアム島にいた横須賀第5特別陸戦隊(横5特)を、トラック島経由で最大速力20ノットが出る特設巡洋艦「金龍丸」でガダルカナル島へ送ろうとした。しかし、7-1節で述べたように、その輸送は陸軍の低速輸送船に合わせる形になった。結局、この遅い輸送によって到着が飛行場完成の後になったことにより、せっかく高速が出せた「金龍丸」は爆撃を受けて沈没した。

実は1910年の「海戦要務令」によって、陸軍兵士の輸送は陸軍で行い、海軍がその護衛を行うと規定されていた(もちろん、この時点では大陸での戦闘が想定されている)。そのためトラック島でも、陸軍一木支隊を陸軍の低速徴用船で送り、海軍の陸戦隊は海軍の特設巡洋艦で送ろうとしたのではないかと思われる。

当初、南太平洋には特設巡洋艦として「金龍丸」と「金剛丸」の2隻が配備されていた(特設巡洋艦については12-2-7節で解説する)。ところが、「金剛丸」は3月にラエで米機動部隊のヒットエンドラン攻撃を受けて沈没していた。代わりの特設巡洋艦(または高速輸送船)は配備されなかったようである。比較的高速な海軍の特設巡洋艦は「金龍丸」のみだったが、もし一木支隊第2梯団と横5特を駆逐艦輸送と合わせて「金龍丸」で輸送できておれば、20日頃にはガダルカナル島に着いていた可能性がある。つまり、一木支隊と横5特(約3000名)を、米軍航空機が活動を開始する前に、まるごと輸送できていたかもしれない。

もっと言えば、一木支隊第2梯団がトラック島を出発した8月16日には、3-2-6節で述べたように、ニューギニア作戦のための南海支隊主力(支隊司令部と第144連隊)と追加の第41連隊が、輸送船とともにラバウルにあった。これらの南海支隊は8月17日に輸送船3隻(和浦丸、良洋丸、乾陽丸)でラバウルを出発し、翌日18日に無事にニューギニアのバサブアに上陸した。第41連隊は19日に輸送船2隻(靖川丸(最大速度14.2ノット)、妙高丸)でラバウルを出発して、21日にバサブアに上陸した [7, p337](バサブアまで距離は、ガダルカナル島までの約2/3)。

使われた輸送船の速度は、全てについてはわからないが、その中の1隻である和浦丸(4853トン)は最大16.5ノットで、他の船も同程度の速力を持っていたかもしれない。結果論ではあるが、(不要不急の?)ニューギニアへはトラック島の一木支隊を充てて、一刻を争うガダルカナル島へは、ラバウルにあった南海支隊を準備してあった輸送船で直ちに派遣していれば、飛行場が稼働する8月21日より前に空襲を受けることなくガダルカナル島へ上陸できていたと思われる。

つまりこの戦いは、 日米の技術の差や戦力の多寡の問題とは別に、第17軍司令官の判断にも依存していたことがわかる。既に移動準備が概ね終わっている南海支隊がラバウルの手元にあったのだから、それをどこに送るかという軍司令官の判断一つで、戦局が大きく変わっていた可能性がある。もちろん、南海支隊のニューギニア派遣は陸軍全体の方針でもあったので、変更するのは容易ではなかったかもしれないが、最終判断は第17軍司令官の手にあったと考えるのが普通だろう。もしフル編成の南海支隊2個連隊がガダルカナル島に上陸できていれば、また別な戦いになっただろう。

12-2-5    軍艦を用いた陸軍部隊の輸送について

陸軍は、8月から9月にかけてガダルカナル島での戦局に合わせて西太平洋にあった部隊をソロモン方面に集めた。しかしガダルカナル島方面における作戦は、開戦当初の計画にはなかったため、補給面における準備がなく、遠距離の輸送、中継拠点の整備、マラリア対策、現地自給策など、多くの問題を克服する必要が生じた [1, p87]。しかも、戦局の急な変化のため、鈍足である輸送船では間に合わず、陸軍は多くの部隊(一木支隊、川口支隊、青葉大隊、舞鶴大隊など)を、インドネシアやパラオから海軍の巡洋艦や駆逐艦で輸送した。これらの部隊は到着後に再編成される余裕がなく、フル装備や本来の編成ではないまま、そのまま各地の戦線に投入された。これも戦力が発揮できなかった一因と考えられる。

例えば川口支隊(第124連隊)や青葉支隊(第4連隊)をパラオやインドネシアなどから兵士と軽火器のみを急いで軍艦で輸送して、ラバウルやショートランド経由で大隊毎にタイボ岬や反対側のカミンボに上陸させた。そのため、上陸した部隊の編成はバラバラとなった。それまで陸軍部隊を海軍の艦艇で輸送するという計画がなかったため、とりあえずすぐに輸送できる部隊を、手元にあるすぐに輸送できる軍艦で、輸送出来る場所に送った感がある。なぜ東太平洋で戦う計画がなかったのかは、14-2節で議論するが、これはもともと陸軍は太平洋の島嶼で戦う想定がなかったため、南太平洋において部隊を必要な地域にまとめて迅速に海上輸送することができなかったと思われる。

12-2-6    海岸への揚陸の問題

ガダルカナル島への駆逐艦輸送について、8月25日に日本軍は輸送船による輸送に失敗し、その後「鼠輸送」と称して駆逐艦による輸送に切り替えた。そして、鼠輸送では重火器は輸送できなかったとされている。

駆逐艦の輸送能力は、1隻で人員150名、物資100トンが基準だった [7, p405]。数トンもある重砲は無理でも、92式70mm歩兵砲(大隊砲、重量204kg)、94式37mm対戦車砲(重量327kg)、41式75mm山砲(同540kg)、94式75mm山砲(同536kg)程度であれば、駆逐艦に搭載できた。8月28日に川口支隊の輸送に従事して、空爆により撃沈された駆逐艦「朝霧」には、大隊砲2門と弾薬と兵士が搭載されていた [29, p26]。ちなみに、野砲は草原などの平地で使用されるのに対して、山砲は山岳などの不整地でも分解輸送して使用できる大砲である(威力は野砲より劣る)。41式山砲は大隊砲として使われることが多かったようである。94式山砲はこれの改良版である。

前述の敷設艦「津軽」による12cm野戦高射砲1門を除いて、8月29日から9月7日までに高射砲2門、野砲4門、速射砲14門、山砲(連隊砲)6門がタイボ岬に揚陸されている(その一部は9月8日に米軍によって破壊された) [7, p405]。タイボ岬に揚陸された大砲は、敷設艦「津軽」で運ばれたものを除いて、全て駆逐艦で運ばれたと考えられるが、その際の揚陸方法に関する記述がない。9月7日に第24駆逐隊(海風、江風、涼風〉は、試験的に大砲を大発に載せて曳航しようとしたが、風浪で曳索が切れたりして大発は全て放棄されており [29, p59]、揚陸に大発は使われていない。

この時期、大発の曳航に成功した記述はなく、タイボ岬に大発はなかったと思われる。そのため、大砲類は折畳舟を用いて揚陸されたのかもしれない。しかし、「津軽」の大発がそのまま残されていた可能性がある。また、8月30日に哨戒艇4隻(旧式駆逐艦)がタイボ岬への揚陸に成功しており、これらの哨戒艇に大発が搭載されていれば、それらもタイボ岬に残されていたのかもしれない。

夜間であれば揚陸が容易であったかというと、必ずしもそうではない。月明時には、艦船は夜間も銃撃などの航空攻撃を受けた。ただし、米軍飛行艇などにはレーダーが積まれていたが、まだこの時期の航空機レーダーは初歩的なもので、岸と船を区別することはできなかった [29, p69]。また米軍パイロットの技術(急降下爆撃など)も、最初の間は実戦経験がほとんどない者が多かったので、それほど夜間の命中率は高くなかったと思われる(母艦被害によりガダルカナル島へ支援に来ていた艦載機のパイロットは別である)。

12-2-7    特設巡洋艦と高速商船について

もともと諸外国では、19世紀頃から有事になれば大量の民間商船を徴用して外洋作戦を可能とすることを想定して、平時から自国商船隊の育成に努めていた。近代戦における輸送の複雑化と重要性に鑑みて、日本軍でも軍用の輸送船の能力向上が図られていた。

日本では1932年から、「船舶改善事業」で老朽商船の更新を図ることとなり、5000~10000トン級の高速商船48隻(速力16~18ノット)が、補助金を付けて建造された。これで建造された全ての船は、太平洋戦争に入ると軍に徴用された。1937年以降も優秀船建造の助成は継続され、引き続き高速商船28隻が建造された。またこれとは別に、日本郵船では船名がSで始まるSクラス高速商船を7隻建造していた [34]。さらに「橿原丸」と「出雲丸」(速力25ノット)が空母転用を想定して建造され、これらは実際に空母「隼鷹」と「飛鷹」に改修された。この時期に補助金を付して建造された高速商船のほとんどは、戦時に軍に徴用された。

そして、軍に徴用された高速商船の一部は、太平洋戦争が始まると特設巡洋艦となった。なぜ「巡洋艦」だったのだろうか?これは帆船時代から通商破壊作戦を行う船の一種として商船に仮装した巡洋艦(Armaed Merchant Cruiser)があった。これは実態は武装商船なのだが、このクルーザーという英文を慣習的に巡洋艦と訳したためのようである。

特設巡洋艦は、外洋の哨戒任務および哨戒線に配置される特設監視艇の支援任務、外洋での通商破壊戦および偵察任務用、内戦部隊での母艦任務等が目的とされている。特設巡洋艦は、中には魚雷発射管や水上機(カタパルトはなくデリックで水上機を海上に降ろして発進する)を搭載したものもあるが、船体の大きさが近い以外に正規の巡洋艦との共通性はない。しかも外洋での作戦は、第二次世界大戦の直前から航空機の偵察・攻撃能力が飛躍的に発達したことにより、正規の巡洋艦でさえ安全でなくなっており、大型の商船を用いた作戦は無理があった。

そのためか、特設巡洋艦は太平洋戦争中に徐々に特設運送艦へと転換されている。日本海軍の特設巡洋艦は開戦前後に14隻あったが、終戦直後に機雷に触れて沈没した1隻を含めて、終戦後まで残った船はない。艦隊決戦に特化した海軍には、上記の海戦要務令にあったように輸送を直接担う役目はなかった。しかし、特設巡洋艦の性能は高速輸送船に適していたと思う。結果として、特設巡洋艦という中途半端な船種での運用は、成功したとはいえなかった。米国の攻撃輸送艦のように、特設巡洋艦を当初から輸送用の高速船として整備・運用していれば、もう少し違った結果になっていたかもしれない。

なお上記で建造された高速商船は、他にも特設水上機母艦や特設潜水母艦、特設機雷敷設艦などさまざまな特設艦に改修されて、それなりに活躍した。高速商船は小型空母にも改装されたが、海軍の商船改造空母は、米軍の護衛空母と違って正規空母に準じた艦隊目的に用いようとしたため、結果的に戦局に寄与することはあまりなかった(一部は航空機の輸送に用いられている)。

12-3    日本軍の通信の問題

12-3-1    通信の文化とハードウェアの問題

あくまで相対的な問題かもしれないが、そもそも日本は明確なコミュニケーションを重視しない風土があるのではなかろうか?暗黙の不文律というものがあり、それに従って最低限のコミュニケーションでものごとを進めるのが当然、という雰囲気があるような気がする。もしそういう文化があれば、軍事を含めてあらゆる面に普及していただろう。同一民族のためか「息が合った」とか「あうんの呼吸」などが重視された面があったかもしれない。しかし、組織がどういう場合でも組織として行動する(つまり下部組織が規定された役割を確実に果たす)には、どんなに離れていてもまず情報の共有と相互の意思疎通は必須である。「あうんの呼吸」では、よほどのことがない限り行動はバラバラとなり、想定された成果が得られることは少ない。

1930年代の日本軍における通信機材(電子機器を含む)の能力・普及は、欧米に比べて一歩遅れていた感がある。無線電話を含む通信技術は、やはり第一次世界大戦で大きく進歩した。第一次世界大戦後は、それを利用したアマチュア無線やラジオ放送などの電波の民生用の利用が始まった。日本でもそれが特別遅かったとは思えない。現在まで続いている「無線と実験」という雑誌の発刊は1924年である。当時のそういった新しいテクノロジーに対する熱気は、日本も他国と同じようだったようである。

しかし、それらの軍事利用となると、保守的というか一歩遅れてといった感じが否めない。たしかに軍事には民生用とは異なった仕様が求められるだろう。しかし、民生用には大量生産による安定した品質が求められる。そういった民生技術を利用しながら軍用の利用技術を相乗的に高めていくという発想が乏しかったのではないだろうか?それを暗黙の文化が後押ししたかもしれない。また標準化の所で述べるが、限られた研究者・技術者で、多種の無線機や電波探信儀(レーダー)を開発しようとしていたようである。戦前は無線に関する多くの技術を海外からの輸入に頼っていたのが、開戦後に突然途切れたことも影響しているかもしれない。

いずれにしても、日本の無線電話技術は遅れていた。欧州では、1939年には単座航空機にも地上や他機と交信する無線電話が装備されていたのに、日本ではそれができなかった(あってもほとんど使えなかった)。その実現は1945年に入ってからで、実質的に欧米より5年以上遅れた。これは地上での通信機器の発達にも現れている。米国陸軍は1941年に携帯型の無線電話ハンディトーキー(ウォーキートーキー)を開発して多くの部隊に配布していた(TVドラマ「コンバット」の世代には馴染みがあるだろう)。重さは2.3 kgで1.6 km程度通話能力を持っていた。一方で、ガダルカナル島で日本の陸軍部隊が使用した94式6号無線機は、重量約23 kgで通信能力2 kmだったことを見ればその違いが如実にわかる。

さらに、米国や英国、豪州は、ソロモン諸島の現地の自国民や現地住民の協力者に遠距離用の無線機とそのための発電機(と燃料)を配布して、豪州本国との情報網を構築していた。その通信網は着実に機能し、連合国軍の戦闘に大きく寄与した。それに比べると、日本軍はラバウルとガダルカナル島との間の部隊間の通信にも事欠く状況だった。このような違いも戦局に大きく関係したと思われる。

12-3-2    通信を用いた戦闘指揮

これまでも断片的に書いたが、日本軍の戦闘は、事前に手はず位はあったかもしれないが、いったん戦闘に入ると、航空部隊、艦船(艦砲射撃)、砲兵隊、あるいは各部隊は、多くの場合に状況に応じた連携をせずに単独で戦っていた。日本軍は通信機器のレベルが低いこともあって、司令部が通信を用いて一元的に戦況を把握して、陸海空の各部隊に通信で状況に応じた効果的な指示を出す、という発想があまりなかったようである。

米軍では専門の射撃指揮部隊あるいは連絡部隊を配置して、その場の陸上の戦闘状況に応じて、無線指示によって敵の拠点に対して空爆あるいは艦砲射撃をピンポイントで行うというシステムを採用していた。また既述したように、ガダルカナル島では陸軍機と海軍機の使用周波数の違いに直面して、海軍の無線をいったん基地で受けて、地上にいる陸軍機の無線を使って上空にいる陸軍機に伝達するような工夫も行っていた [10]。

予め射撃制御部隊を陸上に派遣しての艦砲射撃の例として、9月25日のガダルカナル島での米軍攻勢を挙げる。この日に米軍の第1海兵大隊がクルツ岬の西に上陸して、マタニカウ川沿いの日本軍に攻勢をかけた。海兵大隊は予想外の激戦で窮地に陥り、日本軍に包囲された。海兵大隊は司令部を経由した無線で駆逐艦の掩護射撃を受けることによって、日本軍の包囲を突破して海岸へ撤退しようとした。ところがちょうどその時、日本軍攻撃機によるルンガ岬への爆撃で米軍の通信網が破壊された。苦戦していた大隊は、掩護の艦砲射撃を行うことになっていた駆逐艦「バラード」と無線が通じなくなった。大隊は咄嗟に海岸から信号旗を使って駆逐艦に射撃位置を伝えたことによって、無事に日本軍の包囲を突破して海岸に到達でき、上陸用舟艇に収容された [9, p129]。

一方で、日本軍は一般的に陸と空の間や陸と海の間での連携は弱かった。例えば日中戦争では、地上部隊を支援する海軍水上機に対して、陸軍部隊からは布板信号で指示し、空中からは報告球を投下するという原始的な方法で連絡が行われていた [25]。日本軍では、米軍のように無線を使って陸上からの観測と連携して空からの爆撃や海からの艦砲射撃を行う、ということが出来なかった。

ただ巡洋艦を使えば、ムカデ高地攻撃の際に搭載していた水上機(観測機)を飛ばして、吊光弾で敵陣を探って(あるいは地上の砲兵隊と協力して)、艦隊に敵の砲兵位置を知らせることくらいは出来たかもしれない。搭載水上機の任務は着弾観測なので、その無線は母艦とつながるはずである。上空に水上機がいれば、発光すると位置が暴露するので、敵の砲兵は艦砲射撃を警戒して砲撃を控えたかもしれない。ただ搭載していた水上機はあくまで艦隊決戦時の着弾観測が目的なので、この時点では日本軍は巡洋艦を派遣して陸上砲撃を行うという発想はなかったと思われる。

また陸軍の方でも戦前に島嶼で作戦するという想定がなかったためか、軍艦による艦砲射撃を陸上作戦に活用するという発想が十分でなかった。味方への誤射の方を心配したが、日頃から海軍の戦法をよく知って打ち合わせしておれば、艦砲射撃を用いた陸上攻撃にもっと信頼を置けたかもしれない。

ガダルカナル島守備隊は、遅くとも8月下旬までには飛行場周辺の米軍の動きを遠くから監視できる高地を確保したようである。米軍機の動向や艦船の入泊などをラバウルに連絡した記述がある。しかし、その頻度や効果は不十分だった。輸送船攻撃のためにルンガ岬に突入した艦艇(主に駆逐艦)が、「敵を見ず」によって攻撃が空振りに終わった事例があまりにも多い(米軍艦船が夜間に退避していたことを知らなかったようである)。せっかく敵の近くに自軍がいるので、米軍の動きをよく監視・把握した報告を行い、それを有機的に活用できていたら、攻撃効果がもっと上がったかもしれない。

12-3-3    規格化・標準化の問題

日本では、ものごとを規格化・標準化して、作りやすくかつ使いやすいようにするという発想が一般に乏しいようである。つい最近まで水道栓のレバーは、押すと水が出るものと止まるものが混在していた。当時の戦闘機のスロットルも、機種によって押すと開く(加速する)ものと閉じる(減速する)ものがあったという話がある。大戦末期になると突然の空襲に手近な戦闘機に乗って迎撃することもあり、一瞬の操作ミスがあれば、それは致命的になっただろう。

製作も使用も名人芸が尊ばれ、どこでも誰でも作って使える、ということはあまり尊重されなかった。しかし、機器を規格化・標準化することは、機器の動作が安定して誰でも操作しやすいものにするためには重要なことである。また、規格化・標準化によって大量に製造することで価格も下がる。このことは乾電池の例を見ればわかる。乾電池は大きさの規格が統一されているため、電池が切れても世界中のどこででも安く買えて使うことができる。

詳しくは通信の歴史の専門家に譲るが、日本軍における通信機材の多種多様な種類を見ると、共通の基本部分を重点的に開発してそれを各分野で応用するよりも、あらゆる分野でそれに応じた通信機材を、別々に一から開発しようとしていたように見える。その結果、どれも完成度が低く、能力的に不完全・不安定で、しかも生産に時間がかかったのではないかと思われる。

通信機材はこの一例に過ぎない。日本での陸軍と海軍で異なる規格による多種の航空機の開発、銃砲類とその弾薬など多くの事にこのことが当てはまる。弾薬と砲はあったが、それぞれの規格が異なるので使えなかったという戦記もある。ちなみに、米国では南北戦争の前から小銃間の部品の互換性に意を注いでいた。そして第二次世界大戦時には、米軍では例えばブローニング M2 重機関銃とその弾薬を大量に生産して、地上の兵士も、戦車も、航空機も、そして陸軍も海軍も共通に使用していた。

物資を大量に揃えて誰でも円滑に利用するには、その製作や利用に関する規格化・標準化が欠かせない。しかし、軍だけでなく、日本にはそれを重視する文化があまり根付いていなかったし、それは現在でも十分とはいえないかもしれない。

12-4    その他の課題など

12-4-1    沿岸監視員による情報網

沿岸監視員という制度は、遡ると1919年に豪州海軍が民間組織として設立した [22]。英国や豪州は、日本による脅威が増した時期から、目の届きにくいソロモン諸島にいる自国民や現地住人の警察官や郵便局員、教師などに、無線機を与えて沿岸監視員とした。そして、彼らの下に現地住民を配して沿岸監視体制を構築した。当初彼らは豪州海軍情報部の政府職員だったが、1942年には連合国情報局の管理下に置かれた [22]。

彼らには無線機はもちろん、バッテリーや発電機とそのための燃料も定期的に提供されていた。その無線機は電話でも600 km、電信だと1000 kmも届いたという [35]。その通信能力は、ガダルカナル島の監視所が持っていた無線機より高かったことに注目する必要がある。沿岸監視員の数は1939年には100か所に約800名の沿岸監視員がいたとされている [35]。彼らを支える仕組みを含めると相当に大規模な組織だったことがわかる。

米軍の上陸時には、これらの沿岸監視員からの無線機による情報によって、上陸艦隊に対する日本軍の航空攻撃が阻まれた。また彼らは、飛行場建設に協力する現地住民に混じって、飛行場の建設状況を報告していた。またガダルカナル島で戦いが始まると、撃墜や不時着した米軍パイロットの救助や保護に活躍した。救助したパイロットは118名に上るという [22]。

このような熱帯の辺境での諜報システムは、一朝一夕にできるものではない。それにはある意味でフロンティア・スピリット的な気風ととともに、植民地経営の歴史を感じる。英国や豪州によるこの平時からの情報網には、かつての大英帝国のしたたかさを感じる。

日本軍は、ほとんどが現地住民からなるこんな南太平洋の辺境の地に、このような監視・情報網があることを予想だにしなかっただろう。通常は航空攻撃による主導権(場所と時刻)は、奇襲による攻撃側にある。しかし、この監視・情報システムによって、連合国軍は日本軍機による奇襲を多くの場合に未然に防ぐことが出来た。この利点はいくら強調しても強調しすぎることはないだろう。

12-4-2    航空攻撃時の天候把握

ラバウルからはしばしばガダルカナル島へ航空攻撃を行ったが、かなりの頻度で天候不良で引き返している。例えば、一木支隊第2梯団がガダルカナル島に近づいていた8月23日に航空攻撃でもガダルカナル島の敵機を叩くことが計画され、陸攻24機が零戦13機とともに出撃したが、天候不良で引き返した(第2梯団は別の要因で引き返している)。

第25航空戦隊の日誌を見ると、この天候による引き返しはしばしば起きている。これはガダルカナル島守備隊から天候報告を受けていなかったのか、それとも天候が急変したのかは不明である。さらに第25航空戦隊では、9月の初めまで天候偵察機を飛ばしていなかった。連合艦隊参謀は、哨戒を含めた基地航空隊の活動に対して、「天候偵察ノ手段不足」と述べている [4, p582]。

熱帯の気象は局地的あることが多い。つまり、場所や時刻が異なると天候も異なることが多い。天候偵察機を飛ばして、雲の薄い地域がどこかにあるのかないのか、どの地域の天候が回復に向かっているのか悪化しているのか、を把握することは、航空戦にとって重要な基本と思われる。広範囲の気象を把握しておけば、行く手が悪天候のように見えても、少し迂回すればそれを避けられた場合があったかもしれない。

また、ラパウルとガダルカナル島との間に中間基地を整備しなかったことが、気象把握の上からも作戦遂行に重大な影響を及ぼしたとも述べている。しかし、目的地のガダルカナル島には守備隊がいた。そこの天候情報がわかれば、それだけでも進撃を阻んでいる気象擾乱が、広域にわたる大規模なものなのか、その付近だけの局所的なものなのかの判断が出来たかもしれない。途中の島々に気象部隊を配置するやり方もあった。日本軍は戦闘における気象の重要性に関心があったようには見えない。

そういった航空戦の基本的な理解不足がガダルカナル島への航空攻撃が不徹底になった一因かもしれない。連合艦隊司令部の指摘を受けてか、9月に入ると第25航空戦隊日誌には天候偵察という飛行目的が、しばしば見られるようになっている。ただし、気象の専門家が同乗したわけではなく、搭乗者が目視で判断しただけと思われる。

12-4-3    上陸直後の日本軍の対応

次に8月の米軍のガダルカナル島上陸後、飛行場の完成までが戦局を左右する重要な状況だったにもかかわらず、日本軍は当初の予定通り、戦力を割いてニューギニアでの作戦(海軍によるラビ攻略と陸軍によるポートモレスビー攻略)を進めた。まず大きな躓きは、ここにあると思われる。日本軍が、ガダルカナル島優先という戦略に転換するのは9月に入ってからである。この1か月の遅れは致命的であり、結局取り戻せなかった。

ラバウルの陸軍の第17軍と海軍の南東方面部隊(第11航空艦隊と第8艦隊、作戦によって第2艦隊と第3艦隊が加わる)は、ロバード・ゴームリー(後にウィリアム・ハルゼーに代わる)が率いるガダルカナル島の「南太平洋方面部隊」と、ダグラス・マッカーサー率いるニューギニアの「南西太平洋方面部隊」の、米軍の2つの方面部隊を一度に相手にしていた。そのため、ガダルカナル島を攻撃しながら、ニューギニアへの攻撃や輸送船団の護衛を行うなど、戦力を分散せざるを得なかった。

前にも述べたように、ガダルカナル島の飛行場の完成前に、作業を妨げる大規模爆撃を執拗に行ったり、後に行った戦艦や巡洋艦による艦砲射撃を繰り返して行ったりしておれば、飛行場の整備は制限され、完成は遅れたたはずである。飛行場の完成が数日遅れていれば、一木支隊第2梯団や川口支隊の輸送船による輸送は航空攻撃を受けることなく順調に進み、もっと多量の兵力と装備を揚陸できていたもしれない。

この問題には日本軍の基本的な考え方、特に航空機の威力の過小評価が関連していると思われる。またその運用に当たっても、規模の問題(陸攻30機程度が、実質的に一度に運用できる限界だった)や天候把握の問題(出撃しても途中から悪天候で引き返した例が多い)、次で述べる中間の航空基地(ブインの整備作業を始めたのは9月8日で完成は9月末)など、航空戦の当時の理解に問題がありそうである。これについては14-3節で改めて論じる。

12-4-4    ガダルカナル島までの中間基地

日本海軍は、5月のツラギの占領後にラバウル周辺の島々の基地強化に意を注いでいた。米軍によるガダルカナル島上陸時、カビエンには航空基地が完成していたが、多数の大型機を収容するにはさらに拡張する必要があった。また、ラバウルからガダルカナル島への往復にかかる6時間は、単発機にとってはあまりにも遠かった。ガダルカナル島上空での滞空時間や乗員の疲労、天候の急変を考えると、この距離は航空攻撃に支障をもたらしていた。ブカには豪州軍が使っていた滑走路があったが、施設はなく不時着用(つまり緊急着陸用)だった。なお、水上機基地はショートランドがあったが、8月16日にギゾにも基地を設置している。

日本海軍は、ブーゲンビル島に3月末に進出したが、早くからこの中間基地問題に気づいており、6月末から各地を調査の上、ブーゲンビル島東岸のキエタや北端のブカにあった飛行場跡地を整備しようとした。しかし、7月初めの調査により、それらは山が近い地形と輸送路の状況を見て断念していた [4, p387]。他には適地が見つからなかったようである。

ラバウルからガダルカナル島までのソロモン諸島付近の図(再)

しかし、後にブインやムンダに航空基地を作ったように、中間の飛行場適地は真剣に捜せばあった。また、現地住民とうまく協力関係を構築しておけば、SN作戦開始時に地形に関するさまざまな情報を現地住民から手に入れられたかもしれない。ガダルカナル島でもそうだが、現地住民と良好な関係を築いて(出来れば組織化して)現地情報を入手するなど、彼らをうまく利用するという発想はあまりなかったようである。

航空戦に精通しておいれば、航空戦を戦うには飛行途中での天候急変やエンジン不調などの場合に備えて、予定の目的地を変更して着陸できる飛行場を複数確保しておく必要があることはわかっていたはずである。7月の中間基地探しは、既存の使える飛行場があればという程度で、新規に建設するというほどの真剣さはなかったのかもしれない。

中間地点であるブーゲンビル島のブイン基地の建設が始まったのは9月初めで、同月末には完成したが、実際に使用され始めたのは10月に入ってからだった。SN作戦開始時に建設を始めていれば、8月初めには使用できたのではないかと思われる。そうすれば、ガダルカナル島までの距離は半分程度となり、島上空で長時間滞在できるだけでなく、ラバウルにあった航続距離の短い零戦32型(2号零戦)も使えるようになるので、航空戦の状況は少しは変わっていたかもしれない。

12-4-5    日米両軍兵士の練度

ガダルカナル島上陸作戦以前には、アメリカ本土には実戦経験のある兵士はほとんどいなかった。しかも米軍首脳部は、ガダルカナル島・ツラギ島の歴戦の日本軍兵士の能力を、質・量ともに高いと推定していた。ガダルカナル島上陸作戦は、キング提督とニミッツ提督にとっては、兵士の凄惨な損害を覚悟した上での、初めての敵前強襲の上陸作戦(水陸両用作戦)だった。

当時アメリカ国内では、対独優先で太平洋では当面守勢、という考えが多かった中で、米軍はこれだけの多大な被害を覚悟した作戦を強行した。米軍首脳部は、召集(志願)したばかりの未経験の若年兵士では、経験豊富なベテラン兵士を多数抱える日本軍と対等に戦えば勝てない、という謙虚さ・客観さがあったのではないだろうか?それが直接対決をなるべく避けて、情報を重視し日本軍の補給を叩き、状況に応じて奇襲攻撃をし、近代兵器の質・量を揃えて機械力で圧倒するという行動に表れているように見える。

しかし現場の米軍兵士の実際の問題として、実戦慣れしていない兵士をどう対処していくかが、切実な問題としてあった。ガダルカナル島に上陸した米軍は、防衛線から外に出るパトロール隊を頻繁に出した。それは戦場となりそうな現地の風土や地理に慣れさせると共に、出くわした日本軍との小規模な攻撃を通して、徐々に兵士に実戦経験を積ませていく意図があったようである。

そして米軍兵士の練度は確かに上がっていくとともに、戦いを通じて日本軍兵士への過度な恐怖は減っていった。それはガダルカナル島での日本軍のまずい攻撃指導と相まって、自信へと変わっていったようである。米軍は、「ガダルカナル島において日本軍兵士の神話が砕かれた」と述べている。そういう意味では、ガダルカナル島での日本軍による中途半端な攻撃が、米軍兵士の練度と士気や自信の向上に大きな影響を与えた [22]。

反面、日本陸軍は米軍(海兵隊)を質・量ともに過小評価していたふしがある。実態を知ろうとせずまず敵を呑んでかかる(意気込みを見せる)。そして味方にさえ弱みを見せてはならない、という虚栄心がどこかで陸軍を支配していたように見える。ガダルカナル島の陸軍部隊からは、攻撃前に敵情不明なまま「任務完遂ノ確信アリ 御安心ヲ乞フ」といったような景気の良い電文がラバウルの第17軍司令部にしばしば打電されている(例えば [33, p27]、 [24, p126])。

そういった根拠のない「主観の伝達」にどれだけ意味があったかわからない。しかし司令部の方も現地軍がそう言っているのなら、と安心してしまうのである。だとすれば、日本軍(特に高級幹部)にとってまず戦わなければならなかった敵は、むしろ自身や自軍の主観性であったと言えるかもしれない。

12-4-6    戦艦を用いた飛行場砲撃

ここでの範囲からは逸脱するが、日本軍が10月に行ったガダルカナル島飛行場への戦艦による艦砲射撃について、少し述べておきたい。元来、戦艦は対戦艦用に建造されている。そのため大砲も砲弾も、陸上に向けて砲撃して効果を上げることを想定されて作られていない。しかし戦艦は、海上に浮かぶ移動できる巨大な大砲としてみてみると、海岸に近い場所では大きな脅威となり得る。

日本海軍は、対空用に開発した榴弾である零式弾や三式弾を、飛行場を使用不能に陥れるために陸上に撃ち込むことを思いついた。榴弾であれば、地上で爆発しても広範囲に被害を与えることが出来る。これは斬新な考えであったと思われる。またこれは、艦隊決戦で戦艦同士が撃ち合って決着を付けるという機会がほとんどなくなった時点で、戦艦の新たな利用方法を編み出したともいえた。そして連合国軍もアッツ島への上陸やノルマンディー上陸などの各地の上陸戦で、戦艦による陸上砲撃を積極的に活用するようになる。

戦艦といえども航空機(特に雷撃機)には太刀打ちできない。ところが、当初のガダルカナル島の米軍航空戦力の中心は急降下爆撃機だった(ガダルカナル島に初めて少数の雷撃機が配備されたのは9月12日 [9])。急降下爆撃機は駆逐艦や輸送船の攻撃には絶大な威力を発揮するが、戦艦に対しては厚い装甲を爆弾が貫通できず、装甲の外側で爆弾が爆発しても威力は限定的である。

この戦艦による飛行場砲撃を9月に行っていれば、昼間であっても米軍は対抗手段がなかったのではなかろうか?真珠湾攻撃では、急降下爆撃機の爆弾では戦艦の防御甲板を破れないので、停泊中の戦艦に対して、戦艦の砲弾を改造した800kg爆弾で高空から水平爆撃を行っている。9月に戦艦「大和」級か「長門」級をガダルカナル島砲撃に投入していれば、急降下爆撃機で撃沈されたとは考えにくい。少数の雷撃機は9月に配備されたようだが、多数の雷撃機をガダルカナル島に配備するのはもっと後のことである。

連合艦隊の角田覚治少将が、11月に戦艦による再度のガダルカナル島の砲撃を進言した。しかし、それは却下される。その理由はトラック島には、戦艦に給油する十分な重油がもうないというものであった。艦隊決戦の根拠地としての要であったトラック島には、短期決戦を想定していたためか、なんと十分な量の重油タンクがなかった。トラック島では各艦はタンカーから直接給油するか、戦艦から重油を分けてもらっていた。そのため、タンカーによる重油の補給が停滞すれば、戦艦用の重油もなかった。

12-5    熱帯の気象の補足

「アリューシャンでの戦い」でも述べたように、気象は戦闘に大きな影響を与える。熱帯の南太平洋でも気象は戦闘に影響を与えた。しかし、熱帯の気象は中緯度とは全く異なる。一部の戦記で熱帯の悪天候の原因を、前線(不連続線)の影響としているものがあるが、これは間違いである。熱帯では前線は発生しない。前線が発生するのは概ね北回帰線より北と南回帰線より南である。

熱帯の悪天候は積乱雲などの気象擾乱によるもので、異なる気団の衝突による前線のような組織的なものではない。熱帯はコリオリ力が弱く、中緯度のような低気圧(温帯低気圧)と前線は発生しない。熱帯低気圧は発生するが、これは前線を伴わない。熱帯に前線ができないのは気象学者から見て常識なので、戦史を分析される方は注意していただきたい。

ただし、熱帯には積乱雲が組織的にあつまる大規模な地域がある。これは熱帯収束帯(ITCZ)と呼ばれ、南太平洋だとボルネオ、インドネシア、西部ニューギニア付近にかかることが多い。この位置はエルニーニョとも関連しており、エルニーニョが起こると位置がずれて逆にこの付近は晴れて干ばつとなる。

もう一つの同様な地域として、ガダルカナル島やサモア付近には南太平洋収束帯(SPCZ)というものがある。これはちょうどニューカレドニアとソロモン諸島の間に南東に傾いて発生することが多い。これが発生すると、この北東側では積乱雲が多く天候が悪く、反対にこの南西側は晴れることが多い。この位置は、数百 kmのオーダーで位置が動くことがある。珊瑚海海戦時に、南東側に位置した米軍機動部隊は雲にかかることが多く、北西側の日本機動部隊上空の雲が少なかったのは、この南太平洋収束帯の位置が影響していたのかもしれない。

第二次世界大戦の前には熱帯の気象にはほとんど関心が向けられておらず、熱帯の気象の実態は不明だった。米国では世界的な気象学者ロスビーが中心となって、大戦中にシカゴ大学の付属施設として、プエルトリコに熱帯気象研究所を作って熱帯気象の研究を行っていた(カール=グスタフ・ロスビーの生涯(7))。日本軍では、主戦場が南方の熱帯であったにもかかわらず、熱帯の気象を専門に調査する組織はなかった。これは日本にロスビーのような人物がいなかったという単純な問題ではないだろう。戦争にとって気象がどの程度重要かという必要性の理解の基本がまずあって、その上に立って専門家が研究を主導できたということだろうと思っている。

近代戦闘における気象の重要性は、第一次世界大戦で初めて各国が痛感したことであり、第一次世界大戦の途中で、各国の気象部隊が大幅に強化された。戦争における気象の重要性を理解していた米国では、第二次世界大戦が始まると、米国はシカゴ大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)などの大学で数千名からなる気象技術者の大量養成を開始している。ドイツでは開戦前に既に2700名の気象学者がいて、そのほとんどが博士号を持っていたという [36]。

第一次世界大戦での気象部隊の発達を経験していない日本軍は、航空戦を含む気象の重要性の認識が低かった。ツラギでもガダルカナル島でも気象専門の部隊はおらず、気象観測を行っていなかった。また、気象部隊もごく一部の気象学者を除いて前線を重視するベルゲン学派気象学を採用していなかった(気象が急変する前線は、航空機や艦船の運用にとって重要である)。航空攻撃のための天候偵察機の導入も遅かった。占領されて天候偵察機を簡単には飛ばせない欧州戦域では、英国は各地のパルチザンに気象測器を投下して、気象観測を行ってもらい、その結果を暗号無線で報告させていた。またグリーンランドでは米国とドイツとの間で気象観測所の争奪を巡る戦闘を行っていた。それらの姿勢は日本軍の気象観測への対応とは大違いである。十分な気象観測網とその解析中枢があれば、海軍乙事件(古賀連合艦隊司令長官の熱帯低気圧による遭難)なども避けられたかもしれない。

参照文献はこちら



10. 川口支隊による飛行場攻撃

(これは「ガダルカナル島上陸戦 ~補給戦の実態~」の一部です)

 

10-1    第17軍上層部の考え

海軍としては、地上部隊で飛行場を攻略するためには制空権、制海権の確保が必要と考えていた。そのためには敵海空戦力の撃破が前提であり、そのためにはまず地上部隊による飛行場の攻略が必要になる、となって論理が循環した。しかも、サンタクルーズ諸島方面には敵機動部隊がいることもわかっており、それにも対処しなければならなかった。ここにきて、ようやくガダルカナル島の敵飛行場を早期に利用可能にさせてしまった失敗を感じたのではないだろうか?

前述したように、陸軍は第1回鼠輸送の失敗により、一時はガダルカナル島放棄論まで出たが、その後の駆逐艦輸送が順調にいったことにより、撤退論は立ち消えとなった。しかし、駆逐艦では必要な人員や物資の一部しか輸送できず、しかも重火器や戦車は送れなかった。また一部の部隊は舟艇機動によって分離するなど、さまざまな課題を抱えていた。また、米軍の戦力も十分に把握できていなかった。

前述したように、ガダルカナル島に上陸したアメリカ兵は、5個大隊11000名(戦闘支援員を含む)だったが、その後、ツラギ方面の残敵掃討が終わったため、ツラギにいた海兵隊の空挺部隊とエドソン中佐指揮下の襲撃大隊をガダルカナル島へ移動させていた。その結果、ガダルカナル島を守っている海兵隊は7個大隊弱となっていた。

第17軍では、上陸時やその後の輸送の分析から、ツラギとガダルカナル島の米軍の総兵力は2万名近いが、ガダルカナル島の戦闘員の数は5000名と判断していた [7, p463]。そのため、大本営の田中新一作戦部長は、さすがに川口支隊だけでガダルカナル島の制圧は無理で、せいぜい飛行場全体かその一部制圧とみていた。そして引き続いて兵力を投入して、10月に第2次攻撃、第3次攻撃を計画していた(それらは引き続き飛行場奪還攻撃となっていく)。

攻撃側は通常防御側の3倍の兵力がセオリーである。第17軍は飛行場奪還のための兵力に不安を持つようになり、ラビ作戦用の青葉支隊の増援の必要性を川口支隊に問うたが、9月6日に川口支隊長は「現兵カニテ任務完遂ノ確信アリ・・・攻撃日時ノ遷延ハ最モ不利ナリ」と返答した [7, p437]。しかし、第17軍では、念のため青葉支隊を個別にガダルカナル島へ輸送する措置を取った。青葉支隊の第2大隊はタイボ岬に、第3大隊はタサファロングへと輸送された。さらに、青葉支隊の司令部と第1大隊もタサファロングへ輸送されたが、これは川口支隊の攻撃に間に合わなかった。

ガダルカナル島北西部図(再)

一方で、川口支隊長は第17軍に対して、海軍との協定に基づいた攻撃前の航空攻撃、攻撃開始時における飛行場北岸に対する陽動、海上を逃亡する敵の殲滅を要望したが、艦砲射撃については味方討ちを懸念して行なわないように要望した。これは艦船と陸上部隊との間の通信が不全であることを意味している。つまり海軍の支援による攻撃は、予め日時を指定した上で、基地「付近」を砲撃・爆撃するという限定したものだった。陸海軍の連携のための組織などのソフトウェアや通信などのハードウェアが十分でない状態では、ピンポイントでの攻撃は無理で、およそ基地付近のアバウトな砲撃が限界だったと思われる。

10-2    ガダルカナル島での川口支隊の行動

8月31日に部隊とともにタイボ岬に着いた川口支隊長は、一木支隊先遣隊の残りと第2梯団を合わせて混成大隊を編成し、それを熊大隊と呼んだ。そして、その熊大隊と麾下の第124連隊第1大隊、第3大隊の3個大隊を主力とし、支隊司令部には無線分隊、工兵隊、支隊直轄の兵站病院などを加えた。

川口支隊の上陸から攻撃準備までの行軍図
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川口支隊の第1大隊、第3大隊は9月1日に西のテテレ方面に向けて出発させ、支隊本部と熊大隊は編成のためにタイボ岬近くのタシンボコに残った。特に第3大隊は、大部隊の移動を空から悟られないためか、ほとんど密林内を行軍した。密林内の行軍は、手強いつる植物、生い茂る下草、鬱蒼とした樹木、急峻な渓谷や尾根などのため、困難なものとなった。沼沢や丘陵のため、砲兵隊による火砲の運搬も困難を極めた。また弾薬輸送に使っていたリヤカーもパンクしたり車軸が曲がったりしたため、弾薬は全て人力で運搬した [7, p455]。

また9月4日に第2師団第4連隊である青葉支隊の第2大隊がタイボ岬に上陸して川口支隊の指揮下に入ったので、それを青葉大隊と呼んだ。さらに青葉支隊の第3大隊と連隊砲1小隊が後に続く予定だったが、後述する米軍のタイボ岬襲撃のため、それらは場所を変えて11日にガダルカナル島西側のカミンボに上陸した。なお、川口支隊の攻撃に引き続くため、青葉支隊の連隊本部(連隊長 那須弓雄少将)と第1大隊(計1116名と連隊砲6、速射砲4など)が15日に同じくカミンボに上陸した [29, p106]。軍の編成が複雑で錯綜していることがわかる。

川口支隊の構成図。所属部隊毎に色を変えている。
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10-5-1節で述べるように、川口支隊司令部はラバウルと直接交信が出来る無線機を持っていなかった(無線隊は舟艇機動によりタサファロングの連隊司令部にいたが、装備が完全だったか不明)。ラバウルの第17軍との通信は、カミンボのガダルカナル島守備隊を中継して行われた [33, p37]。しかもその川口支隊とガダルカナル島守備隊との間の通信さえ順調ではなかったようである。前述したように、舟艇機動の岡部隊(第35旅団基幹の第124連隊司令部と第2大隊)は、5日にガダルカナル島西側に着いたことは川口支隊司令部での無線傍受によって判明した。川口支隊司令部は伝令を飛行場南部のジャングルを迂回させて、タサファロング付近の岡部隊に攻撃計画を伝えた [7, p456]。これらを総合すると、川口支隊の攻撃参加兵力は6217名となった [29, p116]。

10-2-1    攻撃日の延期問題

タイボ岬にいた川口支隊では、先行部隊が海岸沿いにテテレ付近まで進んだが敵を見なかった。そのため、川口支隊長は6日に折畳舟を使って海路テテレに進出し、青葉大隊をその先のトゴマ岬へ、熊大隊をコリ岬へと進出させた。精密な地図がないジャングル内を、現地住民の案内もなしに進軍したようである。一木支隊の現地住民に対する蛮行 [10]や米軍の指示によって、現地住民は日本軍に協力しなかった(つまり姿を消した)ようである。手探りで道を探ったため、湿地や雨で増水した川などにぶつかり、部隊や弾薬・食糧の輸送は予定通り進捗しなかった。そのため、7日に川口支隊長は攻撃開始を13日に延期する旨を第17軍に連絡した [7, p444]。

ところが、敵の有力部隊が9月5日にフィジーに到着したとの情報により、第17軍は大本営から攻撃繰り上げ検討の要望を受けた。それを受けて第17軍司令部は翌8日に、川口支隊に攻撃開始の繰り上げの可否を打診した。ジャングル内での行軍悪化によって13日への攻撃延期を決断した翌日にもかかわらず、8日に川口支隊長は攻撃を12日に戻すと返答し、状況によってはさらに(11日に)繰り上げることもあり得ると返答した [7, p446](米軍の増援部隊は、12日にエスピリッツ・サントに到着し、14日にガダルカナル島へ向けて出航した [9])。

この攻撃日を12日に戻したことが、川口支隊の攻撃に大きく影響したと考えられる。フィジーに米軍の増援部隊が到着しても、それがガダルカナル島へ直ちにやってくるとは考えにくい。輸送には少なくとも1週間以上はかかるであろう(実際に増援部隊がガダルカナル島に着いたのは9月18日)。仮に輸送船が着いて兵士を速やかに上陸させることができても、弾薬や食糧などを揚陸するには一定の日数が必要となる。輸送船が到着しても直ちに戦力を発揮できるわけではない。第17軍は、川口支隊が行軍状況の困難によって攻撃日を繰り下げるという返答をした翌日に、攻撃日の繰り上げを打診しなければならないほどの差し迫った重大な状況の変化があったようには見えない。

また川口支隊も、状況に鑑みて延期した攻撃日を、第17軍からの打診が来るや直ちに元に戻すなど、現地の状況よりも上層部への迎合を優先したようにも見える。川口支隊は、上層部の意図を正確に把握するとともに、現地の状況を詳しく伝えるなどの上層部との密なコミュニケ-ションが不足していたのではなかろうか。

川口支隊長は、3日にタシンボコの海岸近くを、米軍輸送艦「フォマルハウト(AK-22)」と護衛の駆逐艦3隻が通過したのを目撃していた [7, p442]。この輸送艦はフィジーの増援部隊とは直接は関連がなく、主に物資の補給のためだったが、支隊長はこれを見て、米軍部隊が増勢されつつあるというあせりがあったのかもしれない。いずれにしても、この進軍途中の時点で、しかも攻撃延期を連絡した直後に行った川口支隊長の攻撃日の安易な前倒し判断が、12日の準備不足で徹底さを欠いた混乱した攻撃につながった。

10-3    米軍のタイボ岬奇襲上陸

米軍では、東方のタイボ岬付近に日本軍が上陸した模様であることを現地住民から聞いてはいたが、その規模は全くわからなかった。現地住民の斥候は日本軍を約300名と報告したため、米軍はこれを掃討することにした。

9月8日に、米軍は襲撃大隊(5個中隊、850名)を輸送駆逐艦「マンリー」と「マッキ-ン」と港内哨戒艇(YPボート)などに分乗させて、タイボ岬西方のタシンボコの海岸に機動上陸することにした。空からはP-400などの航空機が陸上支援することになっていた。

輸送駆逐艦「マッキーン」https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nara-series/80-g/80-G-390000/80-G-391483.html


出撃する直前に、日本軍がその規模を急激に拡大しているという現地住民からの報告が入ったがあまり信用されず、計画はそのまま実施された。9月8日0520時から襲撃大隊のタシンボコでの奇襲上陸は成功した。また0845時頃には応援の空挺部隊(3個中隊)がさらに上陸した。

日本軍では、この前日の7日の夜に、第24駆逐隊(「海風」、「江風」、「涼風」)によって野砲中隊(野砲4門、速射砲2門、兵士161名)がタイボ岬に上陸していた [29, p59]。しかし、川口支隊の本隊は7日に出発した直後で、タイボ岬付近にはわずかな守備兵がいただけだった。現地の残置部隊とこの野砲中隊だけでは、上陸した米軍に対抗することができずに退却した。

米軍が上陸した際には日本兵が軽微な抵抗を行ったが、上陸部隊がタシンボコに入ったときには、守備兵は既に撤退した後だった。そこで調べると、現地住民からの報告が正しかったことがわかった。大量の食糧、装備、弾薬などが備蓄してあり、その量から日本軍の規模は4000人以上と推定された [10]。米軍は、残置してあった75mm砲4門や37mm対戦車砲1門(これは米軍の脅威となっていた)、舟艇などを破却し、大量の食糧を処分した [7, p456]。数千個の缶詰に穴を開け、数百の米袋を海に投げ捨てたとある [15]。そして、弾薬や無線機などを焼却した後、午後遅くに計画通り再び海へと退却した。この大量の備蓄物資の喪失は、後の日本軍の飢餓の一因ともなった。 

1942年9月8日の海兵隊によるタイボ岬襲撃時の侵攻図
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ラバウルの南東方面部隊がこの米軍の上陸を聞いたのは、第5空襲部隊(第25航戦)がラビ攻撃に出撃した後だった。司令部では第6空襲部隊(第26航戦)を敵輸送船の薄暮攻撃に振り向けようとしたが、機材整備中で攻撃できなかった [29, p91]。R方面航空部隊(ショートランド)の零式観測機(水上機)11機が、レカタを経由して、タイボ岬沖へ艦船攻撃に向かった。ところが到着は夕方だったため、米軍の艦船は既に引き揚げた後だった。一部はタイボ岬上空で敵艦爆と交戦し、1機が未帰還となった。また一部はツラギを爆撃した。

後方での米軍上陸を聞いた川口支隊長は、これを米軍の新たな増援部隊の上陸と思った可能性がある。前述したように、支隊長は米軍の輸送艦がルンガ岬に向けて航行しているのを目撃していた。支隊長は、挟撃を避けるために、貴重な戦力を割いて歩兵1個中隊と機関銃1個小隊を東方のタイボ岬に派遣した。これらの派遣部隊が12日以降のムカデ高地の戦闘に参加できたかどうかはわかっていない [7, p447]。米軍は海路撤退したが、現地の無線機を破壊したため、川口支隊や第17軍は、タイボ岬の状況がその後どうなっているのかがわからなかった。

川口支隊は、第17軍の了承の元で、後方を警戒しながらも西方への進撃を続けた。米軍がタイボ岬に居座っていると考えていたと思われる。そうなると、根拠地が占領された以上、タイボ岬の敵の前進を阻止している間に、飛行場を奪取する以外の選択肢はなかった。また進軍の最後尾にいた第3大隊は、背後から重大な脅威に備えて整然とした進軍ができなかった。それもその後の混乱した戦闘行動に影響を与えたかもしれない。

米軍は、戦死2名、負傷6名を出したが、日本軍の戦死者は27名以上と推定された [10]。この襲撃は、米軍にとって、物資を破壊してかつ日本軍の作戦に影響を及ぼすタイムリーな攻撃となった。3-6-2節で述べたように、米軍はそれまで何度かルンガ岬西のコクンボナに舟艇を用いた機動上陸戦を行っていた。それらはガダルカナル島守備隊から第17軍に伝えられたと思われるが、タイボ岬の川口支隊はほとんど無警戒だった。

また、8月17日には太平洋のマキン島に米軍約200名が潜水艦から奇襲上陸して、約70名の日本軍守備隊が全滅したばかりだった。それらから米軍の大胆さと積極さがわかる。日本軍はそれらの教訓を活かして、海上からの機動上陸に警戒すべきだった。

一方、米軍側にも日本軍の兵力を過小評価するという錯誤があった。もし川口支隊の移動が遅れていたら、4000名以上からなる川口支隊の兵力によって、850名の米軍部隊は、上陸用舟艇に乗って分散して到達した海岸で、個別に撃破されていたかもしれない。

10-4    日本軍の攻撃支援

10-4-1    日本海軍の攻撃支援計画

連合艦隊では、川口支隊による飛行場奪還を日米における艦隊決戦の場になると見ていた。すなわち、飛行場奪還そのものは、基地航空部隊の支援爆撃と陸軍の攻撃で可能であると考えて、その前後に起こるであろう敵機動部隊との艦隊決戦に重点を置いていた。この思想はこの後も繰り返される。 [18]は、この海軍の艦隊決戦重視の作戦思想が、海軍に陸戦の支援よりも艦隊決戦を追求させ、緊密な陸海協同を阻害したと述べている。

海軍は艦隊決戦に備えて、敵の哨戒基地を使用不能にするとともに、南東方面の哨戒を強化した。ソロモン諸島南半分とその南方の島々を航空攻撃し、サンタクルーズ諸島、ヌデニを潜水艦及び駆逐艦の攻撃によって破壊することが計画された。そして、レカタとギゾに飛行艇を設置しての哨戒、インデスペンサプル礁に潜水艦を配置して水偵による偵察と水上機母艦の水偵を用いたサンタクルーズ諸島北東方向の索敵が計画された。

南東太平洋地図(再)

その上で、機動部隊をトラック島に、そして支援部隊をガダルカナル島北方約1200 kmに待機させて敵艦隊の出現に備えるとともに、囮船団をガ島に 向けて南下させて敵艦隊の北上を誘うことにした。そして飛行場を奪還したならば、外南洋部隊 の駆逐艦などの艦艇はガ島泊地に突入して敵の退路を遮断し、これを捕捉繋滅し、支援部隊はこれに策応して南下して敵の機動部隊を追撃する [7, p488]、という綿密な作戦を立てた。

外南洋部隊(第8艦隊)では、陸軍の攻撃に応じて、全作戦の支援を第8艦隊主体(司令長官、重巡洋艦「鳥海」、駆逐艦「陽炎」)に、敵艦船の撃滅を支援隊(第6戦隊と駆逐艦「天霧」)に、ルンガ泊地へ乗り込んでの敵艦船の奇襲と陸戦協力を奇襲隊(軽巡洋艦「川内」と駆逐艦「敷浪」、「吹雪」、「涼風」)、敵艦隊の誘致を陽動隊(囮船団:駆逐艦「白雪」、「ぼすとん丸」、「大福丸」)などに割り当てた。陽動隊(囮船団)は、攻撃当日にガダルカナル島北方400 km付近で敵艦隊を誘致することになっていた。これらは極めて緻密な艦隊決戦用の計画ではあったが、飛行場奪還への支援にはあまり力が入れられていなかった。陸戦の直接支援は奇襲隊の4隻のみだった。

しかしながら後に述べるように、米軍は川口支隊による攻撃があることを直前まで察知しておらず、米軍の艦艇は補給とその護衛以外にはほとんど動きがなかった。哨戒機は南方で米軍の機動部隊を発見したが、そこで輸送船団の護衛に当たっていただけのようで、北上してこなかった。しかも後述するように、攻撃直前から川口支隊と連絡が途絶し、攻撃状況が数日後まで全くわからなかった。そのため、これらの緻密で入念な準備と配備は、多くの艦艇が川口支隊の攻撃状況の不明によって右往左往しただけで、川口支隊の攻撃開始時のガダルカナル島の艦砲支援射撃を除いて、この艦隊決戦計画はほとんど役に立たなかった。

10-4-2    日本軍航空部隊による爆撃

米軍の記録では、輸送艦ベラトリックス(AK-20)とフラー(AP-14)が、9月7日にガダルカナル島に到着したが、日本軍の航空攻撃により荷を揚陸できずに引き返して輸送阻止に成功した [9]。しかし記録によると、第11航艦は7日にはポートモレスビーを攻撃しており、ガダルカナル方面への出撃がない。第25航艦と第26航艦の戦隊日誌、および戦史叢書には、9日にタイボ岬沖を西進中の大型輸送船2隻、駆逐艦5隻を、陸攻27機が爆撃したとあるので [7, p449]、米軍記録は9日の間違いかもしれない。

日本軍のタイボ岬への上陸に気づいた米軍は、10日から飛行場南側のムカデ高地(米側呼称ブラッディ・リッジ)への兵の配備を始めた。兵士たちは爆撃頻度が高い飛行場周辺から逃れられると思ったが、そうではなかった。日本軍の爆撃機は、今度はムカデ高地を爆撃し始めた。これは逆にこの方面からの日本軍の攻撃を予想させた。11日に米軍の師団砲兵司令部は地図に基づいた射撃諸元を制作し、射撃管制部隊で射撃計画を立案した。105mm榴弾砲は、それに応じてムカデ高地稜線防御を近接支援できる位置に配置された [15]。後述するように、これが功を奏したと思われる。

第11航空艦隊は、機数を集めるため、四空の陸攻と六空の零戦を25航戦と26航戦に組み入れた。そして9月9日から13日までガダルカナル島の爆撃を行った。陸上での攻撃が始まる日の12日までに行った爆撃は、艦船1回、敵陣地2回、飛行場1回となっている [29, p95]。各攻撃は陸攻25-26機に零戦15機程度が護衛についた。

9月13日には、8日に上陸した米軍がまだいると思ったのか、タイボ岬を陸攻26機、零戦12機で爆撃・銃撃した [29, p98]。タイボ岬に残留していた日本軍は、米軍によって通信機材が破壊され、連絡する手段がなかったのだろう。味方であることを知らせようとしたのかもしれない。爆撃による日本軍兵士の遺体が、現地住民の米軍斥候によって後に発見されている [15]。通信手段がなかったための悲劇としか言いようがない。

ガダルカナル飛行場でF4F戦闘機の火を消す米海兵隊の地上勤務員、1942年 。https:/ww2db.com/images/battle_guadalcanal44.jpg;

ガダルカナル飛行場爆撃で破壊されたSBD急降下爆撃機。1942年。https:/ww2db.com/images/battle_guadalcanal6.jpg;


10-5    川口支隊の展開

10-5-1    第17軍司令部との通信不通

川口支隊には、軍固定無線小隊が配備されていた [7, p450]。しかし、どういう理由かわからないが、川口支隊と第17軍の間の直接の通信が不通となった [7, p457]。そのため川口支隊は、出力の弱い砲兵隊の旅団無線を使って、ガダルカナル島守備隊に中継してもらって連絡をとっていた [7, p467]。

そして攻撃開始日の12日以降は、第17軍は川口支隊と連絡が全くとれなくなった。この理由もわかっていない。第17軍ではそれから15日朝まで肝心の攻撃の状況がまったくわからなかった。川口支隊長は、はっきりしない戦況のために、第17軍司令部への連絡を行わなかったのだろうか?戦況が不明のため、後述するようにラバウルの第17軍司令部と南東方面部隊では、さまざまな憶測によって混乱した。これについては、11-2-3節でも検討する。

10-5-2    飛行場東方への展開:イル川方面

川口支隊長は5日1300時に、部隊に対して攻撃計画を示達した。それは一木支隊の轍を踏まないように、内陸のジャングル内を潜行し、飛行場南東側から敵の背後を奇襲するというものだった。飛行場の南東側、日本軍から見て手前には低い丘陵の峰(ムカデ高地と呼ばれる)が、飛行場に向かって北西方向に位置していた。

日本軍は、南東側から北西方向にムカデ高地を縦断できれば、飛行場へ到達することができた。そのムカデ高地に向かって右翼隊を熊大隊が、中央部右第1線を第3大隊が、中央部左第1線(実質的にムカデ高地に対する左翼)を第1大隊が、中央部第2線を青葉大隊が攻撃を担当した。そして左翼隊として、岡部隊である歩兵第124連隊第2大隊(舞鶴大隊)と青葉支隊が、ルンガ岬西方から攻撃することになっていた。川口支隊司令部は第2線の青葉大隊の後を追随した。

川口支隊の上陸から攻撃準備までの行軍図(再)

川口支隊長は9日に攻撃日を12日夜と決定し、各部隊に通知した [7, p455]。そのほかに3個砲兵中隊がテナル川手前の海岸寄りに配置された。砲兵隊は、夜襲に先だって敵陣地を2000時から30分間砲撃して、敵を牽制する予定だった [7, p457]。敵の火力が優勢であることから、夜が明けると不利となるため、一夜のうちに雌雄を決することを想定して、川口支隊は予備隊を置かなかった。攻撃は12日1200時までに準備を完了し、1600時に準備位置から進撃を開始、1700時から一斉に夜襲をかけることになっていた(攻撃開始は2000時からという説もある) [7, p445]。

後述するように記録の問題があるが、攻撃前の部隊の配置状況を確認する。中央右攻撃隊である第3大隊は、12日2000時にどうにか攻撃準備位置付近に到着したが、この時点で攻撃予定時刻を過ぎていた。中央左攻撃隊である第1大隊は、12日朝に高地に出ると米軍から射撃を受けた。実はこれがムカデ高地だった。第1大隊はこの高地を迂回し、さらに西進して、1530時に攻撃準備位置に到着した。第二線攻撃部隊である青葉大隊は2100時頃に攻撃準備位置に到着した。右翼隊である熊大隊は、1000時に攻撃準備の推定位置に到着した。しかし、そこは予定地点よりかなり手前の東方だった [7, p452-456]。

これを見ると、熊大隊以外は所定時刻に少し遅れたものの、攻撃予定位置に着いたように見える。しかし当日の攻撃は、第1大隊を除いてそれほど多数の部隊が参加したようには見えない。地図の不備や磁石磁針の偏差により、着いたと思った場所は予定場所とは異なっていた可能性がある。また各大隊も全ての部隊が到着していたかどうかわからない。第17軍司令部の分析(小沼参謀の回想)では、攻撃したのは川口支隊5大隊中、第124連隊第1大隊と第4連隊第2大隊(青葉大隊)の2個大隊に過ぎなかったとなっている [7, p482]。

10-5-3    飛行場西方の展開:マタニカウ川西岸コカンボナ方面

カミンボには独立工兵第6連隊の船舶工兵部隊が海岸基地を設立し、大発と小発を合わせて20数隻を擁して、今後の補給に備えていた [7, p460]。第124連隊の岡部隊は、舟艇機動により9月5日にガダルカナル島北西部のカミンボ周辺に到着したことは8-5節で述べた。しかし到着は分散しており、行方不明となった部隊も多く、兵力は約300名に減っていた。その後、サボ島などに流れ着いた部隊が合流して、7日にはどうにか約650名となった [7, p459]。しかし失った装備も多かったと思われる。

この部隊に配属されていた特設無線分隊はセントジョージ島に取り残されたので、岡部隊はガダルカナル島守備隊を通して川口支隊本隊と連絡を取った。しかし川口支隊長は、舟艇機動の惨状を軍本部には伝えなかった [7, p458]。岡部隊は8日にカミンボからコカンボナに向かって東進し、11日に同地のガダルカナル島守備隊と会合した。また各地に漂着した岡部隊の兵士は、結局駆逐艦で集められて10日から12日にかけてカミンボに到着した。

1942年9月初旬頃、ガダルカナルに到着して行軍する日本軍兵士。背景はサボ島。https:/ww2db.com/images/5b8fd605a8313.jpg

11日0940時に左翼の岡連隊長は、麾下の部隊に対して12日夜の攻撃命令を示達した [7, p461]。それは「連隊本隊と青葉支隊の1大隊は12日飛行場西南3kmに進出し、敵を夜襲する。舞鶴大隊(第2大隊+連隊機関銃中隊、無線分隊)は、飛行場西岸南方の敵を夜襲する。11日夜にカミンボに到着予定の青葉大隊(歩兵第4連隊第3大隊)は、そこから舟艇機動によりコカンボナに上陸し、舞鶴大隊の後方で第2線をなす」というものだった。

左翼隊の青葉大隊(第4連隊第3大隊)は駆逐艦輸送により、予定通り11日2220時にカミンボに上陸した。青葉大隊はカミンボに向けて東進を開始したが、命令にある舟艇ではなく陸路をとった。この理由はわかっていない [7, p461]。カミンボからタサファロングまではいくつかの河川を渡河する必要がある上に、海岸に沿った道は上空に暴露しており、昼間は進軍に時間を要した。カミンボからマタニカウ川まで距離は20 km以上あり、フル装備での陸路の行軍では、翌12日夜の戦闘に参加できなかったのではないかと思われる。また、舞鶴大隊の方もまだ分散しており、この時はまだ実質歩兵二個中隊を中心とするだけだった。

川口支隊の構成図。所属部隊毎に色を変えている(再)

青葉大隊には作戦指導のため第17軍の松本参謀が同行していた [7, p451]。しかし、上陸したのは攻撃開始直前であり、川口支隊がいる反対側の左翼隊で、しかも上陸位置は前線からは遠く離れていた。作戦指導といいながら、結局は事後処理が目的だったと思われる。そして彼が持って行った第17軍の指示により、もし攻撃に失敗したならば川口支隊は飛行場を南に迂回して西進し、マタニカウ川西岸に集結することになっていた。

10-6    米軍の展開

米軍防衛線の南と南東では、海兵隊と現地住民からなるパトロール隊が日本軍とたびたび衝突していた。そのため海兵隊は、日本軍による攻撃が迫っていることに気づいていた。ただ、その攻撃場所はわからなかった。

海兵隊はムカデ高地付近の防衛を強化したが、南東側は防衛の空白域となっていた。ムカデ高地付近のルンガ川東側については、第1海兵隊と砲兵隊、工兵隊、施設隊が守っていた。そこから南東に向けてムカデ高地が走っていた。この高地の北端に師団司令部があった。この尾根を突破されれば、飛行場への接近を許すことになる。このムカデ高地の南東端に、ツラギから移動してきた精強な襲撃大隊と空挺部隊を、尾根の両側にそれぞれ配置した [9]。ムカデ高地は視界を確保するために雑草が刈り払われ、あちこちに機関銃壕が掘られ、有刺鉄線が張り巡らされた。

さらにムカデ高地北方には予備として第5海兵隊を配置した。ルンガ川と第5海兵隊の間には工兵隊が配置された。LVT(水陸両用トラクター)部隊もこの工兵隊の北西に配置された。予備の軍は、もし北西方面から組織的な攻撃があれば、それにも対応する予定だった。

後述する12日夜の攻撃の後、米軍の配置が多少変更された。師団予備であった第5海兵隊第2大隊は、13日午後、ムカデ高地の地形を確認した後、そこでの戦闘に備えてムカデ高地のすぐ北に移動した。この部隊は、ムカデ高地での激戦時に応援に駆けつけて、日本軍の撃退に大きく寄与することになる。第11海兵隊第5大隊の砲兵(105mm榴弾砲)がムカデ高地稜線の直接支援に割り当てられた。この砲兵は高地南方地域への砲撃のための諸元を設定したが、信頼できる地図がなかったため、着弾点の正確な区画割は不可能だった [9]。

ルンガ岬付近の米軍配備図(9月12日頃)
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10-7    ムカデ高地での戦闘

10-7-1    9月12日夜の攻撃の混乱

12日の2200時頃から、奇襲隊の軽巡洋艦「川内」と駆逐艦「敷浪」、「吹雪」、「涼風」の4隻が、攻撃支援のため約1時間にわたってガダルカナル島飛行場を砲撃した。米軍によれば、「いままでにない規模のものすごい砲撃」と回想されている [8, p207]。しかし、砲弾のほとんどは防衛線より外の東側に落ちた [10]。イアン・トール著「太平洋の試練」は、これによって士官2名が戦死、他2名が負傷したと書いている [8]。 [15]では砲弾はムカデ高地尾根周辺に落ちたとしている。これが被害の全てかどうかはわからないが、他の資料にはこの砲撃による被害は書かれていない。

後に最大の攻撃力を発揮することになる砲兵陣地は無傷だった。これは、陸上から観察した射撃制御を行わない場合の艦砲射撃の限界だと思われる(11-2-2節で述べるように、日本軍は米軍砲兵陣地の位置もおそらく知らなかった)。しかもこの時点では、日本軍部隊の多くは計画通りに所定の攻撃位置に着くことがまだ出来ておらず、この艦砲射撃を活かした攻撃は出来なかった。

9月12日2130時頃から始まった陸上戦闘の詳細は、実はわからない部分が多くある。米軍では、日本軍の兵力が不明だった上に、タシンボコの襲撃によって日本軍が逃走しているのではという推測もあった。米軍は、防衛線の外側へ送ったパトロール隊が散発的な銃撃戦に遭遇していたが、それ以上のことはよくわからなかった。

日本軍も、正確な地図もないジャングルを啓開しつつ手さぐり状態で進撃してきており、磁針の偏差もあって自隊の位置さえも確認できない部隊があった [29, p114]。また、各部隊の通信が貧弱で、司令部でもどの部隊がどこでどの程度の攻撃を行ったのかが、ほとんど把握できなかった。しかも翌日の戦闘を含めて大隊長をはじめとする多くの将校が戦死したため、戦闘後の正確な記録もあまり残らなかった。

[7]の記述を、一応要約しておくと、右翼隊だった熊大隊は、暗闇と密林のため思うように前進できず、攻撃開始時刻に所定の位置に着くことができなかった。ところが、他の大隊も攻撃している様子がなく、そのまま前進を続けている間に夜が明けてしまった。その時点でも、この大隊の位置はまだイル川の上流6 km地点で、攻撃開始予定地点の手前だった。

中央隊右の第3大隊は、遅れた大隊砲部隊を待たずに予定通り夜襲を開始し、米軍の警戒線らしきものを突破した。夜が明けて激しい砲撃を受けて相当な被害を受けたが、正午頃までは攻撃を続行した。中央隊左の第1大隊は、やはり大隊砲部隊が後方に落後したまま前進したが、途中で第3大隊の一部が混入してきたため、一時ルンガ川左岸?に集結し直した。その時点で夜明けが近かったため、夜襲を中止して攻撃開始位置まで戻った。しかし、この戦線に対応する米軍のC中隊は、日本軍の攻撃を受けて後退している。第2線の青葉大隊は、第1線部隊と連絡がとれず、進撃することなく待機したまま夜が明けてしまった [7, p465]。

[24]には、9月12日の攻撃を「夜暗と密林のため一部の米軍と接触したにとどまり、三方面とも空しく天明を迎え、旧攻撃準備位置に復婦した。」とだけ書かれている。米国陸軍の報告でも、「何人かの日本兵が実際に空挺部隊の陣地を突破したが、彼らはそれに気づかなかったので、その利点を利用しようとしなかった。」とだけ書かれている [9]。日米の日誌、戦史、回想録などによると、この日の夜襲は、実施、延期、中止、散発的、一部占領など、内容がまちまちとなっている。米軍の資料の中には、12日の日本軍による攻撃は、米軍を試す試験的なものだったとしているものもある [22]。

9月12日の攻撃の記録については、 [7]の付録第六に、日本軍の資料の作成経過と米軍の諸資料との関係を使って、各資料の詳しい分析が行われている。その結論として、この戦闘で起こったことは、「日本軍の一部は攻撃をかけて米軍の前哨線を混乱させたが、飛行場への突進は阻止された」としている [7, p569]。日本軍は、ジャングルの中で、部隊が位置を見失ったたり、バラバラになった部隊があった。攻撃日を繰り上げたためか、攻撃位置につくのに間に合わなかったり、部隊全体が揃わなかったりして、予定通りの攻撃を行えたのは一部の部隊だけだったようである。

参考のため、アメリカ海兵隊の公式記録も要約しておく(ただし、それで全体像がわかるわけではない)。その記録によると [10]、日本軍艦船からの艦砲射撃が終わった2130時頃に、照明弾が上がってムカデ高地(ブラッディリッジまたはエドソンリッジ)に向けて、南東から日本軍の突撃が始まった。海兵隊はこの細長い高地の尾根に垂直なT字型で、(米軍司令部から見て)右翼2隊、中央1隊、左翼1隊の4つの中隊が守っていた。日本軍の攻撃は、高地中央とそのすぐ横の右翼を守っていた2つの中隊に集中した。

海兵隊の他の中隊も、状況がよくわからず戦闘中に他へ兵力を転用したりして、効果的な防衛が出来なかった。海兵隊は日本軍の攻撃を支えきれず、ムカデ高地の裾野から中央部尾根まで一旦退却して、尾根だけに戦線を縮小して集中して守った。日本軍はこの尾根の南東部の一角を占領し、そこで夜が明けた。尾根では昼間は爆撃や砲撃の標的になると思ったのか、日本軍は尾根からジャングル内にいったん退却した。

これだけで見ると、米軍左翼を攻撃するはずの日本軍の中央隊右が米軍右翼を攻撃していたと考えると辻褄は合うが、実態はわからない。少なくとも米軍は、この12日の日本軍の攻撃を、4個大隊によって飛行場まで蹂躙しようとした本格的な作戦だった、とは思わなかったようである。

10-7-2    9月13日夜の右翼隊の攻撃

13日昼間もこの攻防は続いたが、険しい地形のため、両軍とも小グループにわかれた戦闘になったようである。夜明け後に川口支隊長は各大隊と連絡をとったが、各隊は現在位置さえ正確にわからない状況だった [7, p468]。

この間に米軍は鉄条網を張り直して防衛線を再び整備した。また前述したように、予備だった米軍第5海兵隊第2大隊の隊長と中隊長たちは、このムカデ高地尾根付近に派遣されることを予想して、13日昼間にこの地域の偵察を行った。これが後で役に立つことになる。

日本軍は、昼間は砲撃や爆撃の対象となるので動けなかった。川口支隊長は、1020時に2000時から再度の夜襲を行うという命令を出した。中央隊の各隊には無線が使えず、伝令に命令を口述筆記させて持たせた。本格的な戦闘は同日の夜襲から始まった。

右翼の大隊長水野少佐は、第1中隊と第2中隊を率いて敵防衛線を攻撃したが失敗し、水野大隊長は戦死した。中央隊右の第3大隊は、参謀本部の作戦史では、敵第1線を突破したが頑強なる抵抗に遭い、これを撃退したものの現位置を確保となっている。しかし、支隊長の手記や大隊長の手記からすると、参謀本部の記録のような夜襲を行えたのは一部だけだったようである [7, p471]。

第11海兵隊第5大隊の砲兵が2100時に砲撃を開始し、その後まもなく第2砲兵陣地、第3砲兵陣地が加わった。すべての砲兵陣地が稜線上の海兵隊の頭を越えて砲撃した。日本軍の攻撃が激しさを増すにつれて、第5大隊砲兵隊は集中砲撃を行った。砲兵隊と前方監視員との間の通信は約2時間途絶えたが、砲兵隊はそれに構わず予めの想定範囲の砲撃を続けた [9]。

日本軍中央隊左の第1大隊は、予定通り夜襲を決行した。ムカデ高地の敵陣を突破しようとしたが、海兵隊の第1陣を抜くことはできたものの、第2陣を突破することはできなかった。米軍の砲撃は熾烈で、中央隊左は大隊長以下多数の戦死者を出し、夜が明けると占領地の確保も難しくなって撤退した [7, p471]。

第2線攻撃部隊の青葉大隊は、結局最も前進した部隊となった。同部隊は、突入予定時刻になっても支隊命令が来ないので、独断で攻撃前進を開始した。左第1線では敵第2陣を突破したが、各小隊長を含めて多数の損害を出し、中隊長は残存兵力を集めて引き続き突進したが、中隊長が戦死すると、そこで突撃は弱まった。右第1線では敵第1陣を突破するとともに、敵の間隙を突いてムカデ高地北東部まで進出した。大隊長はさらに予備の中隊を投入して攻撃を続行した。同部隊は、夜が明けると飛行場南東部の米軍の幕舎(海兵師団司令部)が見える地点まで進出したが、支隊長よりの撤退命令により撤退した。

米軍側の記録では次のようになっている。2100時の砲撃から日本軍の攻撃が始まり、最初の攻撃によって防衛線は後退したものの、迫撃砲の猛射で日本軍の突撃を止めた。日本軍はいったんジャングルに退却した。夜中の0000時頃に火砲の支援を受けて再度の突撃が始まった。米軍資料は日本軍は夜間に12回ほどムカデ高地に突撃したとしている [9]。日本軍の攻撃にはロケット照明弾(信号弾のことか)が用いられたため、これが砲撃の格好の目標となった。

米軍から見た9月13日のムカデ高地の様子。赤矢印は日本軍が行った攻撃の推定。黒実線は米軍退却路、黒破線は第5海兵隊(予備)の進路
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米軍は、砲兵に連絡して最終防衛線の向こうに砲弾を集中させて、日本兵を撃退した。最後の突撃は、0200時頃だった。ムカデ高地の稜線の両側で日本軍の迫撃砲が炸裂し、日本兵が突進してきた。日本兵は飛行場まで300mに迫った。米軍では着弾観測員が倒れると、別な者が咄嗟に砲兵に指示を行った。

戦線は混乱しており、日本軍前線の後方から米軍兵士の砲兵への電話連絡が聞こえるほどだったという [7, p473]。中隊の50-60名はムカデ高地を越えて飛行場南東に進出した。夜が明けると米軍の幕舎が見えた。これは、第1海兵師団司令部と工兵隊の宿営地だった。しかし、ここまでの進出が限界だった。日本軍の進出に気づいた米軍は、この部隊に砲撃を集中し、部隊は撤退した。

米軍は、105mm砲弾1992発を使って約1.5 km先の目標を砲撃したと記録している [9]。すさまじい火力だったことがわかる。この大量の砲弾による集中砲火と予備の第5海兵隊の投入によって、上記の司令部付近まで進出した一部を除いて、0230時頃には日本軍は退却した。夜が明けると、米軍は航空機で上空から掃討を行った [15]。日本兵の死体は500以上を数えた。

なお、この13日2200時頃、飛行場占領の誤報によって敵の退路遮断のために駆逐艦「陽炎」「白雪」がルンガ岬沖に進出しており、飛行場の東方で盛んに照明弾が上がって交戦中であることを認めた [29, p104]。ところが、飛行場未占領のため帰投せよとの指示で、そのまま帰途についている。海軍には、予め第17軍から攻撃中のルンガ岬を砲撃しないようにとの指示も来ていた。

しかし、飛行場攻撃中に駆逐艦の5インチ砲12門が攻撃目標の手近な所にあったことになる。上海事変では、艦砲射撃・爆撃のために方眼を有する地形図の作成も行われており [2, p108]、照準の目印となる灯火を海岸に設置しておけば、目標を狙った艦砲射撃は技術的には可能だっただろう(後の戦艦「金剛」「榛名」による艦砲射撃はそうやって行われている)。しかし、2隻の駆逐艦は指示通り何もせずに退去した。米軍だったら、地上の射撃管制部隊が着弾を見ながら無線で砲弾を目標に誘導して、それを破壊したかもしれない。このように日米の戦闘形態の違いは明白だった。

日本軍の死傷者の割合(工兵や砲兵を除く)は、第124連隊直轄部隊が12.3%、第1大隊が37.7%、第2大隊が15.2%、第3大隊が15.9%、青葉大隊が21.4%、熊大隊が13.1%となっている[7, p484]。第1大隊が4割近くと突出して多く、ついで青葉大隊の2割となっており、それ以外は1割強である 。日本軍の戦死者は、約4000名のうち633名だった。決して全滅に近い被害を出したわけではないことがわかる。各大隊の攻撃には斑があった。ちなみに米軍のエドソン中佐が指揮した襲撃大隊と空挺部隊は、ムカデ高地で死者59名、行方不明者10名、負傷者194名を出した。これによって、空挺部隊は上陸時のガブツ島での損害と合わせて実質的な戦力を喪失した。

10-7-3    9月13日夜の左翼隊の攻撃

左翼隊の岡部隊は、13日1615時にマタニカウ川を越えてトラ高地に向けて前進を開始した。岡左翼隊長は、2040時に舞鶴大隊には右手にある高射砲陣地を、青葉大隊には左の海岸線付近の敵を攻撃するように命令した。舞鶴大隊は敵陣の一角を占領したが、敵の集中砲火でそれ以上前進できず、夜が明けると空爆を恐れてか撤退した。1153名中死傷者は125名だった [7, p483]。青葉大隊は海岸を前進し、翌0430時頃マタニカウ川を2 km越えた付近で敵と遭遇した。正面の敵と海上からの舟艇による攻撃を受けて攻撃は頓挫した。左翼(西側)からの攻撃はこれらだけだった。

10-7-4    攻撃後の日本軍の行動

攻撃のための進出時に、各部隊がジャングル内に分散したため、支隊司令部ではその掌握がきわめて困難になっていた。14日朝になって支隊長の攻撃中止の命令が各部隊に伝達された。各兵士は、タイボ岬を出発する際に1~2日分の糧食を携帯していただけだった。タイボ岬の根拠地の食糧は焼き払われた。無線機を破壊されたタイボ岬の様子はわからず、まだ米軍が占拠しているかもしれないと考えられていた。

川口支隊長は14日1105時に、現位置(飛行場東方)から飛行場の南側を西方に迂回して、ガダルカナル島守備隊がいるマタニカウ川付近に集結することを決断した。マタニカウ川付近はガダルカナル島守備隊がいる上に、ラバウルからの補給の点からも有利と考えられた。

日本軍にとって幸いなことに、米軍は川口支隊を追撃する余裕がなかった。飛行場南側を守っていた空挺部隊は、ガブツ島上陸以来、この戦闘を含めて死傷者は5割を超えていた。もう一つの襲撃大隊もツラギ島に上陸以来、死傷者は30%を超えていた。日本軍が再度攻撃をかけてくる可能性もあり、それを防ぐ準備も必要だった。ガダルカナル島の米軍司令部もまだ混乱していた。

14日夕方には、川口支隊の攻撃不成功を知らないショートランドのR方面航空部隊(水上機部隊)は、朝方に二式水戦3機で戦況偵察に向かったが、全機未帰還となった。日没直後に水戦2機、零式観測機19機で、ガダルカナル島を爆撃した。しかし空戦により、自爆2機、未帰還1機。不時着2機を出した [29, p110]。

10-7-5    川口支隊の転進

川口支隊長は攻撃失敗によって、14日1105時に西方へいったん離脱することを命じた。支隊長はいったん離脱して攻撃を再興するつもりだった。支隊本部はルンガ川西南地区へ、右翼隊(熊大隊)と中央隊(第1大隊、第3大隊、青葉支隊)は、アウステン山東北の麓への集結を命じた [7, p501]。第1大隊、第3大隊は15日までに所定の位置に到着した。右翼隊(熊大隊)は15日朝になって離脱命令を知って、同日中に退却した。しかし、青葉大隊(第2大隊)は敵陣深く侵入しており、一部の部隊は飛行場南東方向で米軍と対峙していたので、離脱が遅れた。16日夕方になって離脱を開始したが、食糧も尽きており、2日後に所定の場所に集結できたのはわずか300名足らずだった [7, p502]。

ガダルカナル島北西部図(再)

川口支隊長は、15日になってようやく各隊の状況がわかってきた。またエスペランスにいて第17軍司令部の指示を受けた松本参謀から、状況不利な場合はマタニカウ川左岸(西方)に集結して、後続部隊の来着を待てとの連絡を受けた。攻撃再興を断念した川口支隊長は、1900時に左翼隊とガダルカナル島守備隊などがいるマタニカウ川左岸へのさらなる集結を命じた。

支隊はアウステン山南麓をマナニカウ川沿いに北進して、早い部隊は18日朝に左翼隊である第124連隊の連隊本部に到着した [7, p504]。兵士たちは13日の攻撃以来手持ちの食糧はなく、飢えながら雑草などを食べつつ急峻なジャングル地帯を進んだ。この退却中に、異例なことに重火器の全てと小銃の半数がジャングル内に放棄された [7, p505]。武器類は天皇から下賜されたことになっており、その遺棄は通常であれば許されないことだった。兵士たちは草や葉をかじり、泥水をすすりながら、8日かかってようやくガダルカナル島守備隊の位置にたどり着いた部隊もあった。

10-7-6    攻撃後のマナニカウ川西方の状況

川口支隊の攻撃に不安を覚えていた第17軍は、青葉支隊の歩兵第4連隊第1大隊(兵士1116名、連隊砲6門。速射砲4門、食料等)は、ショートランドから駆逐艦「海風」、「江風」、「浦波」、「敷浪」、「嵐」、「叢雲」、「白雪」に分乗して、15日夜にカミンボに上陸させた [29, p106]。その際に一部の駆逐艦は揚陸に使う大発を曳航した。この部隊はもちろん戦闘には参加していない。

18日には、ガダルカナル島守備隊の観測によって、米軍輸送艦6隻と護衛艦艇がルンガ岬に入ったことがわかった(これは後述する米軍の増援部隊だった)。この日も第4駆逐隊の輸送隊「嵐」、「海風」、「江風」、「涼風」がガダルカナル島に兵員等を輸送することになっていた。しかし、この知らせを聞いて増援部隊指揮官は、主隊である軽巡洋艦「川内」、駆逐艦「浦波」、「白雲」、「叢雲」、「濱風」とこの輸送隊を合同させて、9隻で敵輸送船団を攻撃することに決心し、0830時にショートランドを出撃した。

ところが、ガダルカナル島守備隊から敵船団は1830時に出航したという知らせを聞いて攻撃を中止し(米艦船は日本軍艦船による夜襲を避けるため、夜間は退避していた)、兵士170名、野砲4門、物資のカミンボへの揚陸のみを行った [29, p139]。この後月明時期を迎えて、鼠輸送もままならなくなり、9月25日以降はガダルカナル島への輸送はいったん中断された。

10-7-7    ラバウルの陸海軍司令部の状況

第17軍と海軍の南東方面部隊では、12日夜からの川口支隊の攻撃と合わせていろんな手を打つ必要があった。それにもかかわらず、10-5-1節で述べたように戦闘直前から川口支隊との連絡が絶え、現地の状況がわからなくなった。海軍の南東方面部隊では、12日夜に水偵で偵察を行ったが、全機撃墜されたのかその報告は上がってこなかった。13日早朝になって、25航戦は戦況の確認のため、陸偵2機を零戦の護衛付きで派遣した。

海軍では川口支隊に対して、飛行場を使用不能にできた場合と占領が成功した場合に分けて、上空からの偵察でわかるように、飛行場にかがり火を付けるように連絡してあった。第11航空戦隊の航空機は、早朝に滑走路上にかがり火2個を発見した [7, p476]。これが上記2機の陸偵によるものかどうかはわかっていない。上記の陸偵2機は別々に行動したが、1機は味方戦闘機が上空で敵機と交戦中と報告した(つまり敵は飛行場を使っている)。ところが別な1機は飛行場は利用されていないと、相反する内容を報告してきた。

第11航空艦隊では判断に迷ったが、諸状況から占領に成功したものと判断し、13日の1108時に「飛行揚占領セルコ卜概ネ確実卜認ム」と打電した。第8艦隊もそれを追認する電報を発した。ところが陸偵が1400時に戻ってくると、それに搭乗していた陸軍の航空参謀は、ガダルカナル島上空で敵機の迎撃を受け、敵の飛行場利用には疑問の余地がないと説明した。第11航空艦隊は1405時に前電を取り消す電報を発した [7, p477]。

陸軍第17軍では13日になっても川口支隊長と依然連絡がとれず、川口支隊が12日の攻撃日を延期したと推測していた。米軍の通信状況は12日夜半の日本軍の準備艦砲射撃に関するものを除いて平常と変わらず、海軍は上記の陸偵の結果、敵機の活動は活発と報告した。第17軍は、地上での火災、爆煙、砲撃などの戦闘の兆候がないため、川口支隊は攻撃を延期したと判断し、その旨を東京へ打電した [7, p477](前述したように、この日の攻撃は失敗していた)。

ラバウルの陸海軍司令部では、14日になっても攻撃状況に関する報告が全くなく、肝心の状況が全くわからないために、さまざまな推測が飛び交った。第17軍司令部では、川口支隊の攻撃位置への進出が遅れているのではないか、相互の連絡が取れていないのではないか、まだ攻撃準備に時間がかかっているのではないかなど、さまざまな憶測で混乱していた [7, p478]。ラバウルの司令部では、米軍の通信状況を探ったが、平常と変わらなかった。14日午後になってカミンボに上陸していた松本参謀から連絡が届いた。しかし、その内容は川口支隊は攻撃を14日夜に延期したというものだった [7, p479]。この連絡の経緯は不明である。実際には13日夜~14日朝にかけて攻撃は失敗していた。

15日朝になって、川口支隊長からようやく報告が入った。それは、敵の抵抗は意外に大きく、大隊長以下多数の損害を蒙ったため、やむなく西方に兵カを集結して再興を図るというものだった。第17軍司令部は、ここにきて初めて川口支隊の攻撃失敗を確認した。
 

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